『パラス・アテナ』Ⅰ パラス・アテナ⑤
何らかの予兆があった。それは、予兆だという事を悟る間もなく”出来事”へと繋がる。
夜雲を割くように、サーチライトと共に一機のヘリが降下して来た。当然ながら輸送機であるアルゲンタヴィスよりも小さいが、軍用ヘリの中では最大クラスではないだろうかと思える程に大きい。全長は四十メートルもあるだろうか。
その横腹に、ネプチューンの旗印である海王星の紋章──三叉の銛が描かれていた。
味方機──NH - 26 ヴェスパ・マンダリニア。しかし、このようなものが戦場に出てくる事など、余程の事が起こらない限り滅多にない。
(いや……実際に今は『余程の事』が起こっている訳だが……)
「おい、あれ見ろ!」
ディーターが、旋回するマンダリニアの反対側の側面を指差しながら叫んだ。
「ヘリの腹に、『サーペンタイン機関』って書いてあるぞ!」
「えっ?」
それは、ネプチューン内に設立されたSDS研究所の名だった。特制軍によって検挙されたSディメンショナーたちの、正常化手術によって切除されたS器官はサンプルとしてここに集められ、解析が行われる。また、手術を受けた元Sディメンショナーの定期検査やリハビリテーションも担当し、ホールデンが三日前にも受けた検診を十年間毎月行っているのもその代表であるセブ・サーペンタイン博士だった。
「サーペンタイン機関が何で、こんな攻撃ヘリを……?」
リーが呟いた。
「しかもネプチューン軍の所持しているものの中で、最大クラスだ──」
その時、突然マンダリニアのドアが開いた。
既にその高度は五百メートル程にまで下がってきている。それはホールデンが、サーチライトの向こうの暗闇、乗降口に立った人影を視認するのに十分な距離だった。
とはいえ、まだそれはシルエットしか見えない。随分とほっそりとした人物だ、と思った瞬間、その本人が虚空へと身を躍らせた。突然の事に、ホールデンは自殺の現場を目の当たりにしてしまったかの如き心臓の竦みを感じた。
光の中へその姿が躍り込み、影が剝ぎ取られていくに連れ、ディーターたちが驚愕の叫びを上げる。
それは、私服姿の若い女性だった。薄い水色のワンピースに、四肢はぴったりとした黒手袋とタイツに覆われている。ハーフアップの髪は亜麻色で、回転する光を浴びる度に麦畑のような黄金色に点滅する。
どう見ても特制軍の兵士ではない。しかし、ホールデンが──恐らくディーターたちも──あっと声を上げた理由はその事についてではなかった。
彼女は、パラシュートも個人翼も背中に装着してはいなかったのだ。
重力をまざまざと感じさせる加速の中、ホールデンらに更なる驚愕を与えるような事象が発生した。
「──TRANS - IT」
落下によって生じた下降気流がごうごうと音を立てるにも拘わらず、彼女の呟くようなその声は何故かはっきりとホールデンの耳に届いた。と、同時に、彼女の姿を中心に夜空が大きく揺らめいた。
その光景が、ホールデンの情動に強く何かを訴え掛けた。
(これは……)
しかし、それについて思考を巡らせるよりも早く、彼女に次の変化が起こった。
或いは彼女自身が、次の行動を起こした。生じた空間の揺らぎが一瞬ぴたりと停止し、それと共に視界に無数の彼女の姿が出現する。
ゲオルゲのように、次元ワープを繰り返して分身を発生させたのではない。ストロボ写真の如く、落下している彼女、道路の真ん中に着地した彼女、手近なゲオルゲの分身に向かって駆け出して行く彼女、銃──「三叉鉾」の基本武装と同じXM7だった──を抜き、狙いを定めた敵を撃ち抜いている彼女……これから彼女が行うであろう動作の一つ一つをこなしている彼女が、一瞬で全て出現したのだ。あたかも、彼女を中心とした極近未来の光景がそこに順番に並べられたかのように。
全て、というのは、ゲオルゲの分身が道路に居るものからその先でクラインフェルドたちと交戦しているもの、全てが撃ち殺された為だ。ホールデンは刹那、彼女以外の全ての者に流れる時間が停止したのかと思った。
一人大隊の能力が、Aという瞬間にA1という座標に存在する自分とA2という座標に存在する自分、両方を実装するものだとすれば、このSDSは──考えてみれば不思議な事だったが、この時自分は、彼女がSDSを使用したのだという事をごく自然に判断していた──時間単位で見た別次元の自分を出現させる能力か。それとも、世界そのものが未来へと移動させられたのか。では、何故複数の彼女が同時に現れる?
