『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑫
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「あんまり寝ていないの、ハリー?」
六日目、ビアンカに心配された。
時刻は午後八時過ぎ。彼女のアパートの近く、アルマンド・ディアズ通りの居酒屋。ホールデンは彼女と共に、奥の壁に近いカウンターに並んで腰を下ろしていた。
今日は、例の老人たちとは会わなかった。ホールデンは、自分が着いて回るようになった事でビアンカが諜報活動に於ける行動の自由を制限され、ヒューズをマークしにくくなったと思っているのではないか、と疑ったが、彼女はむしろ積極的にホールデンを様々な場所に連れ出そうとする。あたかも任務など、最初から帯びていないかのように。
バールに誘ってきたのも、ビアンカの方だった。車は今や百パーセントが自動運転の為、飲酒運転などという概念はなくなったが、それでもホールデンは、自分もビアンカも立場上アルコールの摂取は出来ないはずだ、と考えた。
自分たちには、それぞれ任務がある。ビアンカはこちらが特制兵だとは気付いていないようなので、自分の正体をこちらに疑われている、などとは考えてもいないかもしれない。だから殊更に疑いを晴らす為にアルコールを摂取しているところを見せようとしている、などと勘繰る事は馬鹿げているかもしれないが、不可解である事は否めない。
ホールデンは、これも特制軍の技術である歯に仕込んだ「フィルター剤」を噛み潰した。旧時代のスパイがシアン化合物を奥歯に仕込み、有事の際に機密保持を目的とした自決に使用した(と戦争映画の中ではされている)ものと仕組みは同じだが、中身が異なる。あらかじめ特制兵の肉体に取り込まされたナノマシンを起動し、肉体が水分以外のあらゆる物質を吸収するのを六時間阻止し続ける。無論、それだけでは栄養摂取も阻害されてしまう為、BMIを通じて摂取者が詳細な命令を出し、どのような物質を遮断すればいいのかを指定する事も出来るようになっている。
敵地で捕虜となり、自白剤を飲まされたり、毒物を摂取させられた際に使用するフィルター剤だが、ホールデンは今回アルコールを対象として指定した。自身では初めての経験だが、ディーターは以前スパイ対象に長期に渡って接触するという任務を行った際、これを利用して酒の席で相手に疑われないよう振舞う事が出来たという。
ビアンカはというと、ごく普通にリモンチェッロを飲んでいた。よく観察したが、飲んだ振りをしている、という訳でもないようだ。CIAが特制軍と同じサイボーグ技術の必要となる薬を使用しているという話は聞かないので、やはりホールデンらには予想だにしない方法が採られているのだろう。
「何か、急に疲れたみたい。あたしがあっちこっち引っ張りすぎたかな?」
「いやいや、そうじゃないよ。ここ一週間、本当に楽しかった」
ホールデンは答えながら、心の中で「何故」と彼女に問い掛ける。
(何故、君はそんなに落ち着いていられるんだ? このままじゃあと一週間で、この街は核爆発に巻き込まれる事になるんだぞ。その上火山が爆発して、ここら一帯が死の灰に埋まってしまうんだぞ……古代、ポンペイがそうなったように)
彼女がその事を知らないはずがないのに、これ程長く調査状況が停滞していながら彼女は泰然自若とし、微塵も焦燥を滲ませる事がなかった。”邪魔者”であるはずのホールデンを追い払うような素振りを見せる事もない。
「それじゃあ、娘さんと喧嘩でもしたかな?」
ビアンカのさらりと紡ぎ出した言葉に、ホールデンは面食らった。
「夏休みももう中盤。そろそろ彼女もお家に帰っている頃でしょ。ハリー、お家の話全然しないんだもん」
──そういえばイタリアの夏休みは、六月から九月まで三ヶ月以上あるのだった。
ホールデンは他に理由も思いつかず──実際ミアとの諍いがホールデンの気分を下げている事も事実だった──、「まあね」と答える。
「駄目じゃない、せっかく一緒に過ごせる時間なのに、こんなバツイチの女にばっかり会いに来ちゃ」
「あいつだって、俺に会いたくて帰って来ている訳じゃないさ。帰省する生徒が多いから寮に冷房が入らなくなって、仕方なく……中学生にもなれば、女の子は父親を避けたがるようになるものだろう」
自分の事として経験した事がない、昔から言われている事を適当に言っただけだが、ビアンカは「そうねえ……」としみじみと呟いた。「あたしもそうだったっけ。洗濯物の中に、パパのものが紛れているのが見えるだけで不愉快になる感じ」
「一人親の父が、外で女性と会っているという事自体が許せないんだそうだ」
自然に、ミアに対して遠回しに愚痴るような台詞が口を突いてしまう。
「あたしの事、言ったの?」
「言わなくても、娘っていうのは気付くものなんだよ。母親に──俺の嫁に対しても無責任じゃないかって」
少し考え、ホールデンは口に出した。
「本当は死別だったんだ、妻とは」
言いながら、ビアンカがこちらを酔っているのだと思ってくれればいい、と思った。
ビアンカは少々口を噤んだ。舌先で唇を微かに舐め、天井から釣り下がったレトロ調のフィラメントをぼんやりと眺めるような目をする。
