『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑪
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五日間、毎日のようにビアンカと会った。それは即ち、ホールデンが「ヒューズクラブ」に接触するようになってから、ヒューズは一度もこちらの前に姿を見せなくなったという事だった。ビアンカもおかしいと思ったらしく、彼と連絡が取れる老人にHMEを送信してくれるよう頼んだらしいが、
「ハリー・グラニッツ、三年夏学期末試験世界史A、八十九点。夏バテしてみっともない姿で会いたくないから、あんたが居なくなるまで『特別授業』は休講じゃと」
ランニングシャツ姿の恰幅のいいその老人は、駄目だこれは、というように両手を広げてそう言った。
ホールデンはヒューズの言ったらしいその言葉について、判断に困った。
ヒューズが教え子たちの最終成績を全員分記憶しているというのは嘘で、老人たちには適当な事を言っていたのか。それとも、居もしないかつての教え子が現れた事で警戒し、泳がせて様子を見ようと考えているのか。彼がホールデンに「会わない」と言ったという事は、後者の可能性が高いか。
その場合、これからヒューズはどのような行動に出るのだろうか。「ヒューズクラブ」に居る仲間にホールデンをマークさせるか、或いは始末させるか。いずれにせよ警戒するに越した事はない。共鳴には常に神経を研ぎ澄ませておくべきだ。
ビアンカとは協力関係を結ぶべきではないか、と考えていた。神経を割くべき事柄がまた増えたからには、敵ではない相手にいつまでも警戒を続けるよりも、互いに素性を打ち明けた上で連携した方が事がスムーズに運ぶのではないか。
何度かその事をミアに提案したが、彼女の反応は渋かった。
「彼女には、CIAとしての義務があります。ホールデンさんと私の事を知れば、スパイ・マスターに報告しない訳には行きません。何故米国が、最初からネプチューンと協力せず自分たちだけで『大教祖』確保に当たろうとしているのかをお考え下さい。彼らは何が何でも、世界を動かし得る立場に返り咲かなければならないのです。その為であれば、事が済むまで私たちを妨害する可能性だって否定出来ません」
ホールデンには、幾ら米国でもそこまで目下の状況を見誤る事はないだろう、と思え、彼女の語る”理由”はこじつけに感じられて仕方なかったが、それとは別に、ビアンカとの協力を考える自分もまた私情を優先させているのではないか、という冷静な自分の声を無視する事は出来なかった。
認めざるを得なかった。自分は今、間違いなくビアンカに惹かれている。叶う事なら、互いにスパイとしての仮面を捨て去って偽らざる自分のままで交流したい。
──その先は?
冷静な自分は、そのような自分を叱っていた。
お前は、彼女とどのような関係になりたいのか? 恋愛関係か? お前に、そのような関係の成就が可能なのか? 家族との死別以来、体が女を愛する事の出来ないお前に──。
その一方で、「ナポリ最後の日」まで一週間に迫った日限もまたホールデンの気持ちを急かしていた。
ヒューズはこのまま逃げ切るつもりなのか。既にランドールには、疑わしい外国人の存在を話しているのか。
ルキアーノに関しては、カイロスたちの調査により米国人ではなく、イタリア政府から提供された国民データベースの中に顔とIDが発見された事からビアンカの同僚ではないかという疑いは解消された。という事はやはり、ビアンカがルキアーノについて語った事は口から出任せだったという事だろうか。
──ビアンカに、全てを話してしまいたい。彼女と情報を共有し、何が真実なのかをはっきりさせたい。彼女であれば、今自分たちが真にすべき事を理解し、国の国際的地位よりもこの街に住む人々の命を優先してくれるはずだ。
ミアはホールデンの気持ちを察知し、毎日のように釘を刺してきた。最初はホールデンも、彼女が自分に「理性的になれ」と諭しているように感じていたが、そのうち段々と「彼女は自分がビアンカに会う事を良く思っていないのではないか」という事に気付き始めた。
宣言通り、彼女は常にビアンカやルキアーノらに会う自分を陰で見守ってくれているようだったが、一日を終えて顔を合わせる度に、
「楽しそうで何よりですね」
あからさまに不機嫌そうな声で、そのような皮肉めいた言葉を掛けてくるのだ。
五日目の夜、部屋に戻った時、ホールデンはつい耐えきれなくなって言ってしまった。
「何か気に食わない事があるのなら、はっきり言ったらどうだ?」
「不敬罪だとか言い出しませんか?」
ミアもそこで、限界が来たように言った。
「ホールデンさんは、不真面目です」
「不真面目? 俺は真面目に任務を遂行しようとしている」
「任務の事じゃないでしょう。そうやってごまかすのはおやめください、あなたはビアンカさんとの後先を、何も考えていない。私、先日ホールデンさんに、その……抱かれようとして拒絶された時、何となく分かりました。あなたは怖がっているでしょう、女性と、そういう事をするのを?」
「俺の心の中について、知ったような口を利くな」
「何のせいですか? 奥さんと娘さんが亡くなったせいですか? このままじゃ駄目だと思って、自分をトラウマから解放したくて、好きな人とならそういう空気になった時、自分の中で過去に区切りをつけられるんじゃないかって……結局それ、行き当たりばったりじゃないですか。相手に対しても、亡くなった奥さんに対しても無責任だとは思わないんですか」
「話が飛躍しすぎだ」
「好きになった異性を、そういう目で見ない事がありますか!」
声を荒げるミアが、自分から人を好きになった経験があるとは思えなかった。売り言葉に買い言葉で、ホールデンも声を大きくしてしまう。
「人を、付き合う事を寝る事としか考えていない子供のように言うな!」
「気付かないと思いましたか!? あなたが私を見る目──明らかに、亡くなった娘さんを見るそれですよね? あなたが、囚われていない訳がないんです……だけどそういうの、はっきり言って鬱陶しいです」
「黙れっ!」
ホールデンは手を振り上げかけ、その瞬間ミアの顔に浮かんだ表情がたちまちにして怯えへと変じるのを見て我に返った。唐突に、自己嫌悪が湧き上がってくる。しかしその一方で、彼女のそのような豹変を「卑怯だ」とも感じた。
下ろした手が、まだ冷めきらない怒りでぶるぶると震えるのが分かった。動揺を押し殺すように、ホールデンはぎゅっと拳を握り込む。
「君のような娘をサリーの代わりだなどと思う事は、絶対にない」
絞り出すように、半ば唸り声に近い声でそう言った。ミアは唇を噛み、こちらの視線から逃れるように俯く。「そう、ですか……」
「さっさと寝ろ。明日は着いて来てくれなくて結構だ」
追い払うように言うと、彼女は無言で自分の寝室に引っ込んでしまった。
ホールデンは息を吐き出し、彼女の言う通り自分はごまかしているのだと思った。彼女に対して怒鳴ってしまったのは、きっと図星を突かれたからだ。
家族を失った過去のトラウマは、単なる特制軍に対する恐怖ではなかったのだ。自身が特制軍となり、SDSを全ての元凶と見做し憎んだところで何の解決にもなりはしない。そして自分は──それでも、囚われる事をやめられそうにない。




