第20話 安ホテルの夜
彼は次の停留所で降りた。路地を三度曲がり、民家の塀に背を預けた。呼吸は浅い。耳を澄ます。車の音はない。小鳥の鳴く音だけが、湿った夜気を切る。
彼は再び歩き出す。目的地の安ホテルは、もう一区画先だ。ネオンの看板が、安っぽい赤い光を路面に垂らしていた。
桐嶋はその光の手前で立ち止まった。最後の確認だ。周囲に目を走らせる。何もない。彼は懐の娘の写真に触れ、扉を開けた。桐嶋は安ホテルの一室のドアを閉めた。鍵を二重にかける音だけが響く。
部屋は狭く、埃の匂いがした。彼はカーテンの隙間から外を見下ろす。路地に人影は無い。黒いセダンも追ってきていない。彼はベッドに腰を下ろし、拳銃を枕の下に滑り込ませた。
被害者のノートパソコン破片を机に広げた。破片の裏側、ケースの焦げた部分に、インクが滲んだ数字と地図記号があった。『洞窟』。彼の指がその上を撫でる。全ての公式ルートは閉ざされた。信頼できる顔も、もういない。
彼は暗号化スマートフォンを起動した。電池残量は少ない。過去の上官の連絡先を表示するが、送信はしない。削除する。次に娘の写真を見つめる。笑っている顔だ。
呼吸を整える。決断は、もう下りていた。彼は現金と破片を防水袋に詰め、体に巻き付けた。立ち上がり、銃を手に取る。
沿岸の洞窟へ向かう。これが最後の希望だ。
二十二時三十分。ホテルの裏口はゴミ袋が積まれた路地に面していた。
桐嶋篤は扉を微かに開け、外気を感じ取った。湿った塩の匂いがした。彼は人影のないことを確認すると、路地へと滑り出した。歩幅は一定で、足音を殺す。目は常に動き、路上の窓や車の影を走査した。
国道沿いの歩道を東へ。潮風が強くなる。左手は海だ。彼は街灯の真下を避け、植え込みの陰を縫って進んだ。百メートルおきに立ち止まり、後方の車の灯を数える。不審な間隔で減速するものは無い。
砂利道が始まったところで、彼は茂みに身を沈めた。懐中電灯は使わない。月明かりだけが、岩場の輪郭を浮かび上がらせる。洞窟入り口はもう近い。
彼は最後に振り返った。国道に一対の車の灯が停まっている。距離は三百メートル。発進しない。ただ、闇に潜んでいる。
桐嶋は岩陰に背を預け、呼吸を整えた。監視者は確かにいた。だが、こちらの動きを見定めているだけか。彼は防水袋を確かめ、暗闇の中へと一歩を踏み出した。洞窟の奥は月明かりも届かない闇だった。桐嶋の懐中電灯が細い光の帯を切り裂く。壁面は滑らかで、人工的に削られた跡がある。潮の匂いが、かすかな機械油の臭いに混ざる。
彼は破片に記された数字を確認する。左手の壁、三メートル地点。光を当てる。岩肌にわずかな段差がある。指先で探ると、小さな隙間を感じた。
桐嶋はナイフの柄で叩く。空洞の音が響く。力を込めて押す。壁の一部がスライドし、金属製の小箱が現れた。錆びた鍵穴がある。
彼は被害者の鍵を取り出す。合う。回す音が乾いて響く。蓋が開く。中には防水ケースに入った音声記録媒体が一つ。彼はそれを取り出し、暗号化スマートフォンに接続する。
再生ボタンを押す。雑音。そして声が聞こえる。
『協定撤廃後も継続する、非公式な情報共有経路について――』
桐嶋の指が固まる。その声は、知っている人物のものだった。
証拠を手にした瞬間、背後で岩が軋む音がした。
洞窟の闇が、桐嶋の背中を押した。
彼は媒体を防水袋に押し込み、懐中電灯を消した。足音を殺し、岩壁に沿って移動した。入り口へ戻る道は塞がれている。彼は奥へ向かう。暗闇が皮膚を刺す。
水音が近づく。地下の水流だ。彼は袋を防水に包み、浅い流れに足を踏み入れた。冷たさが脛を伝う。出口は、百メートル先の岩の裂け目から漏れていた。
彼は海岸線の岩陰に身を隠した。国道を眺める。黒いセダンは消えていた。代わりに、白い軽トラが路肩に停まっている。監視者は形を変えた。
彼は国道上の民家の裏通りへ抜けた。ネットカフェは、商店街の二階にある。彼は通用口から入り、偽名で個室を借りた。
ドアが閉まる音だけが響いた。ネットカフェの個室は埃っぽい空気を閉じ込めていた。桐嶋はドアに背を向け、ノートパソコンを起動した。洞窟で入手した音声データを再生する。
『……非公式リストの管理は、従来の協定外で行う。対象者は、新協定への反対運動に関与する政治家、活動家……』
声は平板で、事務的だ。桐嶋は右手の親指と人差し指で顎を擦った。リストの存在は確かだ。彼は音声ファイルの波形を拡大表示する。背景のノイズを解析する。
キーボードを叩く音だけが響く。スクリーンに文字列が流れる。ノイズの中から、かすかな電子音が分離された。それは自動応答システムの案内音と一致した。
桐嶋は動作を止めた。彼は新たなウィンドウを開き、特定の電話番号へのアクセスログを検索した。該当する記録は一件も無い。公的ルートには残っていない。
彼はUSBメモリを三本取り出した。それぞれに音声データをコピーする。一つは駅のロッカーへ。一つは匿名クラウドへ。最後の一つは肌身離さず持ち歩く。
リストの存在は確認できた。だが、その中身と目的はまだ闇の中だ。桐嶋は次の手を考えた。ネットカフェの個室で、桐嶋の指だけが動いた。彼は音声ファイルのテキスト化データをスクロールし、固有名詞を抽出するスクリプトを走らせた。
画面にリストが表示された。名前、所属、監視レベル。彼の目は一行で止まる。被害者のフルネームが、反対派活動家のカテゴリーに記載されていた。監視レベルは最高位を示す赤いマークだ。
彼は娘の写真を一瞥した。すぐに画面へ戻る。




