『パラス・アテナ』Ⅱ カズイ・スチカ①
ホールデンが目を覚ましたのは、深夜三時半を回った頃だった。
特制兵はそれ程早い時刻に起床せねばならない、という決まりは無論ない。全く意図しない時刻に覚醒してしまったが、それは以前のように悪夢を見、眠りが浅かったという訳ではなかった。
クラインフェルドなどは、体内時計を司るナノマシンを脳──視床下部に注射し、軍の規定による起床時刻に全身の器官を覚醒させるようコントロールしているという。肉体も随所をインプラントに置換し、サイボーグ化している彼だ、全体幾つコンピュータデバイスをその体に入れているのか分かったものではない。古くからSFに描かれるような電脳化技術が開発されたら、彼は真っ先に自らにそれを適用するのではないだろうか。
それはさておき──。
(アンナ……いや、サリーか?)
ホールデンの覚醒は、夢現のうちに微かな甘い香りを嗅いだ──ような気がした事によるものだった。香水になど詳しい訳もない自分が、唯一判別出来る茉莉花の香り。それは、亡き妻がいつもつけていた香りだった。
彼女だけではない。まだ幼く、母親に始終くっついていた娘からも、微かな移り香が感じられていた。彼女らの事を考える時、ホールデンは共感覚のようにその香りを鼻先に感じる事がある。
目を覚ます直前まで見ていた夢が、思い出せない事はある。だが、ホールデンは先程まで自分が夢を見ていたとしても、それが家族のものでない事はすぐに確信した。
原因は明白──あの、ミア・サーペンタインという娘の事だ。
顔はまるで違う。年齢がかけ離れているのだから当たり前だし、十年が経過した事を考えても思春期の前後では顔も体つきも重なり合わないのは当然だ。それでもホールデンは、あのSディメンショナーの娘に、愛娘のサラの面影を見出してしまっていた。
(……って、俺は何を考えているんだ。彼女は十九だぞ)
サラが生きていれば、今月で十二歳になる。十二歳と十九歳では、それよりも上か、或いは下の七歳の懸隔よりも感じさせる年齢差はかなり大きい。
ルーマニアでの戦いから、一日が経過していた。既に日付を跨いでいるので、正確には二日後だ。
ニューヨーク州、ネプチューン本部。
大規模な改装工事はなされたが、建物そのものはかつての国連本部と同じものだ。帰還後、現地では応急処置に留まっていた傷の治療や機械化した各部位のメンテナンス、戦死者たちの弔いを行うと同時に、ホールデンはクラインフェルドから、ミアが十九歳である事、米国人でありながらシリアで少年兵部隊に参加しているところをネプチューン軍が死体の山から唯一の生存者として保護した、という素性を説明された。彼女のコードネームも、MIA(Missing In Action:作戦行動中行方不明)に由来するものらしい。恐らく、米国内でマフィアに拉致された子供が裏ルートで海外に──労働力や性奴隷、違法臓器移植のドナーとして──輸出され、巡り巡って現地の軍人に購入されたのだろうと彼は推測していた。
昨日のうちにクラインフェルドから説明されたのは、そこまでだった。超人兵とはどのような存在なのか、何の為に組織された部隊なのか、といった情報はまだ開示されておらず、しかもこの事についても、「三叉鉾」の皆が真実を知りたがっているにも拘わらずホールデンのみに明かされた。
何故自分だけに、という疑問を当然口に出したホールデンに、クラインフェルドは
「それについては明日以降説明する」
とだけ答えた。
「しかし、はぐらかしている訳ではないから誤解するな。彼女はこれから暫し、『三叉鉾』で預かりの身となる。私の指揮下に入り、ハング大尉、貴様と共に特別な任務に当たって貰う事になるだろう」
(特別な任務……あの子との共同作戦、か)
どのようなものだろう、と考え、やや楽しみに思う自分と、後天的に移植されたものとはいえ実際のS器官を持ったSディメンショナーと組を組む事について恐れを抱く自分が、ホールデンの中で混在していた。当然ながらホールデンも、良心の限界を司るのがS器官そのものではないという事は理解しているが……
(あまり、余計な事は考えないようにしよう)
──サラもアンナも、もう居ないし戻って来る事はない。理性で分かっているのなら、それに従わねばならない。
ホールデンは内心で呟き、自らに自己暗示を掛けると、ベッドから降りて枕頭に畳まれているトレーナーを羽織った。また眠るつもりだったが、その前に気分の入れ替えも兼ねてトイレに行っておこうと思い、起き出した。
サーペンタインの医務室は、ホールデンにとって今や第二の兵舎も同然だった。
普段は相棒のディーターをルームメイトとして同じ部屋で寝起きしているが、元Sディメンショナーである自分は前回のような作戦が行われたり、定期検査がある度に何日か医務室に泊まり込むという事がある。特制軍特有の各種身体改造や薬物投与が、正常化手術後のSディメンショナーの肉体に与える影響についてはまだまだブラックボックスな部分が多い。
というよりも、元Sディメンショナーが特制軍に所属しているという事例自体がそうそうある事ではなく、ホールデンがイレギュラー中のイレギュラーなのだ。「三叉鉾」の主力故に身体の綿密なケア、マネジメントが必要なのは当然の事だが、主治医であるサーペンタイン博士はややこちらを貴重な研究サンプルとして見ている節もある。
一度検査が始まるとなかなか解放して貰えないのはいつもの事だが、そういえば今回は特に検査内容が精密だったな、と思う。対ゲオルゲ戦はここ最近で最も規模の大きな戦闘だったとはいえ、定期検査自体は四日前──いや、もう五日前か──に済まされている。
ややもすると、この事も今日クラインフェルドから下される命令──ミアとの共同作戦に関連しているのだろうか?
