『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑭
* * *
「……さん! ホールデンさん! ホールデンさん、聞こえていますか?」
ミアの声が、繰り返し自分の名前を呼んでいた。ホールデンはぼんやりと目を開ける。目に入ったのは、また見知らぬ天井──ではなく、壁だった。
ホールデンは四肢を拘束され、灰色のコンクリートの壁に取り巻かれた狭い部屋の中央に座らされていた。背中に温かな感触がある。どうやら自分と背をくっつける形で、ミアもそこに座らされているらしい。自身の裸だった体には、薄手のガウンが着せられていた。
「ミア、大丈夫か?」首だけを動かし、微かに視界の端に彼女の髪を捉えた。
「全くもう、他人の心配ばかり……」ミアは呟いたが、すぐに返事をした。「FC弾を撃たれました。暫らくSDSは使えそうにありません」
「そうか……すまない、俺が迂闊だった」
「いいえ、私も予想外でした。まさかCIAの諜報員が、ランドールたちと手を組んでいたなんて──」
その瞬間、背後で扉の開閉音が鳴った。どうやらミアの向いている方の壁に、入口が設けられていたらしい。複数人の靴音がし、ミアがはっと息を呑んだ。
「何だ? 誰が入って来た?」
「これで、君にも分かるだろう?」
聞き覚えのない声がした。と、同時に、ホールデンの目の前に三人の人物の姿が虚空から滲み出すように現れる。
光の屈折──こちらから見て背後に居る人物の像が、本来死角であるはずのこちら側にも結ばれている。一人目は制服らしい黒いブレザーとタイトスカートに着替えたビアンカ、二人目はまだ写真でしか見た事のない初老の男──三要素使いのデュラン・ヒューズ。そして三人目は……
「『大教祖』……ジョニー・ランドール」
「如何にも」
ランドールは、表情一つ変えずに言った。「形状変化者」ハサン・アル=アブドゥルの化けていたのと同じ黒スーツを纏い、ネクタイを締めている。
「ビアンカを──いや、彼女を責めないでやって欲しい。君はここに来てから、一歩も我々に接近出来てはいなかった。このままデュランがタイムリミットまで隠れて続けていれば、君は何の苦痛も感じる事なく一瞬で軽石と火山灰の中に埋もれていただろう。その方が、我々にとっても好都合ではあったのだけれどね」
「ならば何故、こんな事をした?」
ホールデンは噛みつくように尋ねた。「俺たちの前に、姿を見せるなんて」
「その娘──ミア・サーペンタインにまで死んで貰う訳には行かなかったのだよ。彼女は女神なのだから」
「女神? 何を言っているんだ?」
「彼女には、我々の仲間になって貰わねばならない」
「誰が!」ミアが激しい調子で叫ぶ。「誰があなた方の仲間になど!」
「いや、なるさ。君はそうなる。これまで私に命を捧げてきた同胞たちのように」
「ビアンカのように?」
ホールデンが言うと、ビアンカは悲しげに目を伏せた。ランドールは首を振る。
「彼女は違う。しかし彼女は、非常に尊い事をしてくれた。彼女は『先駆者』として、いずれ来る世界でオールドを導く事になるだろう。彼女はオールドだ、同じオールドに対して良心の限界を迎える事はないよ」
ランドールは彼女の方を向き、「安心していい」と言った。
「君の心は、君自身のものだ。しかし、だからといってデュランも、自らを恥じる必要はないよ。君は啓蒙されたのだ、当然在るべき存在に目覚めただけさ」
「KKKの男が言っていたぞ、ランドール。お前には、特定のSディメンショナーに働き掛ける”力”があると」ホールデンは言い募った。「洗脳の類だと。それがビアンカや、今まで反乱を引き起こしてきた『教祖』に働き掛けた訳ではないと何故言える?」
「身も蓋もない事を言えば、全ての宗教とは究極的には洗脳だと思う。しかしそれでも、私はそれを『信仰』と呼びたい」
ランドールは一旦言葉を切ると、不意に尋ねてきた。
「君たちは、良心とは理性だと思うか? それとも、感情だと思うか?」
「突然何の話だ?」
「殺人など重大な罪を犯した時、理性が喪失していた為に無罪となった事例はある。だが、感情が喪失していたという理由で無罪となった事例はない」
彼の言葉は、講演を行う学者のように感じられた。
