第24話 終わりの始まり
彼は指先でバッテリーを外し、SIMカードを抜き取った。カードを二つに折る。プラスチックが鋭く裂ける音が、個室にこもる。破片をコーヒーの空きカップに落とし、残り少ない冷たい液体を注ぎ込んだ。シミュレートされた熱源と継続的な通話信号が、監視網に確かな痕跡を刻みつけた。個室ブースの鉄製ドアが内側から閉まる音が、空洞のように響いた。桐嶋は即座に簡易ドアストッパーを扉の隙間に蹴り込んだ。プラスチックが軋み、外側からの回転を封じる。彼は壁際に身を寄せ、ブラインドの隙間から廊下を覗いた。蛍光灯の白い光が延び、誰もいない。
ノートパソコンの画面は依然として青白く、自動公開のカウントダウンが刻まれていた。彼はその横に、新品のUSBメモリ三本を並べた。金属のケースが冷たい机の上に置かれる音は微かだ。
彼の指がキーボードを叩く。証拠データの暗号化コピー処理が始まる。プログレスバーがゆっくりと右へ進む。その間、彼の視線はノートパソコンの画面から離れず、同時に耳は個室外の全ての音に研ぎ澄まされていた。エアコンの唸り、遠くの個室のキーボード音、階段を上がる足音はないか。
一本目のコピーが完了する。彼はUSBを抜き、靴下の中へ滑り込ませた。二本目を差し込む。動作は機械的で無駄がない。
廊下の向こうで、何かが落ちる音がした。硬質なプラスチックの音。桐嶋の手の動きが一瞬止まる。肩の筋肉が張る。彼は左手を腰の拳銃に移し、安全装置を外した。カチッという小さな音が、ノートパソコンのファン音に消える。
十秒。二十秒。それ以上の足音は来ない。
彼は息を吐き、コピーを再開した。二本目が終わり、三本目を差し込む。最後のバックアップだ。彼は机の上の紙の地図を広げた。沖縄本島の詳細図に、三つの赤丸が印されている。脱出経路候補だ。
画面のカウントダウンは十一時間を切っていた。彼は地図の端に、緊急時の対応手順を走り書きした。文字は小さく、鋭い。
三本目のコピーが完了した。彼はUSBを抜き、腰のベルトの内側の隠しポケットに仕込んだ。ノートパソコンから元の証拠USBを安全に取り外し、別の内ポケットへ移す。
全てのデータが分散された。彼は立ち上がり、鞄の中身を確認した。水、非常食、偽造パスポート、現金。重量を確かめる。
最後に、彼は個室のドアストッパーを外さず、窓へ向かった。二階の高さだ。彼は窓を静かに開け、夜の冷気を室内に入れた。下の路地は暗く、人影は見えない。
脱出経路は確保された。緊急時の対応は計画された。あとは、カウントダウンがゼロになるのを、安全な距離で待つのみだ。
桐嶋篤は鞄を背負い、窓枠に手をかけた。ネットカフェ個室の床は、夜の冷気を帯びていた。桐嶋篤は使い捨て携帯の破片を沈めたコーヒーカップを机の端へ押しやると、ノートパソコンの画面に向き直った。公開シーケンスのカウントダウンは11:22:17を刻み、減り続けている。
彼の指がキーボードの特定のキーを順に押した。画面が暗転し、別のターミナル画面が現れる。真っ黒な背景に緑の文字列が、分散保存先のサーバー群への最終ping結果を淡々と羅列していく。全ての接続が安定している。遠隔地にある三つの物理的バックアップ装置も、起動信号に応答した。
桐嶋は腰の拳銃を抜き、机の上に置いた。金属が木目に触れる音が乾いていた。彼はマガジンを外し、装填数を目視で確認する。九ミリ弾が一発も欠けていない。再びマガジンを嵌め込み、安全装置をかけた。
彼は立ち上がり、個室の薄い壁に耳を近づけた。廊下からの音は、隣室の客の微かな咳だけだ。彼はドアの鍵が内側から二重に施錠されていることを指先で確かめ、窓辺へ移動した。
窓のブラインドを一センチ上げ、路地を見下ろした。ゴミ集積場の影、向かいのビルの無灯火の窓。異常な人影は無い。車のエンジン音も、通常の深夜のそれだ。
彼は鞄から小さな探知機を取り出し、スイッチを入れた。赤いLEDが点滅し、周辺の無線周波数を走査し始める。特定の強度とパターンの信号を探るが、機器は反応しない。監視ドローンや盗聴器の痕跡は、今のところ検出されない。
探知機を切り、鞄の奥へ戻した。次に、机の引き出しから圧縮袋に入った非常食と水筒を取り出した。袋を開け、栄養補助ゼリーを一本、慎重に吸い込む。甘味が舌の上で広がり、胃の虚ろな重みを少しだけ押しのけた。
彼は再び椅子に座り、ノートパソコンの画面に最後のコマンドを打ち込んだ。公開タイマーの最終認証画面が現れる。赤い文字で警告が点滅する。彼は深呼吸し、登録済みの生体認証キーに指をかざした。センサーが微かに光り、認証完了を告げる小さな音を発した。
シーケンス確定。公開まで11:18:04。全システム、待機状態へ移行。
この表示が、全ての操作可能な工程の終わりを告げていた。後は歯車が回るのを待つだけだ。桐嶋はパソコンの電源ケーブルを外し、バッテリー駆動に切り替えた。外部からの電源切断に対する最後の保険だ。
その時、使い捨て携帯電話が震えた。着信。相手は非表示。彼は通話ボタンを押した。
「桐嶋か」
声は低く、落ち着いていた。ジョン——コーヒーショップ「斑鳩」の店主。元情報将校。山中の廃屋で全てを計画した裏切り者だ。
桐嶋は答えない。受話器を握る指に力が入る。
「用件だけ言う。公開を止めろ。代わりに新しい身分と地位を保証する。お前の娘の将来も、我々が責任を持って守る」
沈黙。桐嶋の呼吸だけが、静寂を刻む。
「何もかも失うよりは、取引に応じる方が賢明だ。お前の娘は優秀だと聞いている。将来を潰す気か」
桐嶋の声は低く、平たかった。
「娘に手を出すな」
「手は出さない。約束する。だが——お前が公開を強行すれば、それは別の話になる。組織は動く。娘の安全も、保証の限りではなくなる」




