表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/20

第01話 真夜中の接触

毎日7時10分更新中です。

 憲法改正から三年。日米地位協定撤廃から一年。


「主権国家」に生まれ変わったはずの日本は、辺野古の海の前で、変わらず沈黙していた。V字滑走路の本体工事は最終段階を迎え、昼夜を問わずクレーンの灯りが沖合いに浮かぶ。新たに締結された「日米安全保障協力枠組み協定」の下で、米軍の法的特権は縮小された。だが——闇は、形を変えて生き残った。


 その闇の最初の小さな灯が点いたのは、六月十四日、午後十一時十七分。辺野古の建設作業員駐屯地から三百メートル離れた県道脇で、三十四歳の女性の遺体が発見された。比嘉恵子——名護市在住、反対運動に参加する主婦。報道はそう伝えた。単なる悲劇的な事件として。


 だが、元海上自衛隊特殊部隊(SF)隊員で、現在は沖縄で探偵事務所を営む桐嶋篤は、そのニュースを見た瞬間に違和感を覚えた。彼女の名前は、十年前——あの「アイアン・シールド」演習の非公式記録の中に、一度だけ現れていたからだ。


 彼はその夜、軍用端末の電源を入れた。暗号化チャットのログに、音信不通だった田所少佐からのメッセージが届いている。『十年前の共同演習の詳細について、至急話がしたい』。送信時刻は午前三時四十七分。彼がそのメッセージを開いた時、すでにカウントダウンは始まっていた。遺族からの依頼は「娘が何に関わっていたのか知りたい」というものだった。だが被害者の遺品——暗号理論書、軍用通信機の図面、暗号化されたメモ——は、彼女が単なる活動家ではないことを、静かに、しかし確かに物語っていた。


 調査を進めるごとに、桐嶋は知ることになる。地位協定が消えた後も、日米同盟の闇はより巧妙な形で生き残っていることを。新たに設置された「日米合同調整室」の名の下に、非公式な情報共有経路が組織され、両国の法的規律から逃れた工作員たちが暗躍していることを。そして比嘉恵子は、その網の内部に足を踏み入れたがゆえに——消されたことを。


 残された時間は、九十六時間。


 国家の論理と個人の正義のはざまで、桐嶋篤は「父親」として最後の選択を迫られる。全ての公式ルートが閉ざされた時、彼は自らの戦術的スキルと、沖縄の地で培った人脈だけを頼りに、一人で闇に立ち向かうことを決意する。娘を守るために。そして——十年前、任務の代償として見殺しにした民間人の記憶を、ようやく終わらせるために。


 これは、一人の元自衛官が父として、元軍人として、制度の外側で真実と対峙する——九十六時間の記録である。


 辺野古の海は、まだ闇の底に沈んでいた。午前六時を回ったばかりの探偵事務所は、夜気が冷たいまま残っている。窓の外、基地工事のクレーンが灰色の空に影を落とす。デスクの上では軍用端末のディスプレイが青白く光り、昨晩消したはずの画面には新たな履歴が累積していた。


 桐嶋篤は右手の親指と人差し指で顎を擦った。かつて海上自衛隊特殊部隊で叩き込まれた癖だ。十年が経っても、緊張の兆しはこの仕草に現れる。暗号化チャットのログに、音信不通だった男の名前が表示されていた。『田所少佐』——かつての演習「アイアン・シールド」の指揮官だ。送信時刻は午前三時四十七分。メッセージは一行だけだった。『十年前の共同演習の詳細について、至急話がしたい』。


 彼はコーヒーを淹れようと手を伸ばし、止めた。喉越しよりも、今は脳を苛立たせるカフェインが必要だった。端末のキーを叩き、過去のデータベースへ潜った。田所の連絡経路は民間回線を偽装しているが、暗号パターンに旧軍の癖が残る。尋ねる内容も、公開記録にない細部に及んでいる。


「演習は二週間で終わったはずだ」


 彼は独り言のように呟き、デスクの引き出しを開けた。奥から取り出したのは、部隊記念の集合写真だった。田所の姿はその中にいた。だが、演習の最終日、彼が目撃したのは書類にも写真にも記録されていない光景だった。米軍輸送車が演習区域外から搬入した、規格外のコンテナ。


 外部からの接続要求が端末に再び表示された。同じ暗号パターン。桐嶋は応答せず、物理的な遮断スイッチを押した。デスクの下に手を伸ばし、隠し金庫のダイヤルを回し始めた。


 彼の問いかけは空気に消えた。田所の接触は偶然ではなかった。それは警告であり、罠の匂いがした。十年前の闇が、今また彼の前に立ち塞がろうとしていた。


 隠し金庫の分厚い扉が閉まる音が、事務所の静寂を切り裂いた。桐嶋篤はその前に跪き、額を冷たい金属面に預けた。呼吸だけが耳朶で渦巻く。端末を遮断して三十分。脅威は電波の外へ拡散したままだ。


 彼はゆっくりと立ち上がり、執務室の照明を落とした。僅かな月光が、調査ボードに貼られた辺野古の現場写真を浮かび上がらせる。娘の写真立てに手が伸び、枠の縁を指でなぞった。約束を守ると、彼は無言で繰り返す。


 軍用端末と暗号化通信機を小型の耐火ケースに収め、隠し金庫へ戻す。拳銃はデスクの引き出しに滑り込んだ。身を守るものは、全て身辺から遠ざけた。


 桐嶋は応接デスクの長椅子に横たわった。硬い木面が背中に応える。目を閉じれば、規格外のコンテナの輪郭が網膜に焼き付く。田所の声が、十年を超えて鼓膜を打つ。


 睡眠は襲撃のように訪れた。深く、短い無の時間。彼の拳は固く結ばれたままで、僅か九十分の休息の間、戦場からの離脱を許さなかった。


 午前三時を過ぎた駐車場は、ジョギングの余熱が皮膚から逃げていく。桐嶋篤の息は既に整っていたが、Tシャツの背中に滲んだ汗が夜気に冷やされた。彼は黒い四駆のドアを開け、運転席に滑り込んだ。


 エンジンが唸る。ヘッドライトが舗道の埃を照らし出す。事務所を出て三十分、海岸道路を北上するルートを選んだ。左手には拳銃がチョッキの下に重く、助手席には軍用端末を収めたナイロン袋が転がっている。


ここまで読んでくださりありがとうございます。

続きが気になりましたら、ブックマーク・評価で応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