「良心の限界は、あらゆる生物が持っている。一定以上の能力を持った存在が、同種族の文明レベルを進化させるべく下位存在の犠牲を容認する事だ。食物連鎖では、ライオンがガゼルを食うのは当たり前で、ライオンにガゼルへの悪意などはない。同じく、道具と火の利用可能性を持った人間がジャングルを切り開いてでも都市を築き、資源を掘り出すのは当たり前。良心の限界がなければ、人類は文明を築く事など出来なかった。抹香臭い事を言うのではないが、生物の上位、下位などという連関は人間が後から生み出した概念で、元からあったものではない。食物連鎖の法則性とも一致するものではないよ。最上位に位置する者は他の何者にも食われる事はないはずだが、人間はライオンに食われるからね。
良心の限界が働く方向は、アプリオリなしには語れない。このアプリオリこそが『信仰』なのだ。人間が悪意なく、良心に囚われず自分たちの居住地を拡大する事が正典であれば、ニューノーマルがSDSというオールドにはない能力を有するが故にオールドを支配しようとする事もまた正典なのだよ」
「馬鹿を言うな。ノーマルもSディメンショナーも、どちらも人間だ」
「しかし、遺伝子は異なっている。確かに既存の『人種』も遺伝子に差異はあるが、それらはいずれも〇・一パーセントの違いだ。しかし、ニューノーマルとオールドの遺伝子には一パーセントの違いがある。
君たちの考える閾値は何処だ? かつて人間とチンパンジーの遺伝子は、二パーセントしか違わないと考えられてきた。実際には十五パーセントも異なっていたのだがね。当時の人々は何を以て、人間とチンパンジーを別種の生物だと区別していたのだろう? 外見か、それとも言語か。これもやはり、畢竟は『別種だ』という大前提がアプリオリとしてあり、正典だったのではないかな?
ニューノーマルとオールドは、外見は確かに同じだ。しかし、一パーセントの遺伝子の違いが超次元能力の有無という大きな差異を生み出している。陳腐な喩えになるが、もしも過去へのタイムトラベルが可能になったとして、五百万年前の世界に行ったオールドが猿人に遭遇したとしよう。その時彼は、猿人を同じ『人間』だと思うだろうか?」
「分かった……良心の限界の働く方向については、それでいいとしよう。では、そもそも良心とは何だとあんたは考えている?」
「考えるまでもない。脳のメカニズムの一つで、科学の領域だ」
ランドールは、至極あっさりと答えた。
「理性を司るのは前頭葉だ。大雑把な言い方をすれば、感情に基づく行動に対してブレーキを掛ける部位とも言えるだろう。ではいつブレーキを掛けるべきか、という事は、扁桃核から送られてきた情報に基づいて前頭葉が学習する。自身への快・不快のフィードバックを基に、自身の行動とそれらの関連づけを学び、善悪や社会的規範を覚えていく訳だ。
オールドがニューノーマルの子供に、SDSを使う度に暴力による制裁を加え、食事を与えなければ、その子供はSDSを使わなくなるだろう。それは、野生動物に育てられた人間の子供が人間社会への接近を戒められ続ければ、人間に保護されてからも人間社会への適応が困難になる事と変わらない。
そこで、良心の限界だ。ニューノーマルがオールドを淘汰しようとする作用力動は当然のものだ、と啓蒙し続ければどうなるだろうか。家の天井裏に動物が巣を作れば、悪意とは全く別問題として追い出さずにはいられないように、全生命が須らく従うべき対外的な本能を縛められ続けたニューノーマルに、些細なきっかけを与えてやれば」
「良心の限界を引き起こす事は容易いと?」
ミアが、「それはおかしいです」と反論した。
「それまで形成されてきた価値観と著しく異なるルールを与えられても、一度前頭葉が記憶してしまった事を簡単に覆す事は出来ません。日常で人を殺せば犯罪になりますが、戦場では殺人が合法化される。しかしそれでも、兵士の方々は人を──とりわけ少年兵として戦場に駆り出された子供たちなんかを殺せば、心が痛むんです。
この方──大尉は、正常化手術を受けたSディメンショナーです。しかし、あなたの言葉を借りさせて頂くのなら、彼はSDSを用いてノーマルに危害を加える事は罪悪だとそれまでの人生で学習し、動物を見る目でノーマルを見る事は出来ませんでした。
デュラン・ヒューズ、あなたがSDSを発現したのはほんの数年前の事でしょう? それまでに、あなたにはノーマルとしての正典が刷り込まれていたはずです。『些細なきっかけ』程度でそれが変容するなど、有り得ない」
