第16話 任務と感情
沖合いからの信号が、止んだ。
陸側の応答も、消える。海面に、再び静寂が戻る。波の音だけが、耳に残る。
桐嶋はカメラをしまい、暗視スコープをポーチに戻した。彼はその場を離れず、さらに一分間、観察を続けた。光源の気配は、完全に途絶えている。彼はゆっくりと立ち上がり、車に戻った。
エンジンをかけずに、彼は軍用端末を取り出した。画面の明かりを最小限に抑え、先ほど記憶したパターンを打ち込む。不完全なシーケンスが、テキストとして表示される。
——短点・短点・長点・短点。
——長点・短点・長点。
——短点・短点・短点。
彼はそのパターンを、暗号解読ソフトウェアにかける。解析中——表示が回る。十秒。二十秒。画面に、結果が表示される。
「通信開始。座標送信。受信確認」
桐嶋の喉が、かすかに鳴る。彼は端末に、沖合いの船の方向をメモした。北北西、距離約三百メートル。時刻、午後十時三十五分。すべてのデータを、暗号化フォルダに保存する。
彼はハンドルを握り、エンジンをかけた。ヘッドライトが、砂利道を照らす。バックミラーに、闇が広がる。彼は車をUターンさせ、自宅へ向かう道を走り始めた。
今夜の観察が、明日の調査に新たな光を投げかける予感が、胸の奥で静かに息づいている。あの光のパターンは、決して偶然ではない。この時間、この場所での暗号通信——それは、事件の核心が単なる警察の隠蔽工作を超え、組織的な情報工作であることを確信させるに十分だった。桐嶋はアクセルを踏み込んだ。辺野古の夜が、車窓を流れていく。
桐嶋篤は自宅のソファに座り、使い捨て携帯電話を手に取った。時計は午後十一時を回っている。美咲の部屋からは規則正しい寝息が聞こえる。彼は電話帳から那覇の妹の番号を呼び出した。コール音が三度鳴り、向こうが出る。
「もしもし、姉さんか。急な話だ。明日から数日間、美咲を預かってほしい」
受話器の向こうで妹が息を呑む気配がした。彼は簡潔に事情を説明した。敵の網が娘にまで伸びていること。安全を確保するまでの間だけだということ。
通話を切った後、彼は美咲の部屋のドアを静かに開けた。娘は布団を深くかぶり、穏やかな寝息を立てている。彼はしばらくその寝顔を見つめ、そっとドアを閉めた。
机の上に置いたメモに、彼は走り書きをした。「しばらく叔母の家にいなさい。必ず迎えに行く。」
翌朝、桐嶋は那覇市の旧市街にいた。築五十年の雑居ビルの三階、表札もないドアの前で立ち止まる。中からは基盤をハンダ付けする音が漏れていた。
彼はノックをした。三十秒後、ドアが十センチだけ開き、片目の技術者が顔を覗かせた。
「悪いが、今は手が離せない」
「データの解析を頼みたい。報酬は出す」
技術者の目が桐嶋の顔を一瞥し、腰の膨らみに気づいた。彼は首を振った。
「その物騒なものを持って来るような依頼は、お断りだ」
ドアが閉まりかけた。桐嶋は素早く名乗った。「元海自の桐嶋だ。お前に依頼された、あの暗号解読の――」
技術者の手が止まった。彼は桐嶋をまじまじと見つめ、やがて低い声で言った。「入りたくても入れない事情がある。ここを引き返せ。お前の顔は、もう売れてる」
桐嶋は公衆電話から、内閣情報調査室の元情報将校――ジョン――に連絡を入れた。呼び出し音が四回続き、留守番電話に切り替わる。彼は要件を告げずに切った。
十分後、公衆電話が鳴った。彼は受話器を取る。
「場所はいつもの店だ。三十分後に」
ジョンの声だった。それだけ言って通話は切れた。
コーヒーショップ「斑鳩」のカウンターで、ジョンは無言でコーヒーを差し出した。桐嶋は十一桁の数字と回路図のコピーをカウンターに置いた。
「これは危険な匂いがする」ジョンは図面を一瞥し、コーヒーを一口啜った。「そしてお前は、もう後戻りできないところまで来ている」
「だからこそ、お前が必要だ」
ジョンは長い沈黙の後、うなずいた。「裏で解析する。三日くれ」
その夜、桐嶋の軍用端末に暗号化されたメッセージが届いた。送信者は元同僚——那覇のIT企業社長、崎山だ。本文は簡潔だった。
『解析終了。依頼品は軍用特殊機材——AN/PRC-百六十七の派生型。通信記録を解析した結果、内閣情報調査室のサーバーと複数回交信の痕跡を確認。さらに被害者端末から基地内部の位置情報と非公式物資搬入の記録を抽出。これは組織的な情報収集活動に使用されていたものだ。詳細は直接会って話す。指定する場所を送る』
桐嶋はそのメッセージを三度読み返した。内閣情報調査室——国内の情報機関が関与している。彼の指が顎の古傷を擦る。事態は、彼の想定よりもはるかに深い闇へと続いていた。
桐嶋は海岸線に立っていた。夜の闇が海を覆い、風が潮の香りを運ぶ。彼は懐中電灯を消し、月明かりだけを頼りに岩場を進んだ。
被害者の最後の通話記録が示す場所――基地反対側の僻地の海岸だ。彼は懐から防水ケースの写真を取り出し、周囲の地形と見比べた。
岩陰に隠された小型の防水ケース。だが、それを手に取った瞬間、彼はそれが既に開封されていることを知った。中は空だった。誰かが先に回収していた。
彼は拳を岩に叩きつけた。一歩遅れている。その帰り道、車のミラーに映る後続車が、不自然に同じルートをトレースしていた。
黒いセダンだった。距離は二百メートル。速度は彼と同じ。
桐嶋はアクセルを踏み込んだ。監視の網は、既に彼のすぐ背後まで迫っていた。
ネットカフェの個室ブースは、薄暗い。桐嶋篤は背を壁に預け、軍用端末の画面だけが顔を照らす。換気口からは、タバコの古い匂いが流れてくる。
彼は指を動かす。暗号化アプリを起動し、送信先のIDを手入力する。数字の列——十年前の任務で使った共同暗号のキーだ。メッセージは短い。




