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第14話 潮音の誤算

 ダイニングのテーブルには、二人分のカレーが用意されていた。スプーンの位置が不釣り合いに揃っている。美咲が気を遣った証拠だ。桐嶋は椅子に腰掛け、スプーンを手に取る。口に入れたカレーは、やや塩気が強い。だが、温かさが胃に染み渡った。


「今日ね、学校でね」


 美咲が話し始める。クラスメートのこと。体育の授業のこと。来月の文化祭の準備。桐嶋は頷きながら、彼女の言葉に耳を傾ける。同時に、その声の裏側に潜む何かを探している。娘が、父親を気遣っている。話題を選んでいる。学校の嫌なこと、友達との小さな確執を、話さないようにしている。


「……お父さん、今日は何してたの?」


 質問が来た。桐嶋の手が止まる。スプーンの先がカレーの表面に触れたまま、動かない。


「ちょっとした調査だ。忘れ物探し」


「嘘」


 美咲の声が、鋭く尖った。彼女の目が、卓上スタンドの光を反射して、父親の顔をまっすぐに見据える。


「お父さん、今日もあの事件を調べてるんでしょ。ニュースでやってた。辺野古の、あの女性の事件」


 桐嶋は答えなかった。代わりに、スプーンを口に運ぶ。噛む。飲み込む。その動作が、一瞬の間を作る。


「美咲」


「もう子供扱いしないで」


 美咲の声が震えた。涙ではない。怒りでもない。ただ、確かな決意がその奥にあった。


「私、十四歳だよ。お母さんが亡くなってから、ずっとお父さんと二人だ。お父さんが何かを隠してるって、分かるよ。でも、私はただ、お父さんが無事でいてくれればそれでいいの」


 桐嶋の喉が詰まる。彼はスプーンを置き、テーブルの上で両手を組んだ。指の関節が白くなる。


「約束する。必ず帰る」


「……分かってる」


 美咲は立ち上がり、食器をシンクに運んだ。背中が少しだけ細い。彼女の手が、蛇口をひねる音が聞こえる。


 桐嶋はその背中を見つめながら、拳を握り締めた。約束の重みが、肩にのしかかる。十年前、コンテナの中で見殺しにした戦友の顔が、一瞬、脳裏をよぎった。


 美咲の部屋の灯りが消えたのは、午後九時を十分過ぎた頃だった。桐嶋はリビングのソファに座り、暗がりの中で彼女の気配が完全に途絶えるのを確認した。足音が近づくこともなく、ドアが開くこともない。安堵と同時に、孤独が背筋を這い上がる。


 彼は立ち上がった。スリッパの音を立てずに、執務室へ向かう。壁の一枚が床から天井までの本棚に見える。その背板を押すと、かすかなクリック音が響く。壁が内側に開き、暗がりの階段が現れた。証拠保管・セキュリティルームへの入口だ。


 階段を降りると、空調の音が静かに鳴っている。天井のLED照明が自動で点灯し、部屋を白く照らす。壁には防犯装置制御パネル。証拠品整理棚には、今日の調査で集めた資料が並ぶ。そして壁の一角、一見すると何の変哲もない漆喰の壁。桐嶋は右の人差し指を、その表面のわずかな凹凸に触れる。生体認証センサーが認識する。低いモーター音。壁の一部がせり出し、隠し金庫が現れた。


 彼は金庫を開けた。中には、今日のコーヒーショップでの録音データが入った暗号化メモリ。警察署で確認した証拠品管理記録のコピー。そして、十年前の任務記録の一部——戦友の顔が刻まれた、あの日の写真。桐嶋はその写真を一瞥し、すぐに視線を外した。


 彼は軍用デジタル端末を金庫から取り出し、隣の分析卓に置いた。電源を入れる。画面が青白く光る。桐嶋は椅子に座り、背筋を伸ばした。両手をキーボードの上に置き、打鍵を始める。


 まず、コーヒーショップの録音を解析する。周波数分析。声紋照合。警察関係者の会話の中から、「証拠品の移動」「上層部の指示」という単語を抽出する。次に、警察署で得た管理記録の不自然な点を、データベースと照合する。承認印の筆跡が、過去の同様のケースで使われたものと一致するか。検索は進む。


 画面の左端に、辺野古周辺の衛星画像が展開される。港、基地、倉庫。三つの点が結ばれ、動線が浮かび上がる。彼はその線を辿りながら、民間セキュリティ会社の物流記録を横断検索する。ノートパソコンの移動経路。隠蔽工作のパターン。時間が流れる。彼の呼吸は浅く、均一だ。


 ——一時間が過ぎた。


 桐嶋は端末の電源を切り、立ち上がった。金庫に端末を戻す。壁のパネルを閉じる。防犯装置制御パネルを確認し、セキュリティが正常に作動していることを確かめる。彼はゆっくりと階段を上がり、執務室に戻った。


 リビングのソファに再び腰掛ける。壁の時計が午後十一時を指す。彼は目を閉じた。瞼の裏で、明日の行動計画が組み立てられていく。ノートパソコンの行き先。証拠を押さえるための方法。娘を守るための安全策。


 彼は目を開け、窓の外を見た。辺野古の夜が広がっている。遠くの基地の灯りが、静かに瞬く。桐嶋は拳を握り、そのまま数秒間、動かなかった。


「……必ず、終わらせる」


 声は、暗がりに溶けた。


 午後十時過ぎ、桐嶋篤は自宅のドアを静かに閉めた。鍵がかかる音が、暗がりに吸い込まれる。彼はポケットのキーを確認し、トレッキングシューズの紐を締め直した。娘の部屋からは、規則正しい寝息が聞こえていた。あの呼吸が止まっていないことだけが、彼の背中を押す。


 車のエンジンをかける。


「——ノートパソコンだ」


 彼は立ち上がり、壁の調査ボードに歩み寄る。マーカーを手に取り、物流の経路を書き加える。現場→倉庫A→物流センターB→倉庫C。線が、点を結ぶ。三つの倉庫のうち、二つは民間の管理下。だが倉庫Cだけは、空欄のままだ。所属表記がない。桐嶋はその下に「?”と書き、矢印を伸ばす。


 彼は端末に戻り、倉庫Cの所在地を衛星画像で確認する。辺野古の北、約十二キロ。元アメリカ軍の通信施設跡地だ。現在は国有地として管理されているが、使用状況は公開されていない。桐嶋の顎を、右手の親指と人差し指が擦る。


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