懸命に頭を回そうとするうちに──。
再び空間の揺らぎが動き出し、それが徐々に収束して元に戻った時、視界に映し出されていた彼女のストロボが一気に消滅した。パノラマの如きその光景の中で彼女に撃ち抜かれていた分身たちも、例によって再統合されたらしく消滅している。
残ったのは、クラインフェルドの目の前で銃口に息を吐き掛けて硝煙を吹き払う彼女と、その足元で後頭部を──いわゆる「処刑スタイル」で──撃たれ、広がる血溜まりの中に突っ伏す「教祖」の姿だった。
我に返った途端、突如としてフラッシュバックが起こった。
作戦開始直前、仮眠中に見た悪夢の中で映し出された光景だった。同時に、ぼんやりと浮かびかけた”予感”が”確信”へと変化する。
──知っている……この能力は、自分のよく知っているものだ。
──自分とって最も身近でありながら、今までの任務では決して再び見る事のなかった、極めて希少で強力なSDS。
──量子化。
(サリー……!)
無意識に心の中で呟いた時、
「死体が残った……って事はもう、ゲオルゲは……」
ロバートの独白が、ホールデンを作戦中という現実に引き戻した。カイエンがはっとしたように、インカムに向かって声を放つ。
「こちらヨルムンガルド。エコー、フォックストロット、応答せよ。観光港の状況を報せ。繰り返す、こちらヨルムンガルド──」
ホールデンは、ホルスに表示された時刻を確認する。電波時計の正確な情報は、彼女が現れてから現在までの時間に大きな隔たりがない事を明示していた。つまり、やはり自分たちが未来の次元に移動したという訳ではないらしい。
次元を移動したのは彼女だ。自身を状態の転送可能な量子に置換し、極近未来への移動を繰り返しながら敵を次々と排除した。しかし、当然ながらそれ以外の者たちの時間は、一瞬ではあるものの流れている。あまりの短時間に起こった外界の状態変化に対し、知覚と伝達という脳の処理が追い着かない観測者は、多数の残像を視界に映したままクロノスタシスのような時間の遅滞を感じる事になるのだ。
「………!」
ホールデンは、「大佐!」と呼ばいながら道路を駆け出した。
「待てよ!」
叫びつつディーターが、その後から残りの仲間たちも追って来る。しかし、彼らを振り返っている余裕はなかった。
近づくに連れ、クラインフェルドと彼女のやり取りが聞こえるようになった。
「──ゴードン少尉らの事は、残念でした」
彼女が出したエコー分隊のリーダーの名に、ホールデンははっとする。カイエンを振り返ると、彼は悔しそうに口を引き結び、ゆっくりと首を振った。
部下たちのバイタルサインが常時視界に表示されているクラインフェルドは、全て分かっていたというように顎を引いたままで彼女の言葉を聴いていた。口は真一文字に閉じられ、眉根だけが微かに寄っている。
一瞬で、港に残して来たエコー、フォックストロット両分隊が壊滅した事。こちら側での分身の全滅が、ゲオルゲという個人の完全な死に直結した事。それらは、ディーターが危惧した通りの事が──観光港の分身たちが囮となり、「三叉鉾」隊員の多くを巻き込んでの自爆が現実になった事を示すのに十分だった。やはりコンテナの中に、桁違いの爆薬が詰め込まれていたのだろう。
そして、この距離に居た自分たちがその爆発音を聞かなかったのは、それがこちらでデルタ分隊を巻き込んで同じく自爆が行われたタイミングと同じだったから──。
「クラインフェルド大佐ですね。私はネプチューン軍超人兵部隊所属、ミア・サーペンタイン曹長です」
──超人兵?
