第15話 二人の距離
彼はプリペイド携帯を取り出し、暗号化アプリで一つの番号を呼び出した。コードネーム「魚屋」——那覇の裏市場を拠点にする情報屋で、基地関係の裏情報に詳しい。
呼び出し音が二回。相手が出た。
「久しいな。要件は」
「基地関係の調査をしている。三年前まで辺野古の現場にいた作業員——森脇健一という男に心当たりはないか」
一拍の沈黙。相手の呼吸だけが伝わる。
「……ああ、知っている。が、その男は最近行方不明だ。作業員仲間が探し回っている」
「襲われた。ノートパソコンを奪われて刺された」
「やっぱりか」相手の声が一段、潜まる。「森脇は不自然な連中にマークされていた。基地の中のことに首を突っ込みすぎたんだろう」
「他に知っていることは」
「森脇が最後に接触しようとしていた人間に心当たりがある。基地の元通訳だ——比嘉恵子って女だ。もう……」
相手の声が途切れた。桐嶋の指が携帯の縁を強く握る。比嘉恵子——被害者の名前だった。
「……わかった。情報料はいつもの場所に置く」
「ああ。それから——」相手の声がさらに低くなる。「お前の娘さんは安全か」
桐嶋の呼吸が止まった。
「どういう意味だ」
「噂になっている。お前の調査がどこまで行っているか、知っている連中がいる。気をつけろ」
通話が切れた。桐嶋は携帯を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
彼は端末に向き直り、倉庫C——元アメリカ軍通信施設跡地の情報を再表示させた。
「協定が変わっても、場所は変わらない」
彼の声に、微かな怒りが混じる。かつて、この施設から発信される暗号通信を見た。基地外でもアメリカ軍は自由に通信できた。地位協定が撤廃された今も、その仕組みが残っている。施設を管理するのは、新たに設置された「日米合同調整室」。つまり、あのニュースの組織だ。
桐嶋は軍用端末の画面を閉じた。代わりに、防犯装置制御パネルを確認する。不正アクセスログ。侵入検知記録。すべて正常だ。彼はセキュリティルームの隠し金庫へ歩み寄り、生体認証で開く。金庫の中から、十年前の任務記録の一部を取り出す。一枚の写真——戦友たちとの集合写真だ。その中に、一人だけ、顔が黒く塗りつぶされた男がいる。桐嶋は写真を裏返し、金庫の奥に押し込んだ。
彼は戻り、椅子に腰掛ける。机の上に、ノートを広げる。ペンを握り、明日の行動計画を書き出し始める。
一、倉庫Cへの侵入経路の確認。
二、物流記録の確実な証拠化——写真、書類の複製。
三、隠蔽工作の連鎖を証明する資料の収集。
四、娘の安全確保——一時的な避難先の手配。
桐嶋はペンを置き、ノートを見つめる。文字は整然と並ぶが、その奥に沸き上がる感情を、彼は抑えきれない。胸の内側で、何かが軋む音がする。自分の行動が、美咲を危険に晒す。だが、引くわけにはいかない。この網を、この闇を、暴かなければならない。
彼は目を閉じた。瞼の裏に、今日出会った女——被害者の顔が浮かぶ。彼女が最後に見たものは、何だったのか。その答えを、この手で掴む。彼はゆっくりと目を開け、立ち上がる。
壁の時計が、午前零時を指す。新たな一日が始まろうとしている。桐嶋は軍用端末の電源を切った。画面の灯りが消え、部屋は闇に包まれる。彼はその暗がりの中で、拳を握りしめた。そのまま、数秒間、動かなかった。
午後十時過ぎ、桐嶋篤は自宅のドアを静かに閉めた。鍵がかかる音が、暗がりに吸い込まれる。彼はポケットのキーを確認し、トレッキングシューズの紐を締め直した。娘の部屋からは、規則正しい寝息が聞こえていた。あの呼吸が止まっていないことだけが、彼の背中を押す。
車のエンジンをかける。辺野古の夜道を、彼は無目的に走らせていた。ただ、無性に外の空気を吸いたかった。窓を開ける。潮の匂いが、シートに沁み込む。信号待ちで止まるたびに、彼はバックミラーを確認した。尾行はない。
国道を逸れ、海岸線へ向かう細い道に入る。ヘッドライトが、舗装の切れた砂利道を照らす。木々の隙間から、海面が月明かりに浮かび上がる。その時——
桐嶋の視界の端で、不規則な光が瞬いた。
彼は直感的にブレーキを踏んだ。車体が砂利に軋む。エンジンを切り、キーを抜く。静寂が降りる。耳を澄ます。波の音。風の音。そして——
再び、光。
遠くの海岸線から、規則性を持った点滅が繰り返されている。短い点滅。長い点滅。短い点滅、短い点滅、長い点滅。間合い。短い点滅、長い点滅、長い点滅。
桐嶋の背筋を、冷たい汗が伝う。
「——軍用簡易暗号」
彼の唇が、無意識にその言葉を紡いだ。自衛隊時代、夜間の偵察訓練で何度も見た。あのリズム。短点と長点の組み合わせ。暗視ゴーグル越しに、指先でカウントした記憶が、脊椎を駆け上がる。
彼は車を降りた。ドアを静かに閉める。トレッキングシューズが、砂利を踏む。防風林の陰に滑り込み、腰を低くする。幹の影が、彼の体を覆う。彼はベルトポーチから暗視スコープを取り出し、右目に当てた。
視界が、緑色の世界に変わる。
光源の方向を特定する。沖合い——約三百メートル。小型船舶だ。船体のシルエットが、波間に揺れている。その甲板から、光が発せられている。手持ちのライトだ。誰かが、合図を送っている。
桐嶋はスコープの焦点を、陸側に移動させる。応答地点を探す。防風林の向こう、丘陵地帯の斜面。そこに、別の光が瞬いている。短い点滅。長い点滅。
——短点、短点、長点、短点。間合い。長点、短点、長点。間合い。短点、短点、短点。
彼は頭の中で、パターン記憶しようとした。だが、焦りが一部を欠落させる。歯を食いしばる。もう一度。短点、短点、長点——いや、違う。もう一度。
彼は右手をポケットに突っ込み、小型カメラを取り出した。レンズキャップを外す。ファインダーを覗き、シャッターを切る。連写。光の軌跡を、記録する。五枚。十枚。十五枚。彼の指が、一定のリズムで動く。