余計な事は考えるな、と自らに言い聞かせたばかりだが、どうしても思考はそちらの方面に流れてしまう。
ホールデンは頭を振り、暗い廊下を進む事だけに集中した。ホルスのGCLは点眼し直しており、フィルターが暗視モードに設定されている為、暗闇でも夜行性のネコ科動物の如く安全に歩く事が出来た。
ふと、微かな声が聴覚に拾われた。
気のせいか、と思ったが、そのつもりで聴くとはっきりと聞こえてくる。ホールデンは思わず足を止め、身を乗り出すようにして耳を欹てた。呻くような、啜り泣くような声……どうやら、先の一室から聞こえてくるようだった。
ホールデンは壁を手で伝うようにし、忍び足でそちらへ進む。角を一つ曲がった時、小規模なミーティングルームの扉が並ぶ廊下で、その一つの隙間から細い照明の筋が暗闇に漏れ出しているのが目に入った。
声は、段々とはっきり聞こえてくるようになる。
「──この辺りでいいだろう、さっさと始める事にしよう」
(………!?)
はっと息を呑む。それは、カイエンの声だった。彼に続けるように、二人めの男の声も発される。
「ロビンソン・テラー、二十八歳男。血液型はA型。ペンシルベニア州アレンタウン出身、フィラデルフィア在住。独身。健康状態に特筆すべき点はなし、SDSは次元切断。まあ一般的な能力だな。IDはUSAの……」
個人情報を音読しているのは、カイエンと同じく「海蛇組」のリーだ。ホールデンは最初に読み上げられたロビンソン・テラーという名前に、それが一昨日米国特制軍に投降したSディメンショナーのものだったな、と気付く。壁に背をつけて部屋に近づき、覗き込みはしないが聞き耳を立てた。
どうやら自分は、拷問の場に立ち会っているらしい。このような深夜に、取調室ではない普通の部屋を使っている辺り、これはカイエン、リーのみが密かに与えられた仕事なのだろうとホールデンは推測した。
一通り読むと、リーは「間違いないな?」と拷問対象の男──テラーに確認する。テラーはやや震えているような声だったが、はっきりと「イエス」と答えた。
再び、発言者がカイエンに交替する。
「クー・クラックス・クランへの関与は?」
「……事実だ。今は幹部として組織に所属している」
ホールデンは、再び息を呑む事になった。
秘密結社クー・クラックス・クラン。十九世紀から、組織を変遷しながら脈々と米国内で暗躍を続けてきた白人至上主義団体。
第二次世界大戦を境に凋落し、「第三次」と呼ばれる小規模な団体や分派が密かに活動していた二十一世紀。その終わりから大厄災時代にかけ、アノニマス(国際的なホワイトハッカー集団)による構成員特定と検挙により、そのような小規模団体も多くが強制捜査から諸々の理由で解散に追い込まれた。しかし、根強く地下活動を続けていた分流の中からSディメンショナーが現れ、その中に「教祖」が出現した事により、組織は真っ二つに割れた。従来のデモを中心とした北方人種至上主義的活動を行うノーマルたちと、自分たちを彼らの中でも高次の存在とする「教祖」派に。
元が選民思想的な団体なので、その構成員がSディメンショナー化し良心の限界を迎えた際にこのような事になる土壌は用意されていた訳だが、二派はそれぞれに「『教祖』派は逸脱者の集まり」「自分たちこそが真の人類」と主張し合い、両者ともKKKという名称を使いながら反目し合っていた。
件の「大教祖」ランドールは、その「教祖」派に接触していた訳か──。




