第18話 譲れないもの
ジョンの情報は、三日前に彼から受け取ったUSBメモリのデータに関係しているはずだ。解析を終えた暗号化ファイルの断片は、比嘉恵子——あの被害者が持っていた軍用通信機の図面と、組織的な情報工作組織との接点を示唆していた。
「待ち合わせは……」
桐嶋は呟き、デスクのカレンダーに目を落とした。特に書き込みはない。すべては頭の中に入っている。
約束の時間は午前四時半。場所は名護の繁華街から外れた二十四時間営業のファミリーレストラン。彼はその店の前で、二度車を周回させてから駐車するつもりだった。
午後十一時を過ぎた辺野古の夜が、窓の外で静かに息を潜めている。桐嶋篤は執務室の軍用端末の前で両肘をつき、指先を組んだ。娘の寝室からは、もう物音一つしない。あの規則正しい寝息だけが、彼の背中を押していた。
彼は立ち上がり、壁の調査ボードに歩み寄った。AN/PRC-百六十七の回路図。森脇の血で汚れたメモから写し取った十一桁の数字。辺野古の地図。被害者の写真。白色軽トラックの不審な周回経路。すべてが一本の線で結ばれようとしていた。
指先が顎の古傷を擦る。皮膚の下で、固くなった筋肉の塊を感じる。目蓋が重い。足首の古傷が、低気圧を告げるように鈍く疼いた。一日の疲労が骨の髄に染み渡るが、思考だけは異様に冴えていた。
彼は端末に戻り、警察署で確認した証拠品管理記録のコピーを開いた。承認印の不自然さ。過去の記録との比較。検索エンジンが、似た筆跡のデータを呼び出す。三件のケース。いずれも、証拠品が「紛失」または「処分済み」と記録されたものだ。同じ人間が承認している。偽造印だ。
「――ノートパソコンの移動経路」
声はかすかで、独り言にもならない。彼は軍用端末から民間セキュリティ会社の物流記録へのアクセスを試みる。暗号化通信を経由し、旧軍ネットワークのハッシュを潜り抜ける。タイムアウトが三回。四回目で接続が確立された。
画面に、この一週間のトラックの移動履歴が表示される。現場近くの倉庫から、那覇市内の物流センターへ。そこから、さらに別の倉庫へ。移動の時間はすべて深夜帯。荷物の内容欄には「電子機器回収品」とだけ記されていた。
桐嶋は目を細め、データを精査する。運転手の名前。運行ルート。そして、最後の倉庫の所在地。辺野古の北、約十二キロ。元アメリカ軍の通信施設跡地だ。現在は国有地として管理されているが、使用状況は公開されていない。
彼の右手が、無意識に拳を握りしめた。協定が変わっても、場所は変わらない。この施設を管理するのは、新たに設置された「日米合同調整室」。つまり、あのニュースで報じられた組織だ。
彼は壁の調査ボードに歩み寄り、マーカーを手に取った。物流の経路を書き加える。現場→倉庫A→物流センターB→倉庫C。三つの倉庫のうち、二つは民間の管理下。だが倉庫Cだけは、空欄のままだ。所属表記がない。彼はその下に「?」と書き、矢印を伸ばす。
デスクの引き出しを開ける。中には拳銃と、その隣に銀縁の写真立て。美咲が小学校の校庭で笑う顔。彼は写真に触れず、引き出しを静かに閉めた。指先がわずかに震えている。
彼はノートを広げ、ペンを握った。明日の行動計画を書き出し始める。
一、倉庫Cへの侵入経路の確認。
二、物流記録の確実な証拠化――写真、書類の複製。
三、隠蔽工作の連鎖を証明する資料の収集。
四、娘の安全確保――一時的な避難先の手配。
ペンを置き、ノートを見つめる。文字は整然と並ぶが、その奥に沸き上がる感情を、彼は抑えきれなかった。胸の内側で、何かが軋む音がする。自分の行動が、美咲を危険に晒す。だが、引くわけにはいかない。この網を、この闇を、暴かなければならない。
彼は目を閉じた。瞼の裏に、被害者――比嘉恵子の顔が浮かぶ。彼女が最後に見たものは何だったのか。その答えを、この手で掴む。
彼はゆっくりと目を開け、立ち上がった。壁の時計が午前零時を指す。新たな一日が始まろうとしている。桐嶋は軍用端末の電源を切った。画面の灯りが消え、部屋は闇に包まれる。
「……必ず、終わらせる」
声は暗がりに溶けた。彼はその闇の中で拳を握りしめたまま、数秒間、動かなかった。
壁の時計の秒針だけが、規則正しく時を刻み続けている。残り時間は、確実に減っていた。
午前二時を過ぎた辺野古の住宅街は、濃い闇に沈んでいた。桐嶋篤は自宅の裏口から静かに出た。手には小型のナイロンバッグだけ。拳銃、軍用端末、現金、着替え——それだけを詰めた。机の上には、美咲への置き手紙が一枚。「数日間、出張に行く。しっかり留守を頼む」。嘘ではなかった。真実を書けなかっただけだ。
彼は民家の影を縫い、三ブロック先のコンビニ駐車場へ向かった。一時間前にネットで手配した中古の軽自動車が、駐車場の隅で待っていた。ナンバーは県外。所有者名はでたらめだ。彼は四駆に残した荷物を取り出し、軽自動車に積み替えた。四駆のキーは側溝の蓋の下に隠す。使えるうちは、使うかもしれない。
エンジンをかける。軽自動車の排気音は小さく、目立たない。彼はヘッドライトを消したまま、駐車場を出た。国道へ出る直前、バックミラーを確認する。黒い影はない。
彼は北へ向かった。辺野古の基地から遠ざかる方向だ。敵は彼が調査を続けると想定するなら、現場周辺に監視網を張るだろう。だからこそ、一度、場を離れる。彼らが桐嶋篤という探偵の行動パターンを読んでいるとすれば、その裏をかく必要があった。
国道を逸れ、旧道へ入る。舗装の切れた道を十五分ほど走ると、海岸線沿いの寂れた温泉街に出た。シーズンオフのシャッター通り。彼はその一角にある三階建てのビジネスホテルに車を滑り込ませた。ネオンサインは二本、切れかけている。駐車場には二台だけ車が停まっている。




