第25話 決別
桐嶋は目を閉じた。瞼の裏に、美咲の笑顔が浮かぶ。そして——比嘉恵子の遺影。森脇の刺創。すべては、この闇を暴くためにあった。
彼は目を開けた。
「断る」
「——何?」
「公開は止めない。お前たちの網は、今夜終わる」
一瞬の沈黙。ジョンの声のトーンが変わった。
「……残念だ。本当に、残念だ」
通話が切れた。桐嶋は携帯の電源を切り、バッテリーを抜いた。指先が微かに震えている。
彼は拳銃を手に取り、個室の一番奥、ドアから直接銃弾が届かない死角に位置する小さな床の空間に身を沈めた。背中を壁につけ、両膝を立てる。拳銃は膝の上に載せ、片手で軽く包む。もう一方の手は、床の冷たさを感じていた。
ディスプレイの青白い光だけが、彼の沈んだ姿を輪郭づける。カウントダウンの数字は、静かに、確実に減算を続けていた。彼の呼吸は浅く、規則的になり、岩陰に潜む兵士のように、全ての感覚を外界へと解き放った。待機態勢は完了した。深夜のネットカフェ個室は、ディスプレイの青白い光だけが呼吸していた。カウントダウンは十一時間を切り、桐嶋篤は床の死角に身を沈めて待機していた。拳銃が膝の上で冷たい。
廊下の蛍光灯が一斉に消えた。真っ暗闇が個室を襲う。ノートパソコンのバッテリーLEDだけが、赤い点となって浮かぶ。
桐嶋の筋肉が一瞬で硬直する。彼は息を止め、耳を澄ませた。非常灯の作動音はない。計画停電でもない。
鉄製の階段が、軋まずに重い荷重を受ける音がした。三つ、いや四つの足音だ。速度は均一で、間隔を詰めて上ってくる。
彼は静かに立ち上がる。背中を壁から離し、鞄を肩にかけた。拳銃の安全装置を外す。カチッという音が暗闇に吸い込まれる。
足音が廊下に達した。停止しない。彼らの目標は明確だ。
桐嶋は窓へ背を向け、ドアの方を睨んだ。個室の薄いドアが、外側から静かに押される。内鍵が軋む。
彼は瞬時に判断した。窓からの脱出は既に封じられている。下で待ち伏せているに違いない。
ドアノブが回り始めた。桐嶋は机を蹴り、横倒しにする。ノートパソコンが床に落ち、光る画面が天井を照らす。机の側面が即席の盾となる。
ドアが内側へ吹き飛んだ。木片が散る。影が二つ、隙間から滑り込んでくる。
桐嶋は倒れた机の陰から、低い姿勢で二発撃った。銃口火が暗闇を引き裂く。鈍い唸り声が一つ、壁に体を打ちつける音がした。
残る一人が銃を構える。桐嶋は机を前に押し出し、体ごと突進した。机が男の足元にぶつかり、バランスを崩させる。
彼はその隙に飛び出し、掌底を男の喉元へ叩き込んだ。軟骨が軋む音。男がのけ反る。桐嶋はその銃を掴み、床へ叩きつけた。
廊下からさらに足音。増援だ。
彼は倒れた男の体を蹴り、個室の奥へ退いた。窓は諦める。代わりに、天井の換気口を見上げた。
椅子を踏み台にし、換気口のカバーを外す。金属枠が軋む。彼は鞄を先に押し込み、自身も体をねじり込んだ。狭いダクトが金属音を立てて受け入れる。
下の個室で、男たちが入り込んできた。彼らの懐中電灯の光が、換気口の隙間から細い帯となって、桐嶋の逃げる背中を追った。
換気口を這い抜け、桐嶋はビルの屋上へ出た。夜明け前の空が、東の地平線をわずかに白ませ始めている。潮の香りが風に乗る。辺野古の海が、遠くに広がっていた。
彼はポケットから小型端末を取り出した。画面には、公開タイマーの残り時間が表示されている。
——00:03:21。
——00:02:58。
——00:01:42。
彼は屋上の縁に腰を下ろし、端末を膝の上に置いた。眼下の街はまだ静かだ。しかし、もうすぐ変わる。
——00:00:30。
彼は娘の写真を胸ポケットから取り出した。校庭で笑う美咲の顔。指先でそっと撫でる。
——00:00:10。
——00:00:05。
——00:00:00。
タイマーがゼロになった。端末の画面が一瞬、白く光る。そして——静かに、送信完了の表示が浮かんだ。
公開された。
彼は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。遠くで、サイレンの音が聞こえ始めた。パトカーか、あるいはマスコミの車両か。どちらにせよ、もう止まらない。
桐嶋は立ち上がった。屋上の端まで歩き、街を見下ろす。ネットカフェの入口には、既に数台のワゴン車が集まり始めている。ヘッドライトが青白く光る。
彼は階段へ向かった。一歩一歩、確かに。地下に潜るのではなく、地上へ向かう。
ビルの正面入口を出た時、フラッシュの光がいくつも弾けた。マイクが差し出される。記者たちの声が飛び交う。
「桐嶋さん!あなたが告発者ですか!」
「データの公開は您の指示ですか!」
「娘さんの安全は——!」
桐嶋は足を止めた。そして、カメラのレンズの奥——画面の向こうの無数の瞳を見つめた。
「これは——」彼の声は低く、しかし通った。「十年前から続く、国家による情報隠蔽の記録だ。私はそれを暴くことを選んだ。一人の父親として、一人の元自衛官として」
「動機は——なぜ今なのですか」
彼は一瞬、間を置いた。
「私は過去に、任務の代償として一人の民間人を見殺しにした。その記憶が、十年間この胸に刺さったままだ。今度は——同じ過ちを繰り返さない。娘に誇れる父親でありたい。それだけだ」
彼は背を向け、歩き始めた。背後から新たな質問が飛ぶが、振り返らない。
那覇の街が、朝日を浴びて白み始めている。彼はポケットの携帯電話を取り出した——新しいSIMを挿入した、たった一つの番号だけが登録された電話を。
呼び出し音が一度。二度。
「——もしもし?」
娘の声だった。
「美咲。終わったよ。今から——帰る」
彼は歩き続けた。朝日が彼の背中を照らし、長い影がアスファルトに伸びる。辺野古の海も、那覇の街も、すべて同じ光の下にあった。
——真実は、確かに公開された。
——そして、父親は約束を果たすために、帰路を急ぐ。
(了)
これにて完結です。ここまで読んでくださりありがとうございました、
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