第22話 証拠の洞窟.
桐嶋篤は岩陰から一歩を出た。潮風がスーツの裾を揺らす。彼の鼓動は耳の奥で規則正しく、冷たい指先がポケットの中のUSBを握りしめていた。
「最後の機会だ」
リーダーの声は波に溶けかかる。
「証拠を渡し、沈黙を守れ。代償は提示した」
桐嶋の顎に力が入った。背筋が一本の棒のように伸びる。彼はポケットから手を抜くと、USBを目の高さに掲げた。プラスチックが微かに光る。
「これは渡さない」
彼の声は波の音を切り裂いた。
「公開は止められない」
左右の男たちの手が一斉に上着の内側へ滑った。桐嶋は一呼吸置き、USBを握りしめた拳をゆっくりと下ろした。視線はリーダーから離さない。
「国家の論理はもう聞き飽きた」
彼は一歩、前に踏み出した。
「俺は父親として、ここで決める」
リーダーの目がわずかに見開かれた。その刹那、桐嶋は掲げた拳を横に振り、USBを暗闇へ投げ込んだ。黒い海がそれを呑み込む音もなく。
男たちの動きが一瞬止まる。桐嶋はその隙に背を向け、岩場の奥へ歩き始めた。足音は波のリズムに消えた。
背後から銃口を向けられる感覚が背中を這ったが、引き金の音は鳴らなかった。公開の歯車は既に回っており、彼らにはもう時間が無いのだ。
桐嶋は歩みを止めず、闇の中へ消えていった。
辺野古の闇に溶けた桐嶋の背中に、三つの眼が釘付けになっていた。潮風が岩を打つ音だけが、男たちの無言を埋める。リーダーはようやく顎を動かした。
「追え。海に落としたのは囮だ」
部下の一人が岩場へ駆け出す。もう一人が無線で何かを伝える。リーダーは残り、波打ち際を見据えた。月が雲間から顔を出し、黒い海面に銀の筋を引く。何も浮かんでこない。
桐嶋は海岸線から離れ、コンクリートの擁壁をよじ登った。手の平に砂利が食い込む。上は廃材置き場で、錆びた鉄骨の影が幾重も並んでいた。彼はその迷路に身を隠す。呼吸を整える。肺が冷たい空気を欲しがる。
擁壁の下で足音が近づき、遠ざかる。無線の雑音が一瞬、夜風に混じった。
彼は鞄を開け、中から黒い作業服を取り出した。素早くスーツの上から着込む。素材の擦れる音だけが響く。次に軍用のフェイスペイントを掌に取り、顔と首筋に塗り込んだ。油の匂いが鼻を刺す。
廃材の隙間から、国道を走る車の灯がちらつく。彼はその光を目印に、置き場の反対側へ抜けた。向こう側は細い路地で、民家の裏庭が続いていた。
路地を五十メートルほど進むと、小さな祠があった。石段の脇に自転車が一台、鎖もかけずに置いてある。桐嶋はそれに跨った。サドルの高さを直す時間は無い。ペダルを踏み込む。チェーンが軋む乾いた音を立てた。
路地を抜け、県道に出る。彼は車道の端を、スピードを上げずに走った。風がフェイスペイントを乾かす。後ろを振り返らない。耳だけを澄ませる。
県道を三つ目の交差点で左折し、細い坂道を上り始めた。両側に民家のブロック塀が続く。上りきったところに、公営住宅の駐輪場があった。彼は自転車をその場に止め、鍵もかけずに離れた。
駐輪場の隅に、別の自転車が鎖で留めてある。マウンテンバイクだ。桐嶋は工具を取り出し、ワイヤーカッターで鎖を断ち切った。金属が切れる音が鋭く、一瞬夜を裂いた。
彼は再びサドルに跨った。こちらの方が軽く、ギアも滑らかだ。坂道を下り、住宅街を抜ける。時折、民家の窓の明かりがちらつく。テレビの音が漏れる家もある。
住宅街の外れに、小さなスーパーがあった。駐車場に数台の車。彼はその陰に入り、自転車を捨てた。店の裏口から、買い物かごを二つ持ち出す。一つは空のまま入口付近に置き、もう一つを抱えて店の中へ入った。
店内は客がまばらだ。桐嶋はパンとペットボトルの水をかごに入れ、レジへ向かう。店員は無造作に品物をバーコードに通す。彼は千円札を渡し、お釣りを受け取る。言葉は一切交わさない。
買い物袋を手に、店を出る。入口付近に置いた空のかごは、既に誰かが片付けていた。彼は駐車場の端にある公衆電話へ向かう。
電話ボックスに入り、受話器を取る。十円玉を投入する音が機械的だ。彼は覚えた番号を押した。呼び出し音が三回鳴り、向こうが取った。
「はい」
声は低く、短い。
「蟻が三匹」
桐嶋はそれだけ言い、受話器を置いた。通話時間は十秒に満たない。彼はボックスを出ると、買い物袋を隣のゴミ箱へ捨てた。パンと水はそのままに。
国道へ戻る道を、今度は歩き始めた。足取りはごく普通の中年男のそれだ。肩を落とし、少し前かがみに。背後から車のライトが照らし、通り過ぎていく。運転手の顔は見えない。
彼は歩道橋を渡り、反対側の路地へ下りた。そこにはネットカフェの看板が、青白く光っていた。
三十分の経路を終え、偽装状態を維持したまま、桐嶋は予定の地点に到達した。監視の気配は、今のところ感じられない。ネットカフェの青白い看板が、路地の奥で点滅していた。桐嶋篤は歩道橋の影からその光を見据え、足を止めた。肺の底に冷気が残る。背中の鞄が重く、肩の筋肉が痙攣した。
彼はコンクリートの壁に寄りかかり、ポケットから小さな端末を取り出した。画面を起動する指先に、かすかな震えが走る。暗号化された接続が確立され、偽名IDの稼働状況を示す一覧が表示された。「鈴木健二」「佐藤浩一」「高橋誠」。全てのプロファイルが緑色、使用中でないことを示す。
彼は端末をしまい、路地の空気を読んだ。夜の匂い、排気ガス、遠くの居酒屋の喧噪。不自然な静けさはない。彼は壁から離れ、ネットカフェの入口とは反対方向へ十歩、歩みを進めた。ゴミ集積場の陰から、店の玄関を観察する。自動ドアが開き、一人の客が出てきた。学生風の男は、スマートフォンを見つめたまま、何も気にせず去っていく。




