第23話 暴露と裏切り
桐嶋は懐中の拳銃に触れ、安全装置を確認する。金属の冷たさが掌に伝わる。次に、胸ポケットの偽造IDカードの縁を親指で撫でた。プラスチックの感触。
彼は再び端末を取り出し、最後のチェックを行う。周辺の無線信号をスキャンするプログラムが起動する。店舗のWi-Fi、携帯電話の電波、数台のBluetooth。特定の周波数を捕捉する監視用の痕跡は検出されない。
「ここはクリーンだ」
彼は独り言のように呟き、端末の電源を切った。画面が黒くなり、路地の暗がりに溶け込む。
最終判断が下された。偽名IDは安全であり、追跡の気配は今のところない。ネットカフェへの侵入経路は確保された。彼は深く息を吸い込み、歩道橋の影から確かに一歩を踏み出した。目的地へ向かう最後の直線が、闇の中に続いていた。辺野古の夜間海岸は、満潮の波だけが岩を噛む音を響かせていた。月が雲間から微かに顔を出し、桐嶋篤と工作員リーダーの間に銀の筋を引いた。リーダーの背後に立つ二人の男の影が長く伸びる。
桐嶋は岩場に立ち、潮風がスーツの裾を揺らす。ポケットの中で握りしめた拳の内側に、USBの角が食い込んでいた。リーダーは一歩前に出た。額の傷跡が月明かりで浮かび上がる。
「新協定の公開は日米同盟の崩壊につながる。地域の安全保障が危うくなることを理解しているのか」
リーダーの声は低く、波の音と重なった。桐嶋の背筋が氷の柱のように固まる。彼はポケットから手を抜き、空の掌を見せた。指先が冷たい夜気に晒される。
「同盟が個人の命を踏みにじることで成り立つなら、そんなものは偽物だ」
言葉が潮風を切り裂いた。リーダーの目が細くなる。左右の男たちの肩に力が入った。
桐嶋は踵を返した。岩場を一歩、二歩と歩き出す。足元の小石が軋む。背後から銃口を向けられる重い感覚が背骨を這ったが、彼は振り向かなかった。
波打ち際の闇へ、その背中が溶けていった。
リーダーの手が微かに震えた。男たちが追おうとする足を、一瞥で止めた。海が証拠を呑み込み、公開の歯車は止められない。彼らはただ、闇に消える男の背中を見送るだけだった。ネットカフェの裏口は鍵も錠もかかっていなかった。桐嶋はドアを押し開ける。階段の冷たい鉄製手すりが掌に伝う。上りきった廊下は、消毒液の匂いと埃が混ざっていた。
個室ブースのドアが彼を待っていた。同じ番号だ。彼はキーボードに四桁の番号を打ち込む。音がしないまま、ドアが内側へ開いた。
机の上には、前回と変わらぬ散らかり具合だった。ノートパソコン、使い捨て携帯、コーヒーの空きカップ。壁の時計は二十二時三十五分を指している。
彼は鞄を床に下ろす。腰の拳銃に触れ、存在を確認する。次に胸ポケットから偽名のIDカードを抜き、机の隅に置いた。
ノートパソコンの蓋を開ける。起動音が唸る。青白い光が彼の顔を照らし、目尻の皺をくっきりと浮かび上がらせた。
画面には、前回切断した時のままの接続画面が凍りついていた。転送プログレスバーは全て緑色、満ちている。その下に、小さな赤い文字が点滅していた。
公開シーケンス起動済み。残り時間:11:43:22。取消不能。
桐嶋はその文字を三秒間見つめた。吐く息が少しだけ深くなる。彼は暗号化USBをポケットから取り出し、ノートパソコンの側面へ差し込んだ。
ドライブが認識される音がする。彼はキーボードに指を置いた。打鍵音だけが、個室の薄い壁を伝わっていく。深夜のネットカフェ個室は、ディスプレイの青白い光だけが呼吸している。コーヒーカップの底に僅かな液体が残り、空き缶が机の端で微かに震えた。外を通り過ぎる車の灯が、ブラインドの隙間から細い帯となって滑り込む。
桐嶋篤はノートパソコンの前で背筋を伸ばした。肩の関節が軋む。彼は胸ポケットから、最後の一枚のプリペイドSIMカードを取り出した。プラスチックの包装を剥がす音だけが響く。
SIMを使い捨て携帯電話に挿入する。起動音が鈍く鳴る。画面の明るさを最低まで落とす。青白い光が彼の指の皺を照らし、爪の先まで冷たく見える。
彼は息を詰め、覚えている番号を打ち込んだ。一桁、また一桁。指先が震えていないことを確認する。液晶に表示される数字が、彼の瞳孔に映る。
発信ボタンを押す。電子音が耳の中で鳴り始める。一度、二度。彼の喉が乾き、飲み込む唾液もない。
「……もしもし?」
声が聴こえた。彼女の声だ。眠りから覚めたばかりの、かすれた響き。桐嶋の胸の内側で、何かが熱く溶けた。
「美咲か」
彼の声は、思った以上に低く、安定していた。
「今、どこにいるの?」
娘の声に、ほんのわずかな怯えが混じる。桐嶋は机の上のコーヒーカップの縁に指をかけ、プラスチックの薄さを感じた。
「那覇だ。仕事がもう少しで終わる」
波打ち際で投げ捨てたUSBの重みが、今も掌に残っている。
「あと一日か二日で帰る。約束だ」
電話の向こうで、布団の擦れる音がした。彼女が身を起こしたのだろう。
「本当? 絶対?」
「ああ。お前の父親は、嘘をつくような男じゃない」
彼は息を吸い、肺に冷たい空気を満たした。
「何かあったら、叔母の家に行け。避難袋はクローゼットの奥だ。覚えているな」
沈黙が一瞬流れる。彼女の呼吸の音だけが、電波に乗って伝わってくる。
「パパ、無事でいて」
その言葉が、彼の鎖骨のあたりをじんと熱くした。彼は目を閉じ、また開いた。
「必ずそうする。それじゃあな」
切る前に、もう一言。
「……愛しているぞ、美咲」
通話が終わった。電子音が耳から消える。桐嶋はその携帯電話を、手のひらの上にしばらく載せていた。プラスチックの温もりが、ゆっくりと冷めていく。




