『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑬
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いつもの夢を見て、いつものように、それが夢である事に気付いた。
六月の麗らかな午後、家族を襲った惨劇。突入して来る特制軍と、無惨に撃ち殺される妻と娘。助けられなくてごめん、と、ホールデンは心の中で詫びる。視界が歪み、いつものように覚めようとする……
──直前で、いつもと異なる事が起こった。
歪んだ視界が形を取り戻し、惨劇の後の光景が再びはっきりと見えるようになる。但し、先程とはアングルが異なった。
ガスマスク越しに、ホールデンは妻と娘の亡骸を見下ろしていた。奇妙に冷静な気持ちで暫らく佇み、やがてはっとする。手の中で軽機関銃がずるりと滑り、ガラス片が散乱する足元の血溜まりに落下した。両手を見ると、そこには排出されたばかりで真っ赤な、まだ乾いていない血液がべったりと付着していた。
「ああ……あああああああっ!!」
喉の奥から、いつもの夢では決して出せなかった”声”が歪んだ叫びとなって迸る。自分が家族を殺す訳がない──そう分かってはいても、目の前の光景は強烈すぎた。
──そうか。
ホールデンは、叫びながら心の中に納得が萌すのを感じていた。
自分が米国の特制軍ではなく、「教祖」の討伐任務が多いネプチューンの「三叉鉾」に志願した理由。それは、Sディメンショナーを殺したかったからではない。
嫌だったのだ。民間人の中に紛れた”異常人類”を見つけ出し、少しでも同行に応じなければ抵抗したと見做し射殺する──それにより、かつての自分と同じ絶望に飽和した人々の顔を見る事が。無残に奪われた幼い命を目の当たりにする事が。
「ごめん……ごめんよ、許してくれ……許してくれ……っ!」
誰に対して何を謝っているのか、もう分からなかった。
その場に頽れ、ホールデンは目が覚めるまで繰り返し謝罪の言葉を口にし、涙を流し続けていた。
はっと目が覚めた時、全身に汗をかいていた。飛び起きようとし、体が動かない事に気付いてぎょっとする。意識にも、ぼんやりと靄が掛かっているようだ。
頭を振り、マットレスに貼りつこうとする体に鞭を入れて懸命に身を起こす。素肌に張りついた薄い毛布が、ぺりぺりと皮が剝がれるように落ちた。
カーテンを閉められ、電灯の消された見知らぬ寝室だった。板敷きの床を模した再生ポリエステルのマットレスが敷かれ、その上に脱ぎ捨てられた衣服やらバケツやら、寝かされた画板やらが山の如く積み重ねられている。
ここは何処だ、と考え、眠る直前の事を思い出そうとしてはっとした。
自分は酔ったのか。カフェコレット──エスプレッソとサンブーカのカクテル──も、ビアンカに分けて貰ったリモンチェッロも、度数は高い。だが、アルコールの吸収はフィルター剤で一切遮断していたはず……
(まさか、睡眠薬か!?)
思い至り、ホールデンの中に残っていた眠気が吹き飛んだ。同時に、自分がいつの間にか全裸にされている事に気付く。
「ビアンカ……ビアンカ、何処だ!?」
「ここに居るわよ」
床の上から、いつになくおっとりとした彼女の声が聞こえた。
見ると、ビアンカは絵具の染みの付着した床に屈み込んで下着に脚を通しているところだった。どうやらここは、まだホールデンの立ち入った事のない彼女のアトリエ兼寝室らしい。
途端に体がかっと火照るのを感じ、ホールデンは慌てて自身の裸身を両手で叩く。彼女はトップレスのまま立ち上がり、こちらを再び仰向けにしようとしてきた。
「まだ一時半よ、起きるには早いわ」
「ビアンカ、教えてくれ。俺は一体、何をした?」
咳き込むように尋ねると、彼女は肩を竦めた。
「忘れちゃったの? ハリーったら、終わった後すぐ眠っちゃって」
「何? 俺は君と、その……セックスをしたのか?」
「凄かったわよ」
そこで初めて、彼女は思い出すように陶然とした表情を浮かべ、熱い呼気を吐いた。ホールデンは激しく頭を振り、「嘘だ!」と声を上げる。
「俺の体は、そういう事が出来ないようになっているんだ。自分じゃどうしようもない事なんだ、だから俺が……俺が君とそんな事、出来る訳がない!」
乱暴を承知でビアンカの両肩を掴むと、捕虜となったSディメンショナーを拷問するような声が自然に出た。
「俺に何を飲ませた? 睡眠薬だけか? それとも……自白剤もか?」