「正常化手術じゃと? 退行手術の間違いじゃろ」
ヒューズは、多くのSディメンショナーが使う言い回しを同じく使用した。
「畢竟、学習データもまた電気信号である事に変わりはない。私は私自身の言葉によって、その不要な正典を消去する事が出来る。狭義の洗脳ではないよ、一度タブラ・ラサ、固定観念のない状態に戻すというだけだ。良心が生得的な観念でない事は、扁桃核の働きが弱い者がサイコパスになるという法則性からも明らかだ」
ランドールは、不意に口調を変えた。
「SDSは、潜在的にはあらゆる人間の可能性の内にある」
「何?」
「良心とは、SDSに対するインピーダンスなのだよ。ニューノーマルと、オールドを隔てる溝に、オールドの側から付けられた名前が良心だ。
進化の系譜を見れば、あらゆる生命は根が一つである事は明らかだ。シェードコアは地球に降り注ぎ、そこに居た人間たちにはいどうぞとSDSを手渡した訳ではない。彼らは自ら遺伝子を変異させ、S器官を形成し、時空間に干渉する能力を得た。原始的な単弓類の中に、その時点で人類に進化出来る可能性があったように、人間はことごとくがニューノーマルに──Sディメンショナーになり得る可能性をあらかじめ持っている」
ランドールは一息つき、更に言葉を続けた。
「イデアについては知っているか?」
「プラトン哲学の用語だ」ホールデンは短く言い、先を促す。
「そうだ。例えば犬の形は様々だが、猫とは決定的に異なっている。では、何が私たちに犬を犬だと思わせるのか? プラトンはこれを、万物にはそれぞれクッキーを抜く型のように共通した一つの雛型がある為だとし、それをイデアと呼んだ。
生物の形質は遺伝子によって決まる。イソギンチャクやヒドラなど再生能力の高い下等生物の中には、原形を失う程刻んでもそれぞれの破片が元の形に戻ろうとするものも居るが、では塩基配列という情報を、イデアにも近いそれらの形質へ結びつけているものは何なのか? 言い方を変えれば、何故そのようなパターンの塩基配列だと、生物はそのような形質に決定されるのか? その前提を、そもそも疑った事はあるか?
私は、これもまた『信仰』の為だと考えている。というよりも、あらゆるアプリオリ的な事柄は、元を糺せば『信仰』に行き着く」
「科学的ではありませんね」ミアが容喙する。
「先程も言った事だが、かつては人間とチンパンジーの遺伝子は二パーセントしか違わないと考えられ、実際の十五パーセントという差異が明らかになっても皆がこの可能性を神秘として信じたがった。これが『信仰』だよ。今回の場合は、些細な遺伝子変異が大きな進化の可能性を秘めているという事への、ね。
ユングが、心理学の分野に於いてこの『信仰』を暗示させる事を述べている。曰く、人間は個人を超越した集団や民族の中に、普遍的な様々の先天的な『元型』を持っている。プラトン哲学でいうところのイデアのようなものだね。これらの元型の根には、『自己』の元型という帰着点があるのだそうだ。外界との交渉主体である自我は、この自己元型と心的エネルギーを介して交渉し、須らく『完全な人間』を目指そうとする。
ユングは心理学者だから、この考えだけではどうもスピリチュアルな領域を抜け出してはいない感があるね。けれど、『信仰』は限りなくこれに近い。心的エネルギーに相当する何かこそが、塩基配列という情報を自己元型に結びつけ、インデックスを作り出している。では、仮にそれに代替する信号を以て、統一された自己認識を司る部位に──内側前頭前野に干渉を行えばどうなると思う?」
「旧時代で一時期流行った、狼少年になるんですか?」
ミアはせせら笑うように言ったが、その声は先程までよりも強張っていた。
ホールデンは、自分も声を出せばそのようになるような気がして何も言えない。段々と、この話の行き着く先が分かってきた。
「自分を狼だと思い込んでも、人間は狼にはなりません。あなたは、ノーマルとSディメンショナーは全く別種の生き物だと考えている。それが本当なら、ノーマルは……自分をSディメンショナーだと思い込んでも、SDSの発現は有り得ない」
「君は根本的なところで、思い違いをしているらしい」
ランドールは噛んで含めるように言った。
