『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑮
「おい、待て」
ホールデンはミアが何かを言う前に、素早く割り込んで詰問した。
「あんたはミアに、その啓示信号とやらを使う気か? 良心の限界を迎えさせ、自分の同志となる事を良しとさせると?」
「ホールデンさん、ちょっと──」
ミアが、指先を微かに動かしてガウンの裾を掴んでくる。その時、
「そっか……あなた、ホールデンっていうんだ。ハリーって、よく考えたらホールデンの愛称じゃない」
ずっと黙っていたビアンカが呟いた。ホールデンは彼女の虚像に視線を向ける。
「ビアンカ、ランドールの言葉を聴いただろう? 君は啓示信号とやらに操られて、良心の限界を意図的に引き起こされているんだ、目を覚ませ」
「違うわ、ハリー。彼が言ったでしょう、もしも良心の限界を迎えているのなら、あたしはSディメンショナーになっているはず。あたしに啓示信号は使われていないわ。……ルキアーノ君や、あのおじいちゃんたちみたいに」
ビアンカの言葉で、そうか、と思う。「ヒューズクラブ」の老人たちの中にSディメンショナーが紛れていたのではない。ルキアーノも含めて彼らは皆、啓示信号によって良心の限界を引き起こされたSディメンショナーだったのだ。ランドールの現地協力者である「余燼」たちも、事によると元はノーマルの一般人だったのかもしれない。否、そもそも「ヒューズクラブ」の目的自体が、言葉による啓示信号の伝達により彼らに良心の限界をもたらす為のものだったという可能性もある。
しかし、それなら、と思った。
「操られているんじゃないとしたら、何故君はランドールの味方をするんだ?」
「決まっているでしょう! ストロングホールドの奴隷は、もううんざりなのよ!」
ビアンカは、くしゃりと顔を歪めた。
「奴隷って……」
「そうよ、奴隷以外に何て言えばいいのかしら? ……あたし、高度適性診断でCIAにスカウトされたの。入る時、おかしな試験をされたわ。試験会場に到着してから面接室に移動するまでの歩数を聞かれたり、訳の分からない英文を一度見ただけで覚えさせられて、全部アルファベットを反対から読まされたり、短時間でノートPCをばらばらに分解してもう一度組み直すように言われたり。その時思ったのは、『こんな試験に合格出来る人って、あたし以外に居るの?』だった。けど、CIAではそういう事が出来るのは当たり前で、そういう人たちばかりが選ばれてスカウトされていた。
旧時代は、そうじゃなかったみたいね。諜報員といってもごく普通の公務員で、映画に出てくるスパイみたいな事は実際にはしていなかったみたい。ストロングホールド体制が始まってから、国民は皆、持てる能力を最優先でSディメンショナーとの戦いに回す事を義務づけられた。きっと、強制じゃないとか文字では書きながら、断る余地はなかったと思うわ。
あたしには、夫と息子が居た。仕事は派遣だったけど、そのうち絵を売れるようになったらいいなって思っていた。CIAにスカウトされた時、最初は誇らしかった。自分が周りと比べて、IQが異様に高い事は知っていた。一時期だけど、重度の数唱障害に悩まされていた事もあった。自分の事を普通じゃないと思っていたけど、それが皆の為に役立てられるんだって分かって嬉しかった。
だけどそれは──あたしが本当になりたかったものを、諦めなきゃいけないという事でもあった。家族で過ごす時間を、体力と精神の限界を試されるような任務の為に犠牲にしなきゃいけないという事でもあった」
「ビアンカ──」
「それは、あたしの名前じゃない!」
ビアンカは遮るように叫び、激しく頭を振った。
「以前、あたしはこのイタリアで家庭を持った事があったわ。米国特制軍との共同作戦で、米国に破壊工作を企てていたとあるSディメンショナーの情報を彼らに流す為に。ターゲットの嗜好を調べ尽くして、無意識に干渉出来る程に行動や仕草までを”複製”させられて、その男に近づいた。勿論夫と息子には、何年も帰れなくなる事を伝えていたわ。彼らは、この任務への適性をコンピュータに見出されて選ばれたあたしだから、あたしにしか出来ない仕事だからってそれを受け入れてくれた。
……あたしはターゲットの男に近づいて、無意識レベルまで計算し尽くしたテクニックで彼を籠絡して、結婚した。子供まで産んだのよ──S遺伝子を引き継いだ、Sディメンショナーの子を。おかしな話だけど、子供は本当に可愛かった。父親が極悪人だったとしても、やっぱり自分のお腹を痛めた子だもの。本当の我が子と同じ男の子で、時々息子が生まれて間もない頃の事を思い出したわ。
けれど、任務はいつか終わる。あたしが情報を送り終えて、テロは未然に防がれた。特制軍は蛇狩り要員を派遣して男を殺し、彼とあたしの間に生まれた子を殺した。それであたしの役目は終わり。仮初の家庭は綺麗さっぱりなくなった。
分かる? ……多分、分からないでしょうね。あなたたち特制兵は薬で感情をコントロール出来るかもしれないけれど、あたしたちCIAのスパイにその特権はない。そんなものがなくたって、己を殺して仮面を使い分ける事なんて、スパイには出来て当然の事なんだから。だけどあたしには──他の皆みたいな、化け物にはなれなかった。
任務中、私用の通話やHMEは許されていなかった。本名のあたしは、完全に押し殺されていなければならなかったから。だから、家族にも連絡は出来なかった。国に帰った時、夫と息子は家を引き払って居なくなっていたわ。どれだけ仕事であっても、やっぱり何年も別の男と海外で家庭を持っている事を感情が許せなかったんでしょう。あたしはそれ以来、人間をここまで装置部品化するストロングホールド体制に疑問を抱くようになった」
「来るべき未来が来れば、このような悲劇はなくなる」
ランドールの声は、ともすれば覚悟すら滲んでいるようにも聞こえた。
「米国のストロングホールドを始め、ネプチューン主導で各国に敷かれた管理体制は必要のないものとなる。だからこそ彼女は、我々の同志となったのだ」
ホールデンは、言葉を発する事が出来なかった。
これまで自分やディーターらは、この者を殺せば世界は多少戦争から遠ざかる、という人物を提示され、その命令に従ってきた。しかしその為に、その周囲に存在するどれだけの人間の人生が狂わされたのだろう?
