第19話 核心への一歩
チェックインは自動精算機で済ませた。現金のみ、身分証不要。彼は三階の角部屋の鍵を受け取り、階段を上がった。廊下の蛍光灯が一つ、切れかけている。軋む床。どこのホテルとも違わない、安普請の建物だった。
部屋に入り、ドアを二重ロックする。カーテンを開け、駐車場を一瞥する。誰もいない。彼はベッドの端に腰掛け、バッグから軍用端末を取り出した。電源を入れる。画面の光だけが、薄闇の部屋を照らす。
これから六時間。陽が昇るまでの間、身を隠し、計画を練り直す。沿岸洞窟への侵入経路。証拠品の確保手段。美咲の安全。そして——逃げ切るためのルート。
彼は端末に広げた地図を睨みながら、自分の位置を確認した。ここから洞窟までは直線で八キロ。だが、監視を避けるルートを取れば、倍以上の距離になる。
桐嶋は壁にもたれ、目を閉じた。寝るつもりはなかった。ただ、静寂の中で、次の一手を透かして見る必要があった。耳を澄ます。遠くから、波の音がかすかに聞こえる。辺野古の海だ。あの海のどこかに、真実は沈んでいる。
彼は目を開け、バッグからペンとノートを取り出した。
午後九時半、辺野古漁港の岸壁は、潮の香りと重油の匂いに包まれていた。街灯が幾つか切れたまま、港は闇に深く沈み込んでいる。桐嶋篤は事務所へ戻る途中、車を降りて道端に停めた。目当ては、昼間には立ち入れなかった倉庫Cの夜間の動きを、この丘の上から確認することだった。
彼は防犯カメラ兼暗視スコープを手に、暗がりに溶け込むように佇んだ。その時、視界の端がわずかに動いた。岸壁の最も奥、照明の届かぬ場所に、一人の男の後ろ姿があった。波打ち際を凝視し、石化したかのように動かない。その姿勢、がっしりとした肩幅。漁師の森脇健一だ。
桐嶋の眉がわずかに動く。呼吸を浅く整え、指がスコープのズームリングに触れた。拡大された視界に、森脇の側顔が捉えられる。目は虚ろに海を見据え、唇が微かに震えている。片手はズボンのポケットに突っ込まれたまま、拳の形が布地を張らせていた。
「森脇さん」
声をかける前に、男の肩が一瞬、強張った。森脇はゆっくりと振り返り、桐嶋の存在を認識する。その顔に一瞬走ったのは、驚きではなく、むしろ絶望に近い怯えだった。血の気が引いた顔色が、僅かな街灯の光に青白く浮かび上がる。
森脇は一言も発さず、突然、その場を離れた。足取りは最初は重く、やがて速まり、岸壁の影へと駆け込むように消えた。ポケットから零れ落ちそうになったタバコの箱が、コンクリートの上に転がった。
桐嶋はその場から動かなかった。指先が顎の古傷を撫でる。胸の奥で、心拍がゆっくりと、しかし確実に数を増していた。遠ざかる足音が闇に吸い込まれ、最後に残ったのは、波が岩を打つ音だけだった。午後十時、作業員休憩スペースは、昼間の喧騒が嘘のように消えていた。自動販売機の青白い光が、無人のベンチと散らばった空き缶を照らす。桐嶋篤はその空間の端に立ち、呼吸を浅く整えた。漁師たちへの聞き込みは、今や後回しだ。指先が、ポケット内の制圧用スタンガンのスイッチに触れる。
彼の視線は、非公式情報共有コーナーに貼られた一枚のメモに釘付けになった。乱雑な字で「森脇、昨日から姿見せず。工事現場の連中が探し回ってる」とある。その脇には、抗議運動のビラが剥がされ、くしゃくしゃに丸められていた。
彼は携帯を取出し、暗号化通信で一つの番号にダイヤルした。呼び出し音が四回鳴り、つながらない。森脇のプリペイド端末だ。潮風が、冷たく空間を通り抜ける。
「こっちだ」
低い声が、背後から聞こえた。振り向くと、詰所の影から一人の作業員が微かに手を挙げている。男は周囲を伺い、素早く手振りで合図を送った。岸壁の東、旧倉庫の方角を指差す。
桐嶋は頷き、その場を離れた。足音を殺し、闇に沿って移動する。警戒は、もう聞き込みの相手ではなく、森脇を脅かす「何か」へと向けられていた。漁港から二キロ北の路肩に、軽自動車が停まっている。午後十時を過ぎ、車内の空気は昼間の熱気を失い、冷え切っていた。桐嶋篤は運転席にもたれ、開けっ放しの弁当の蓋を見つめていた。中身は手付かずだ。
彼は腕時計を確認する。秒針が規則正しく進む。胸の奥で、肋骨を内側から叩くような鼓動が続いている。血の巡りが耳元で脈打ち、冷えた指先がハンドルに食い込む。
「……約束の時間だ」
声は乾いて割れた。彼はポケットからプリペイド携帯を取り出し、一つの番号を呼び出した。呼び出し音だけが、車内の静寂を打ち破る。
応答はない。
事務所の百葉窓が閉ざされていた。外の街灯が薄い光の筋を床に落とす。
桐嶋篤は執務室の影に立ち、暗号化スマートフォンの電源を切った。液晶が暗転する。彼はそれを机の引き出しに置き、代わりに使い捨ての携帯電話をポケットに滑り込ませた。防犯モニターには、路地の向こうに一台の黒いセダンが停まっている。一時間前から変わらない位置だ。彼は金庫から現金の束を取り出し、拳銃の安全装置を確認した。軽い金属の音が室内に響く。
彼は裏口から出た。階段を下り、裏通りの雑踏に紛れた。最初のタクシーは二区画先で拾った。運転手に「市場通り」と告げる。後部座席で、彼はサイドミラーを通じて後続を追う。通り過ぎる街灯の光が、彼の顔を一瞬ずつ浮かび上がらせた。表情は無い。
市場通りの角で降りる。彼はその場で立ち止まらず、人ごみを縫って駅方向へ歩き出す。改札前の公衆電話に五十円玉を放り込む。受話器を取るふりだけし、反対側の階段を駆け上がる。バス停に着いたバスの乗客に混じり込む。車内の防犯鏡に、黒いセダンがゆっくりと路肩に寄るのが映る。