「キリンはサバンナが乾燥化の時代を迎えた時、高い所にあるアカシアの葉を食べようとして首が長くなるように進化したのではない。ただ、たまたま突然変異を起こした首の長い個体が餌を得る事が出来、生き残ったのだ。自己認識とは、自分が何者であるかという事に対する固定観念ではない。あらかじめあらゆる方向への進化の可能性を持った遺伝子が、その塩基配列ではその形質にしかならない、という『信仰』だ。
人は遺伝子に操られているのではないよ。人の理性が、遺伝子を支配するのだ。ニューノーマルは、ニューノーマルとなったから良心の限界を迎えるのではない。未だ啓蒙されざるオールドに対して良心の限界を迎えれば、否が応でも人間はニューノーマルとならざるを得ないのだ。S遺伝子という一パーセントの違いは、良心というインピーダンスから解き放たれて初めて着いて来るものなのだよ」
ノーマルにもSディメンショナーにも、共に良心の限界をもたらす信号。
それにより、彼はSディメンショナーを生み出していた──。
「この啓示信号は、何も脳に電極を突き刺して電気信号で送らなくてもいい。文章や音楽、自己認識の統合に作用し得るツールは幾らでもある。パターンを見つけ出すのには相当苦労したし、未だにそれが完全とも言い切れないがね」
「しかし、やはり無理があると思います」ミアが言う。「どうしても対象が、真っ新な状態にならなかったらどうするのです? 生得的な観念など存在しない、しかし『信仰』は、言語では太刀打ち出来ない場合もしばしばあります。朝鮮民族の火病や北米ネイティブアメリカンのウェンディゴ症候群など、文化依存症候群はそれを示唆するものではありませんか?」
「そこが、現在の啓示信号が抱える問題点なのだ。あまりにも閉鎖的なコミュニティや、硬直しきった観念に取り憑かれている者に対して、啓示信号は作用しない。狂信者の集団であるKKKなどはその代表例と言えるだろう。私自身、まだどのような人間には通用し、どのような人間には通用しないのかは実際に使用するまで分からない。代替前の”何か”について正体を見出す事が出来れば、全人類をニューノーマルとする事も可能なのだろうがね。
……そう驚いた顔をするな。君たちがニューノーマルを排除し、旧時代の秩序を取り戻そうとするのと同じ事だ。良心の限界がある以上、ニューノーマルとオールドは有限の地球上に住み分ける事が出来ない。しかし、君たちと同じ手段を採るには、我々ニューノーマルはあまりにも少数派すぎる」
「だから、ノーマルの数を減らそうと? 『教祖』を操り、ノーマルを虐殺し、一般人をSディメンショナーに変貌させて?」
ふざけるな、とホールデンは絞り出した。
──望んで与えられた訳でもないSDSが原因で、自分の家族は死なねばならなかったというのに。
「良心の限界を理由に、人間は動物を無意味に殺したりしない。俺たちは言葉を通わせる事が出来るし、同じ文明レベルで文化的な生活を営む事が出来る。それを良しとするのが、理性というものじゃないのか?」
「勘違いするな。私は啓示信号のみで世界を変えようとしている訳でも、無為にノーマルを殺戮する為だけに戦争を引き起こそうとしているのでもない。啓示信号は私の目的の中で、重要な因子の一つに過ぎないよ。SDSが人類の元々持っている可能性であるならば、畢竟啓示信号もシェードコアがもたらした正体不明の作用と変わりはない。このままでは、良心の限界はニューノーマルがオールドを淘汰した後、自分たちに対して向く事になる。旧時代で言うところの民族差別のような、ね。実際にSDSのスペックにはピンからキリまである。次元切断のような基本的で大勢が有しているものから、次元屈折や素粒子のような極めて強力で希少なものもある。いずれ、差別が生まれないはずがないよ。
我々が真の新人類に生まれ変わるには、良心の限界は克服されねばならない。それには時間が要る。そしてその間にニューノーマルが淘汰されてしまわぬよう、もう一つ必要な因子がある。……ミア・サーペンタイン、君だ」
ランドールが、突如としてミアの名を呼んだ。ミアは驚いたように顔を上げ、「私?」と呟く。ホールデンは、ここに連れて来られる直前、ルキアーノがミアの事を「『大教祖』の計画にとって大切な因子だ」と言っていた事を思い出した。
「正確には、君の量子化能力だ。恐らく君自身も、その能力の真価について気付けていない事だろう。私であれば、それを啓蒙してやる事が出来る」