黙っていると、不意にミアが「それでも」と言った。
「それでも、その為に街一つが消し飛ばされ、多くの人が死ぬなんて間違っています」
「君がそれを言うか、戦いの女神?」
「私は、もう殺す為だけに戦うのは嫌なんです」
きっぱりと言ったミアに、ホールデンははっとして首を振り向けようとした。
ランドールはまじまじと彼女を見つめた後、
「我々は、君のSDSに誰かの命を奪わせたりはしないよ」
溜め息を吐くようにそう言った。ホールデンとミアは、共に耳を疑う。「えっ?」
「ミア・サーペンタイン、我々が君に求めるのはその逆だ。君には、可能な限り多くの人命を救って貰いたいのだ」
「それは──」
ホールデンが開口しかけた、その時だった。
ヒューズの腰から、旧時代の交響曲と思しきメロディが鳴り響く。ヒューズは軽く舌打ちをすると、HMEを取り出してリアルタイム通話モードにし、耳に当てた。
「こちら三要素。ルキアーノか?」
ホールデンは聴力を研ぎ澄まし、端末から漏れ聞こえる音声を懸命に拾おうとした。
『爺さん、緊急事態だ! 例の娘が発信器を食っていた可能性がある、ネプチューンのアルゲンタヴィスがここの真上に現れた! こんなに堂々と来るとは思っていなかったから、却って油断したぜ!』
「何じゃと!? 攻めて来たのか、『三叉鉾』が!?」
「デュラン、今何と言った?」
ランドールが、素早くヒューズの方を見る。ホールデンの背後で、ミアがもぞもぞと動く気配があった。
「来てくれた……ホールデンさん。私、あなたのバイタルが睡眠状態を示し始めた時、本部に連絡をつけていたんです。イタリア支部には特制軍が居ませんから。多分、今はもう夜明けです。彼らが到着する頃ですよ」
「何、もうそんな時間なのか? という事は、FCの効果も──」
「ルキアーノ」ランドールが、ヒューズからHMEを受け取って呼び掛けている。「この隠れ家を放棄する。『三叉鉾』が相手では分が悪すぎるからな。例の仕掛けは済んでいるか?」
『さっき交換したばかりです。……ここは俺ら「余燼」が食い止めます、あなたとデュランは娘を連れて脱出を──うわっ!』
微かに、ルキアーノの悲鳴が回線に混ざった。
ランドールはHMEを側頭部から離し、数秒間見つめた後、仲間たちの方を見た。
「デュラン、君は先に地下ルートでの脱出準備を。私さえ残っていれば、次元屈折で後から追い駆けられる」
「あたしは?」ビアンカが尋ねる。
「ミアの護送を手伝ってくれ。あと、そちらの大男には申し訳ないが死んで貰おう」
ランドールの言葉に、ホールデンは短く息を吸った。ミアがびくりと体を動かし、じたばたと藻掻き始める。ルキアーノに撃ち込まれたFC弾の効果はまだ継続されているらしく、量子化が出来ないらしい。
ホールデンは、恐る恐るビアンカの虚像を見る。彼女は背を向けたこちらが見つめている事に気付いたらしく、視線を避けるように顔を俯けた。
「ビアンカ、よせ! 俺はノーマルを──君を殺すつもりはない!」
「……縛られた状態で、よく言うわよ」
彼女は震えるのを懸命に堪えているような声で言い、こちらの方へと回り込んで来ようとする。同時に、ランドールがこちらの眼前に出現させていた虚像がふっと消失した。
「ホールデンさん! ……あっ」
「ミア、我々の女神……さあ、私と一緒に来るんだ」
ランドールが、ミアに触れた気配がある。彼女のじたばたが激しくなり、ホールデンは横倒しになりそうなのを必死に堪えねばならなかった。
「ビアンカさん、駄目! やめて下さい! ホールデンさんを殺さないで!」
視界に、実物のビアンカが入って来た。その手には、黒光りする拳銃が握られている。見紛う事のないM1911(コルト・ガバメント)──ホールデンを二度目に昏倒させた時のような、非殺傷用のニードルガンではない。
「ビアンカ、頼む。俺の話を聴いてくれ。俺は君に──」
「言わないで、ハリー。お願いだから、あたしを苦しめないで。……あたしも、苦しまないように逝かせてあげるから」
そう言いながらも、ビアンカはこちらに銃口を突き付けたままなかなか引き金を引こうとしなかった。
次の瞬間、複数の事が同時に起こった。
背後──ランドールたちの入って来た扉の向こうで、断続的な銃声と揉み合うような音、複数人の怒号が沸き起こる。ビアンカがはっと顔を上げて振り向き、ヒューズが出口に向かって駆け出した気配が感じられる。
コンマ数秒後、ホールデンから見て右側の壁が砕け散った。




