『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑩
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ビアンカは「泊まって行けばいいのに」と言ってくれたし、それは非常に魅力的な提案に思えたが、ミアに約束した通りホールデンは丁重に辞退した。自分たちが会ったのはこれで二回目で云々という話はせず、先程トイレに行った時の電話で例の友人から明日急遽会社に出て欲しいと言われた、と理由を話した。
彼女は残念そうな顔をしたが、ならばせめてバッラまで車で送って行く、と申し出てくれたので、それも断った。そのような場所に自宅などない事が知られれば、余計な疑いを抱かれかねない。
彼女に訝られるのを避けるつもりで、ホールデンは「その代わり」と言った。
「明日の夜も会ってくれるかな? 俺は、君みたいに上手い料理は作れないけど、外で食事でも出来たらいいなって──」
ビアンカは目をぱちくりとさせ、すぐに嬉しそうに顔を綻ばせた。「ええ、喜んで」
彼女はバス停まで着いて来てくれ、ホールデンが乗り込む際に「チャオ」と言いながら手を振った。ホールデンはその時、何処か高揚するような、寂しいような気持ちを感じた。
バスを乗り換えて市に戻り、ドメニコ・アウリジオ通りのホテルまではタクシーを拾って帰った。食事の後、ビアンカと話し込んでいたのでナポリ市方面に戻るバスは最終便になり、ホテルに着く頃には十一時になっていたが、ミアはまだ起きていた。
パステルピンクのパジャマを着た彼女はソファに腰を下ろし、旧日本の小説の訳書を読んでいたが、ホールデンが帰って来ると本を閉じ──近年では珍しく紙媒体だった──、「お帰りなさい」と例の淡々とした調子で言ってきた。「楽しかったですか?」
「まあ……けど、ちゃんと情報は収集して来たんだぞ」
何故か、ミアに対して後ろめたいような気持ちがあった。何もそのように感じる必要がある事など、している訳ではないのに、と思いつつ報告を始める。
ビアンカとの間に交わされた会話を可能な限り思い出しながら語り終えると、ミアは調子を変えずに言ってきた。
「そのルキアーノという人にも、注意が必要かもしれませんよ」
「どうしてだ?」
「ビアンカさんが、根も葉もない事を語るはずがありません。彼女も今後、あなたとルキアーノさんが交流を持つ事は想定しているでしょう。そこであなたの口からルキアーノさんに、この話に関連する話題を出して、矛盾が生じたら立場が危うくなるのはビアンカさんです。だって、カイロスさんたちはCIAがこの国に入ったのは先週だと言っていました。ビアンカさんが大分前からルキアーノさんと交流を持っていた事は有り得ません」
「……だとすると、彼もビアンカと”設定”を共有出来る仲間──諜報員の一員である可能性がある訳か」
ホールデンは「いや、おかしいぞ」と言った。
「ルキアーノ君は、祖父と共にこっちで暮らしている。まさかお祖父さんもスパイだなんて事は有り得ないだろう? 第一彼には昔からの友人が居る訳だし」
「元々、CIAは各国に諜報員を派遣しています。彼が『眠る男』として、以前からイタリア国内に居たのだとすれば、現地で祖父役を確保する事も出来たはずです。暗示とか、孫と生き別れになっている人物を見つけ出して身内を名乗って接触した、とか……」
「そこまで疑ったら、何もかも怪しく見えてくるぞ」
「そこまで疑うのが仕事でしょう?」
ミアは言ったが、「でもまあ」と自ら付け加えた。「確かにこの推理には、無理があるような気がします。結局のところ、もっと調査を進めなければ何とも言えませんね」
「『ヒューズクラブ』の老人たちの中にSディメンショナーの反応を察知した時、視覚記録で彼らの写真は撮っている。勿論、その中にはルキアーノ君の画像もある。彼が米国人なら、ビアンカと同じく米国民のデータベースに一致する顔があるはずだ。これもイタリア支部で調べて貰おう」
