表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/20

第17話 追い詰められる桐嶋

「会いたい。辺野古の件だ」


 送信。画面が切り替わり、応答待ちの表示が点滅する。


 桐嶋は端末を膝の上に置き、目を閉じた。瞼の裏に、あの男の顔が浮かぶ。那覇のIT企業社長。自衛隊時代、彼の右側で二度、弾を交わした。一度目の任務で彼が負傷し、桐嶋が担いだ。二度目の任務で桐嶋が窮地に陥り、彼が引き上げた。貸し借りは、帳消しになっている。


 彼の目が開く。端末を手に取り、机の上の紙地図を広げる。被害者の最後の通話記録——基地反対側の海岸線。そこから通信が発信された時刻と、彼女が死亡した推定時刻の差は、三十分。その間に、彼女は何をしたのか。


 桐嶋の指が、地図上の海岸線をなぞる。断崖。岩場。そして——洞窟のマークが、一つだけ記されている。旧日本軍の壕か、自然洞窟か。彼はその地点を赤ペンで丸で囲んだ。


 携帯が震える。着信ではなく、暗号化アプリの通知音。


 画面にメッセージが表示される。「わかった。だが場所は指定させてくれ」


 桐嶋はその文字を、三度読んだ。短い。だが、それで十分だ。彼は返信を打たずに、端末をポケットに押し込む。指定された場所を待つ。それだけだ。


 彼は立ち上がり、ブースのドアを開けた。薄暗い通路を歩く。フロントカウンターで、二百円硬貨を差し出す。コーヒーのボタンが押され、紙コップに黒い液体が注がれる。彼はそれを受け取り、一口含む。苦さが舌に広がり、喉を通る。


 窓の外——路肩に、黒いセダンが停まっている。


 桐嶋の動きが、一瞬止まる。エンジンはかかっていない。運転席の人影は、シートに沈んで見えない。彼はコーヒーを手に、その場から動かずに観察を続ける。一分。二分。セダンのドアが開かない。窓が開かない。


 彼はカウンターから離れ、ブースへ戻る。ドアを閉め、鍵をかける。背を壁に預け、呼吸を整える。胸の奥で、何かが脈打っている。あのセダンが、尾行なのか否か。決め手はない。


 軍用端末が、再び震える。


 新たなメッセージの着信。送信者は元同僚。本文は住所——那覇市の繁華街、居酒屋の店名だ。時刻は、今夜の午後十一時。


 桐嶋は端末を閉じ、立ち上がる。ブースを出る前に、彼は窓の外をもう一度確認した。黒いセダンは、まだ停まっている。エンジンはかかっていない。動く気配もない。


 彼はドアを開け、ネットカフェを出た。真夜中の通りの空気が、肌を冷やす。足早に歩き出す。背後から、エンジンがかかる音は聞こえなかった。


 桐嶋は那覇の繁華街へ向かった。指定された居酒屋の暖簾をくぐる。カウンターの奥に崎山の姿があった。彼は無言で隣の席を指す。


「尾行はない。確認した」


 崎山は周囲に目を配り、声を潜めた。「解析結果はメッセージの通りだ。だが——それだけじゃない。もっと直接的な証拠がある。ここでは見せられない」


「どこにある」


「車を出す。場所を変えよう」


 桐嶋は一瞬、躊躇した。崎山の目の動きが落ち着かない。それでも彼はうなずいた。


 店を出る。崎山の黒いセダンが路肩に停まっていた。桐嶋は後部座席に乗り込む。車は那覇の市街地を抜け、北へ向かった。灯りの少ない山道に入る。


「どこへ行く」


「安全な場所だ。すぐ着く」


 崎山の声に張りがない。桐嶋の右手が腰の拳銃に触れる。十五分後、車は林道の先にある廃屋の前に停まった。外灯もなく、月明かりだけが周囲を照らす。


「降りてくれ。ここで話そう」


 桐嶋はドアを開けた。外気が冷たい。廃屋の影が闇の中に大きく広がっている。彼は周囲を見渡した——


 死角から影が動いた。三人。廃屋の入口と林道の両側から、黒いスーツの男たちが現れる。手には拳銃。桐嶋の背筋が凍る。彼は振り返った。


 崎山は運転席に座ったまま、目を合わせない。その手には通信機が握られていた。


「崎山……」


「すまない」崎山の声は掠れていた。「家族を——人質に取られている。断れなかった」


 通信機から声が流れ出た。桐嶋はその声を知っていた。低く、落ち着いた——コーヒーショップ「斑鳩」の店主の声だった。


『桐嶋。残念だ。お前がここまで来るとは思わなかった』


 ジョン——桐嶋が唯一信頼していた情報将校の声が、冷たく闇を震わせる。


『あのUSBは仕掛けだ。転送したデータには全て追跡用のタグが埋めてある。お前が踏み込めば踏み込むほど、網は絡まる』


 桐嶋の歯が軋む。十年来の信頼が、音を立てて崩れた。


 男たちが一斉に銃口を向ける。桐嶋はゆっくりと両手を上げた。男たちが距離を詰める——その時、彼は右足を軸に体を反転させた。最も近くの男の手首を掴み、銃口を逸らす。同時に左掌底を喉元に叩き込む。


 男が崩れる。桐嶋はその銃を奪い、廃屋の陰へ転がり込んだ。背後で発砲音。木片が飛び散る。体を低くし、裏口へ走る。


 闇の中を駆け抜ける。林を抜け、斜面を滑り落ちる。枝が頬を打つ。転がるように下りた先は沢沿いの道だった。追跡者の気配が遠ざかる。


 彼は肩で息をしながら、腰の通信機を破壊した。靴底で踏み潰す。プラスチックと金属が砕ける音が、水音に溶けた。


 全ての信頼は、今夜崩れた。残るのは——娘の安全と、真実を暴くことだけだ。


 午前三時を過ぎた桐嶋探偵事務所の執務室は、冷房の効きすぎた車内のような冷え込みが床から立ち上っていた。桐嶋篤はデスクの前に座り、軍用端末の画面を見つめている。彼は右手の親指と人差し指で顎の古傷を擦った。


 一時間前、暗号化チャットに一通のメッセージが届いた。送信者はジョン——名護のコーヒーショップの店主、かつての情報将校だ。メッセージは短かった。「例の件、動きがあった。直接話したい」


 桐嶋は応答していない。代わりに、軍用端末の電源を落とし、机の下の隠し金庫にしまった。彼は立ち上がり、窓の外を見た。辺野古の海岸線が、かすかな月光に浮かび上がっている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