「……服を着させて」
彼女は、自白するような事が何かあるのか、とでも言いたげだった。
「答えてくれ!」
「お願い、服を着させて。もうそろそろ、彼らが到着する頃だから」
「彼ら?」
ホールデンの手が緩む。その隙に彼女は床からバスローブのような寝間着を拾い上げ、袖を通して前を合わせた。ホールデンも服を探しつつ、身体検査はされただろうか、と考えて慄然とした。ミニガンを隠し持っている事は出会った時に知られているが、明らかに趣味ではない軍用の銃や、FC弾や微分ウイルス弾を発見されていたら一大事だ。目にも触れてみたが、ホルスのGCLは外されていないようだった。
落ち着け、と、ホールデンは自らを宥めた。特制兵だという事が露見したとしても、ビアンカは敵の人間ではない。こちらにとって大切なのは、六日後──いや、もう五日後か──に迫った「ナポリ最後の日」を阻止する事だけだ。CIAが手柄を立て、米国の国際的地位がどうなろうが知った事ではない。
手柄など、幾らでもくれてやる。だから今は、彼女との協力を許してくれないか──。
誰ともつかぬ相手に対してそのような事を思い始めた時、突如として眉間に共鳴の感覚が生じた。背筋がびくりと震える。
Sディメンショナーが接近している──ミアか。昨日は例の諍いのせいで、一昨日までの五日間のように彼女がこちらに密着して待機という事はしていなかった為、彼女との共鳴は感じていなかった。
ホールデンのバイタルは、それでも彼女に逐一送信されていた。ビアンカと共にバールに入り、そこで突然呼吸や脈拍が睡眠状態を示す数値に移行した後、発信機の信号が彼女のアパートへと移動した。これでミアが不審に思わないはずがない。
彼女が助けに来てくれたのか。ホールデンのその予想は半分当たり、半分外れた。
カーテンを膨らませる夜風が吹き込む網戸の外から、アパートの前に車が停まる音が聞こえてきた。どやどやという男たちの声が響き、すかさず建物の内側で数人が階段を登って来る靴音が続いた。
三十秒も掛からなかった。リビングの方で扉の開く音がした、と思った次の瞬間には、ホールデンとビアンカの居る部屋の扉が開けられていた。
「遅かったじゃない、ルキアーノ君?」ビアンカが呼び掛ける。
まさしく、入って来た人物は「ヒューズクラブ」最年少のルキアーノだった。ホールデンの思考はそこでフリーズする。
「来る途中で、ニューノーマルの娘に襲われた。例のファイルにあった量子化能力者だ、爺さんが二人、FC弾を撃ち込まれてダウンした。厄介な能力を使うが、俺の『絶対零度』が役に立った」
彼が顎をしゃくると、奥から大柄なスキンヘッドの男がミアを横抱きに抱えながら姿を現した。彼女はぐったりとし、目を閉じている。
「”場”全体を凍らせちまえば、極近未来への移動にも大した意味はなくなるだろう? 心配すんな、足だけ止めた。絶対零度になれば全ての分子運動が停止する。その隙にFC弾で撃って、全身が凍って生命活動に支障を来す前にすぐにSDSを解除したんだ。『大教祖』の計画にとって大切な因子だ、間違っても殺しはしねえよ」
「ミア!」
ホールデンは、身を乗り出して声を上げた。ビアンカが「動かないで」と言いつつ、素早く何処からか拳銃を取り出してこちらを狙う。途端に、ルキアーノが鋭く目を細めた。
「何だ、眠らせてねえのかよ?」
「睡眠薬は適量を飲ませたわ。けど、こんなに早く効果が切れるなんて」
「デュランの爺さんが言っていただろう、特制兵は体にえげつない量の機械を入れている、その中には有害物質の代謝を向上するものもあるから、薬の持続時間を常人と同じようには見積もらねえ方がいいって。そうだ、睡眠薬といえば、一応この娘にも打っておいたぜ」
「ビアンカ、君は──」
ホールデンは言いかけ、気付いた。飲みかけのリモンチェッロを差し出してくる直前、彼女は大して中身を減らさずにグラスに長い間口をつけていた。あの時、何処かのタイミングで口腔内に含んでいた睡眠薬を酒に溶け込ませたに違いない。
「ごめんなさい、ハリー」
ビアンカは、本当に申し訳なさそうに言った。
「あたしはノーマルよ。けれど自分の意思で、彼ら側に付いたの」
そして、何の前触れもなく引き金を引いた。
撃たれた、と思ったが、銃口から飛び出したものは弾ではなかった。左肩口に軽い痛みが走り、反射的に見下ろすと、そこには鍼灸用にも似た細い針が突き刺さっていた。
──ニードルガンか。
そう思った瞬間、再びホールデンの意識は途絶した。