「ホールデンさんは明日以降も、ビアンカさんと会うおつもりですか?」
「ヒューズにアプローチ出来るまではな」
「しかし、厄介ですね……ヒューズが言ったという『教え子の最終テストの点数を全員分覚えている』という事が本当なら、ハリー・グラニッツなどという生徒が存在しない事がすぐに分かってしまいます。それをビアンカさんや老人クラブの面々の前で指摘されたら」
「その時は──」
ホールデンは今まで、ヒューズと交流を持ち、自然に彼を二人きりの場所に誘い出す事が出来れば、FC弾を撃ち込むのは容易いと思っていた。しかし、正体までは知られずとも、僅かにでも彼に警戒されればその瞬間にこの作戦は困難なものとなる。
一瞬の逡巡を経、ホールデンは言った。
「全員に麻酔弾を撃ち込んででも、作戦を強行する」
「ビアンカさんにもですか?」ミアは、すっと目を細めた。「米国のエージェントです。ネプチューンに対して大統領から抗議が来ますよ」
「彼女は諜報員だ。正体を知られる事など前提にはしていないし、特制軍には特権がある。任務遂行の為であれば、無関係の民間人に対して実弾の発砲すら許される、ね。それでたまたま麻酔弾を撃った相手が、CIAだった」
ミアはやや黙り込んだ後、
「ホールデンさんに、そんな早業が出来るのですか?」
そう尋ねてきた。
「えっ?」
「常に十人近く集まっているお爺ちゃんたち、しかも中にはSディメンショナーも混ざっている彼らを一瞬で全員眠らせて、ヒューズ本人が反応するより早くマガジンをFC弾に詰め替えて発砲。アムリタを飲んでも厳しい──というか、人間業じゃないと思いますけど」
「ミア……」
随分と遠慮なくものを言うようになったな、とホールデンは思う。上官に対して無礼ではないか、などという怒りは湧かなかったが、ややげんなりした。
しかし、彼女はすぐに続けた。
「だから今度は、私も一緒に行きます」
「ミアが?」
ホールデンは顔を上げる。彼女はこくりと肯いた。
「ホールデンさんたちにべったりくっついている訳ではありません。けれど、私の量子化能力であれば時速五十キロで走る車を生身で追い駆ける事が出来ますし、人間の反応速度の限界を超えてヒューズたちの制圧を行えます。それ以外の時は、何処かに隠れていますよ。彼らの中にはSディメンショナーが居るので、共鳴についても違和感は持たれないでしょう」
「気持ちはありがたいけれど……」
──それは今後、ビアンカと会う度に自分にはミアの目が付く事になるのだ。
そう考え、もやもやとしたものを感じている自分に気付いた。それは、ビアンカがルキアーノに対して抱いている感情の正体について考えた際、萌した「もやもや」と性質が似ているようだった。
自分はビアンカとの間に、誰かが介在する事が嫌なのか。
思わぬ考えが浮かんだ瞬間、ミアが「ホールデンさん」と声を低くした。
「超人兵の私が、今回のあなたの派遣に同行している理由は何ですか? 私のSDSを、ちゃんと任務の為に使わせて下さい」
「ミア、俺は──」
「そうじゃなかったら私、本当に要らないものになってしまう……」
呟く彼女の言葉を聞いた瞬間、ホールデンの脳裏にサーペンタイン博士から罰を受ける彼女の姿が思い出された。
──我々に大切なのは貴様ではない、その量子化能力だ。貴様が正常な心を取り戻す見込みはない、ならば移植臓器を取り出す為に全身をばらばらに解体したところで、惜しむべきものなどないのだよ。
「……分かった。お願いするよ、ミア」
ホールデンは言い、彼女に頭を下げた。
ミアは、ホールデンが頭を下げるとまでは思っていなかったらしく、慌てたように両手首を振って「顔をお上げ下さい!」と小さく叫んだ。が、すぐに微かに笑みを浮かべ、
「ありがとうございます、ホールデンさん」
いつもよりも幾分か明るく聞こえる声音でそう言った。




