『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑨
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その日はヒューズが居ないと分かった時点で引き揚げるのかと思っていたホールデンだったが、ビアンカは結局夕方まで植物園で過ごした。ホールデンはルキアーノや老人たちに混ざりつつ、誰がSディメンショナーなのかを探ろうとしたが、密集して動く老人たちに対してそれはなかなか上手く行かず、結局延々と雑談のみが行われる事となった。
ビアンカは、ヒューズ以外にも老人たちの中に彼女のマーク対象が居るから帰らないのだろうか、と思ったが、特に彼らを注意深く観察しているようでもなく、専らキャンバスに集中していた。
それが彼女のカモフラージュだとしたら、あまりにも自然で上手く行きすぎているな、とホールデンは思った。実際、黙々と絵筆を動かす彼女の表情は、本当に好きな事に夢中になっている時のように生き生きとして見えた。
……いや、「ように」ではなく、本当に彼女は絵を描く事に夢中になっていたのではないだろうか。
帰りの車の中で、ホールデンは彼女の写生した談笑する老人たちを見せて貰ったが、それはやはり来る途中で見た絵のタッチと同じだった。やや淡い色使いが優しく、眺めていると温かくなってくるようだった。絵の中にはホールデンの姿も描かれており、その事が得も言われず嬉しかった。
老人たちが銘々に帰る頃になっても、彼女は庭園に居た。その時ホールデンが抱いていたのは、楽しかった、という感想だった。
任務で彼らと接触し、中には憎むべき敵が含まれている事も分かっていながら、何故自分がそのような気持ちになるのか、ホールデンには不思議だった。
その後、成り行きでビアンカの部屋に上がっていた。
『夕食をご馳走になるって、本当ですか?』
トイレを借りる振りをしてミアに連絡を入れると、彼女は声に驚きを滲ませた。
『泊まったりするんですか?』
「いや、さすがにそこまではしない。会ったのは、まだこれで二日目だぞ」
『じゃあ、そのうち泊まるようになるんですか?』
むっとしたようなミアの声に、ホールデンは「彼女は何を考えているのだろう」とやや呆れた。しかし、やはり若干の気まずさは否めず、
「必要とあればな」
半ば自分にも言い聞かせるように言った。「向こうはまだ、俺が『三叉鉾』だと気付いた様子はない。これはチャンスだ、彼女をマークしていれば、ヒューズの元へ辿り着ける可能性が高いと見た」
ミアは少々黙り込んでから、変わらず憮然とした声で言った。
『……油断はなさらないで下さいよ。彼女は本職のスパイなんですから』
「分かっている。遅くても日付が変わる前には帰るから、心配するな」
ホールデンは念を押し、通話を切った。
ビアンカは、ご馳走すると言いはしたものの、ホールデンが何か手伝う事はないかと申し出ると待っていましたとばかりに矢継ぎ早に指示を出してきた。曰く、
「娘さんと二人暮らししていたなら料理は慣れているはずでしょ?」
という事だった。ホールデンはまたしても「しまった」と思った──軍で集団生活をしていると、自炊の機会は全くと言っていい程ない──が、一応伏線は張る事にした。
「娘が寮に入ってからは、何かとインスタントで済ませがちになっていたから腕は鈍っているかもしれないよ」
その一方で、本場のイタリア料理を作ろうとするビアンカに対しても、本当は米国人である彼女も地元の人々と遜色ないものが作れるのか、と疑問に思ったが、結果はこちらに渡ってからミアと共に店で食べたものと比較して全く違和感がなかった。あらかじめ彼女の正体をカイロスに調べて貰っていなければ、この時点でCIAではないかというホールデンの疑いはほぼ解消されていただろう。
