第21話 洞窟への誘い
桐嶋は別のデータベースを起動した。被害者の通話記録と、リスト記載の日付を突き合わせる。完全に一致した。殺害の三日前、彼女の監視レベルが引き上げられていた。
リストの発見が、動機の核心を照らした。桐嶋は証拠のコピーを完了させ、ロッカーへの配送を指示した。ネットカフェの個室で、桐嶋の指が止まった。スクリーンに映る被害者の名前に、彼の心臓が肋骨を押し上げた。鼓動が耳の奥で鳴る。冷えた指先がキーボードに触れたまま固まる。
彼は右手で顎を擦り、画面から目を離した。個室の狭い壁を見つめる。吐く息が白くならないのに、体の芯が冷えていく。胃の奥が重く沈み、喉元に苦味が遡る。
桐嶋は立ち上がった。膝の関節が軋む。彼はノートパソコンの電源を抜き、全てのデータを消去した。次に使い捨ての携帯電話を取り出す。ボタンを押す指先に力が入る。
「準備はいいか」
受話器から元同僚の声が返る。短い言葉だけだ。
「三十分後、指定の場所で」
桐嶋は頷く。電話を切る。彼は胸のポケットの証拠USBに触れ、次に腰の拳銃を確認する。全てがあるべき位置にある。
窓の外、名護の街に黄昏が落ちる。赤い光が路面を染める。桐嶋は個室のドアを開け、階段を下りた。通用口から外へ出る時、背中の皮膚が一瞬震える。監視の目を感じた。
彼はその感触を無視し、人通りの中へ歩き出した。次の行動へ。娘を守るためだけに。ネットカフェの個室は、ディスプレイの青白い光だけが浮かび上がる暗がりだった。空き缶やコーヒーカップが散らかり、長い作業の痕跡を残していた。
桐嶋篤はノートパソコンの薄いケースを手に取った。金属が冷たく、重みを感じる。画面には複数の遠隔サーバーへの接続画面が並び、全ての転送プログレスバーが満ちていた。彼は暗号化USBを抜き、駅のロッカー鍵と共にポケットに収めた。
最後の確認画面が点滅する。自動公開のタイマーが起動した。停止できない警告メッセージが赤く光った。彼の指がキーボードから離れる。
廊下から複数の重い足音が近づいた。一定のリズムで、速度を変えない。彼は立ち上がり、ノートパソコンの電源ケーブルを引き抜いた。画面が真っ暗になる。
証拠は分散された。公開は止められない。彼は腰の拳銃に触れ、個室のドアの脇に立った。足音がすぐ外で止まる。
個室のドアノブが微かに震えた。鍵が回る音はしない。
桐嶋篤は壁から離れ、窓側へ一歩踏み出した。コンクリートの冷たさが靴底を伝う。ノートパソコンを鞄に押し込み、肩にかける。革の紐が鎖骨を食い込ませた。
廊下の足音が遠ざかる。複数だ。彼らは別の個室を順に調べている。
彼は窓を開けた。夜風が埃を舞い上げる。二階の高さだった。下は飲食店の裏庭で、積まれた空き箱の山が影を作っていた。
桐嶋は窓枠に手をかけ、身を翻した。体重を腕に預け、地面へ落ちる。足首が衝撃を吸収する。砂利の感触。
彼はその場にしゃがみ込み、周囲を見渡した。路地に人影は無い。頭上では、ネットカフェの窓が開いたままだった。
立ち上がり、裏通りへ駆け込む。歩幅を広げるが、足音は立てない。心臓が胸郭を打つ。冷たい空気が肺を刺す。
国道に出る前に彼は立ち止まった。懐から使い捨て携帯を取り出す。電池を抜き、SIMカードを折る。破片を側溝へ落とした。
次に偽名のIDカードを引き裂いた。プラスチックが裂ける音が乾く。細かくちぎり、別の排水口へ散らす。
彼は再び歩き始めた。目的地は六十キロ先の海岸だ。時間は六十分。
背中に鞄の重みを感じながら、夜の街へ溶け込んでいった。
国道58号線を北上する車の灯が、彼の横を流れた。桐嶋篤は歩道橋の影に立った。指先が震える。SIMカードの破片がまだ掌に刺さっていた。
彼は息を詰め、周囲の音に耳を澄ます。潮風、遠いクラクション、自転車の鎖の軋み。監視の気配は無い。
背負った鞄が肩を痛めた。中にはノートパソコンと拳銃、そして公開を待つデータの重さがあった。彼は歩き出した。右手はポケットの中で、妻の写真の縁を撫でている。
辺野古へ向かう道は暗かった。月が雲に隠れ、海の匂いだけが濃くなる。彼の胃が締めつけられた。娘の笑顔がちらつく。約束の時間まで、あと五十七分。洞窟の裂け目の外は満潮で、岩場が黒く濡れていた。桐嶋の靴底が藻に滑る。潮風が冷たく、制服のような黒いスーツの男が三人、彼の進路を塞いでいた。中央の男が一歩前に出る。月明かりが額の傷跡を浮かび上がらせた。
「時間を無駄にしたな、桐嶋さん」
男の声は波の音に消えかけた。桐嶋は腰の拳銃に触れず、姿勢を低く保った。背筋が氷の棒のようになる。胃が捻れる。
「証拠品を頂戴する。それと、御令嬢の現在地を教えて頂きたい」
リーダーが手を差し出した。掌は空だ。桐嶋の呼吸が浅くなる。鼓動が耳朶を揺さぶる。
「代わりに、新しい身分と十分な資金を用意する。令嬢の安全も保証する。これ以上、危険を冒す必要はない」
桐嶋の歯が軋んだ。唾液が喉に絡まる。彼はポケットの中のUSBメモリを握りしめた。プラスチックの角が掌に食い込む。
「拒否する」
言葉が夜風に散った。リーダーの目が細くなる。左右の男たちの手が上着の内側へ滑る。
桐嶋は一気に距離を詰めた。右腕を振り上げ、掌底をリーダーの喉元へ叩き込む。骨のない音がして、男が後ろにのけ反る。
彼はその隙に岩場へ飛び込んだ。波しぶきが顔を濡らす。背後で銃声が割れた。水音が全てを呑み込んだ。
岩陰に身を隠した桐嶋は、震える手で鞄を開けた。ノートパソコンの画面には、自動公開のカウントダウンが刻まれていた。止められない歯車が、確かに回り始めていた。辺野古の夜間海岸は、満潮の波が岩を噛む音だけが響いていた。月は雲に隠れ、工作員リーダーと二人の男が黒い輪郭となって立っている。