そのような部隊名は聞いた事がなかった。しかしクラインフェルドは、それについて問い質すような事はなく、冷静に尋ねた。「サーペンタイン? という事は、貴官はドクター・サーペンタインの?」
「いえ、血縁者ではありません。超人計画の被験者は身元不明者が多い為、軍籍にはコードネームと機関名を組み合わせた名で登録されているのです」
「そういう事だったか。……では、ミア曹長。窮地を救って頂いた事には感謝を述べる。しかし、今回軍が我々『三叉鉾』に下した命令内容は『教祖』アドリアン・ゲオルゲを生かして捕縛し、本部へ連行するというものだった。これでは、任務は失敗という報告をせざるを得なくなるが」
大佐の目が、自分たちに過去最悪の犠牲を出させた割に呆気なく絶命したゲオルゲの亡骸を見下ろす。しかしミアは、涼やかな声音で「ご心配には及びません」と答えた。
「私がまだ目標達成の旨をマンダリニアに送信していませんので、先に本部から『三叉鉾』の皆様に目標の変更が伝達されるでしょう。『教祖』アドリアン・ゲオルゲは捕縛ではなく、抹殺せよと」
「どういう事だ?」
「先程、『大教祖』ジョニー・ランドールの足取りを知るもう一人のSディメンショナーが米国本土で向こうの特制軍に投降しました。間もなく、その身柄が米国からネプチューン本部へと引き渡されるでしょう」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
大佐との会話中であるにも拘わらず、ディーターが我慢出来なくなったかのように口を挟んだ。カイエンが「グラニッツ大尉」と窘めるが、ホールデンは彼に対して何かを言う頭は回らなかった。
血中のアムリタが、たちどころにして蒸発してしまったかのようだった。
「色々突っ込んで聞きたい事はあるが、それはいいからちょっと待て。それじゃあ俺たちは……俺たちがさっきまでやってきた戦いは、何だったんだよ?」
「グラニッツ」
今度はクラインフェルドが、直接ディーターを制した。が、それよりも早くミアがこちらを振り返り、「残念ながら」と口を開いた。
「もっと早くに米国特制軍が件のもう一人──ロビンソン・テラーを確保していれば、ここの反乱軍が民間人を強制退去させた時点で、上空からの爆撃によるテロリストの壊滅が可能となっていたでしょう。アドリアン・ゲオルゲが如何に分裂していたとしても、全て叩いて良いという事だったのですから。しかし、この点で米軍を責める訳には行きません。彼らは自国の事を最優先せねばならず、大西洋を隔てたここの内乱に介入するネプチューン軍に神経を回す余裕などなかったでしょうから」
感情を交えない、淡々とした報告口調の彼女の言葉は、半分もホールデンの頭には入って来なかった。ホールデンはただ、ようやくしっかりと見られるようになった彼女の顔から視線を逸らす事が出来ずに硬直していた。
(サリーの顔ではない……しかし……)
彼女の面立ちは、まだ少女の面影を色濃く残している。その事が否が応でも、ホールデンにかつて自分が喪失したものを狂おしく思い起こさせるのだった。
「無駄だったのか? ヒューストンや、ゴードンたちの犠牲は……俺たちの叩き出してしまった、過去最悪の戦死者は?」
「それを受容する事を、あなた方は最初に、暗黙のうちに契約したはずです。軍人は命令に従わなければならないものですから。少なくともあなた方が今回の件で出撃した時点では、作戦が無駄なものになるとは上も予想出来なかったでしょう。我々超人兵部隊に、まだ未来視の能力を持ったSディメンショナーは存在しません」
「あんた……よくそんな風に、平然としていられるな」
「グラニッツ大尉、それよりも」
ミアもホルスを装着しているのか、彼女はディーターの名前を正確に呼んだ。それから皆を見回し、変わらぬ冷静な口調でてきぱきと言う。
「先程入った情報です。防衛通信衛星『ウアジェト』の映像より、黒海を航行中の過激派と思われるフェリーが、洋上で瞬間移動能力者と邂逅を果たしたのが確認されました。今からそのSDSが使われた場合、通常の所要時間である四時間という見積もりが大きく崩れる可能性があります。極端な話をすると、もうこの瞬間に港に過激派が到着しているという事も考えられなくはないのです」
「何っ!?」
カイエン以下四人からも、まだ続くのか、という声が上がる。クラインフェルドは軽く顎を引くと、上空で旋回を繰り返すヴェスパ・マンダリニアを改めて見上げた。
「……貴官らサーペンタインに要請した事は、やはり正解だったか」
「大佐、それはどういう事でしょうか?」
ディーターの問いには答えず、彼はミアに対して言葉を続けた。
「機動的な実地試験、という訳だな? 彼らがPKK残党より分裂したSディメンショナーである事、その中に瞬間移動能力者が含まれる事は事前に分かっていた……我々『三叉鉾』のみでは”後始末”に限界がある事が目に見えていたから」
「ええ、その通りです」
ミアは髪を靡かせ、港の方を睨んだ。「その為の、対SDS用人工超次元能力者──超人兵ですから」
ホールデンが彼女の横顔から視線を逸らせなかったのは、この数分間で与えられた大量の情報と状況の推移に、頭が着いて行けなかった為ではなかった。
人工Sディメンショナー。被験者。身元不明者。
そのように自らを言い表した彼女があまりにも──美しかった為だ。