「……ハリーはさ、じゃあもう自分の為に、誰かを好きになったりしないの?」
「自分の為に?」ホールデンは鸚鵡返しする。「それは──今は、仕事を優先すべきなんだろう。娘が、独り立ち出来るようになるまでは」
それは自分が模範解答だと思えるような答え方であると同時に、あくまで第一に考えねばならないのは命令の事だ、という事を自分に言い聞かせるものでもあった。ビアンカは、とろりとした目のままカウンターに上体を預けるように伏し、こちらを見つめてくる。
「それじゃあ、あたしの事は?」
何処か、試すような調子だった。伏せられた腕の中でくぐもった声が、やや眠そうに聞こえる。それは、微妙に色香を漂わせているように感じられた。
「ビアンカ?」
「もしもあたしが、今夜は一緒に居たいって言ったら、どうする?」
ホールデンは、また動揺する。
「どういうつもりで言っているんだ、それ……?」
「亡くなった奥さんの事、まだ愛しているなら、それをやめろなんて誰にも言えないよ。娘さんだって、ママの事はいつまでも大事に思っているだろうしね。だけど──それを義務みたいに思うようになっているなら、気を付けなきゃいけない。放っておくとそれ、呪いみたいなものになっちゃうよ」
ビアンカの声音が、憐れむようなものに変化した。
「あたしも旦那と別れてさ、息子を手放して、養育費とかも全然送っていなくて……正直自分でも、母親失格だと思った事もある。それまであたし、旦那じゃ絶対に出来ないような仕事をしていてさ。仕事人間で、それは詳しくは言えないけど、国にとって凄く大事な事で。けどそのせいで、あたしが家族に対して出来る事、全然なかった。結局それが、家族っていうまとまりすら維持出来なくしてしまった。
あたしさ、それから何回も考えたんだ。あたしにとって、優先されるべき義務ってどっちだったんだろう、って。コンピュータに選ばれた『私にしか出来ない仕事』と、家族にとって理想的な妻や母親である事。考えているうちに、そもそも義務を前提に考えている自分が居る事に気付いてぞっとした」
「コンピュータ?」
「知っているでしょう、高度適性診断システムの事。米国やフランスでも採用されているはずだけど。あたし、これで苦い思いをしたから絶対に自分からは使うなってルキアーノ君に言って、代わりに彼の相談に乗ってあげる事にしたんだけど」
ビアンカの口に出したそれは、国家にとって極めて重要な役職に就くべき人材をスカウトする為のシステム名だった。IDを登録された国民たちの購入した物品や利用したサービスが認証履歴に残る事から、個人の潜在意識や思想傾向をコンピュータが推論し、各種技能試験の結果と照合して職業に適性のある人物を導き出す。米国では専らCIAやFBI、特制軍の指揮官などのスカウトに利用され、ネプチューンもインターポールの募集にシステムを採用しているが、個人が逆に自らに合った職業を探すのにもオープンソースの簡易版が使われる。
現在のところ、米国では原則としてこの結果に基づくスカウトは断る事も可能だが、ストロングホールド体制が更に強化されれば拒否権はなくなるという予測もされている。ややもするとビアンカがCIAになったのも、このシステムに選ばれた結果だったのではないか、とホールデンは考えた。
「……ビアンカにとってそれは、もう『呪い』だったの?」
尋ねると、彼女は「どうかな」と肩を竦めた。
「少なくとも息子の事を、『呪い』にはしたくなかった。だから、仕事の方も辞めた。資産はちゃんと分けられたし、それからはあたし一人が食べていければそれで良かったんだし。……義務はあたしたちが果たさなければならない事だけど、あたしたちは義務の為に生きている訳じゃない。一回、全部の柵から解放されてみたかったんだ。そしたら多少は、断ち切れるものもあるんじゃないかって」
彼女は言うと、リモンチェッロのグラスを取って再び口をつけた。随分と長い間グラスを傾けていたが、彼女が飲んだのはごく微量だった。
そのままホールデンの方に、そのグラスを差し出してくる。
「ハリーもさ、ちょっと自分の心に聞いてみるといいかもしれない。考えても分からない、っていうなら……あたしが手伝ってあげてもいい」
「手伝うって──」
「あたしの事」
ビアンカはこちらの唇にグラスを押し当て、顔を近づけると、耳朶をくすぐるような声で囁いてきた。「好きにしていいよ」
「それは」
ホールデンは思わずくらりとした。同時に、あのフラッシュバックの予兆がやって来る。地震の直前、不意にそれが来る事を感じる事があるように。ホールデンは咄嗟にグラスの中の液体を飲み下し、強く目を瞑った。
それが功を奏したのか、目の前に血塗れで倒れる妻や、米国特制軍の銃撃でずたずたに引き裂かれる娘の姿が浮かぶ事はなかった。
こちらの反応をどう見たのか、ビアンカは控えめに尋ねてくる。
「……やっぱり、嫌?」
「嫌という訳では」
ホールデンは一度立ち上がろうとし、その瞬間不意に視界が大きく揺らいだ。慌ててカウンターに手を突き、頭を押さえる。
「すまない、ちょっと眩暈が──」
言いかけた途端、強烈な眠気が襲い掛かってきた。
あれ、と思う頃には既に、ホールデンの意識は深い闇の中へと落下を開始していた。