──CIAのスパイの”複製”能力は、常人には俄かには信じられないものがある。活動場所で現地住民に溶け込む為に、短期で凄まじいまでの言語や専門技能、民族に共通する癖や訛りまでを完璧にコピーする。しかも彼らは、特制軍のように肉体や脳の一部を機械化している訳でもない為、その能力は純粋に本人たちのものだ。
知識としては分かっていた。しかし、ホールデンはビアンカがそれまで自分に見せてきたスキルが、純粋に任務の為のものであるとは、不思議な程に考えられなくなっていた。彼女は純粋に、イタリア人としての”日常”を楽しんでいる。ややもするとこれも、噂に聞いた「表層意識と深層意識を使い分けて自らの感情を偽装する」などといった俄かには信じ難い芸当の為かもしれないが、彼女を見ている間、ホールデンはそのような考えを「無粋なもの」として捨て去りたいという感情が浮かぶのを抑え難かった。
「時々、ルキアーノ君やベルナルドさんを呼んでホームパーティーをする事があるんだ。だけどやっぱり、一人暮らしだとどうしても手抜きしちゃうよね。部屋、ついつい散らかしちゃうしさ」
ティエッラを口に運びながら、ビアンカは壁際に立て掛けてある無数の絵画を見た。その中には、今日ポルティチで描いていたものもある。陰干しにし、絵具を乾かすのだそうだ。
「いやいや、俺はこういう雰囲気好きだよ。何か、『自分の城』感っていうのかな、傍から見れば無秩序の一歩手前が落ち着くっていうか」
「隣にアトリエ兼寝室があるんだけどね、そっちはもっとぐちゃぐちゃ」
アパートのビアンカの部屋は、リビング、ダイニング、キッチンを兼ねた一部屋と、ユニットバス、そのアトリエ兼寝室という間取りで、こぢんまりとしていた。
「ルキアーノ君の事は、よく家に呼ぶの?」
尋ねると、ビアンカは面白がるように片眉をぴくりと上げた。
「あら? 気になるの?」
「別にそういう訳じゃ……」
「ふうん……否定されちゃうのも、ちょっと残念」
意図不明の呟きを零すと、ビアンカは「ちょっとした縁があってね」と続けた。
「彼は今大学院生で、あたしの今働いている広告代理店でアルバイトしている。彼、ちょっと一時期病んじゃった事があってね、留年、浪人で大学院まで行ったから年齢的にはもう社会人なんだけど、それで就職先がなかなか見つからなくて。ほら、どうしても新卒の子の方が採用されやすいじゃない? それであたしが、あくまでもバイト先の先輩として色々相談に乗ったり、アドバイスしてあげたりしているの」
「彼、ベルナルドさんの介護もしているみたいだった」
「そうそう、彼はお祖父ちゃんっ子で──これ、言っちゃっていいのかな」
「………? どうしたの?」
「まあいいや、言っちゃう。けど、あたしが言ったって事は黙っておいてね」
ビアンカはそう前置きをし、言った。
「ベルナルドさんの奥さん──ルキアーノ君のお祖母ちゃんは、旦那とかなり歳の離れた人でね。ルキアーノ君が高校に入って間もない頃、認知症が始まったの。治療薬がなかなか効かなくて、旧時代みたいに人力でサポートをする事になったんだけど、元が気難し屋だっただけに色々トラブルがあって、介護ロボットは嫌がるし、ヘルパーさんとも何度も揉め事を起こして追い出すし……で、ご両親が遂に限界が来て、壊れた。
元々、ルキアーノ君はベルナルドさんやお祖母ちゃんに懐いていたからね。ご両親は彼を置いて、出て行ってしまった。今でも行方は分かっていないし、ルキアーノ君も彼らを探す気にはなれないみたい。彼はショックを受けたみたいだけど、一生懸命ベルナルドさんと一緒にお祖母ちゃんの面倒を見た。そしてその二年後、ベルナルドさんだけにお祖母ちゃんを任せる訳には行かない、一年浪人しようって彼が決心して間もなく、お祖母ちゃんは亡くなってしまったの。それがきっかけで、今まで抑えていた心に反動が来たみたいで……」
「………」
ホールデンは、咄嗟に言葉が出てこなかった。何とか口に出せたのは、
「君は今でも、彼を可哀想だと思っている?」
自分でも意図の分からないような質問だった。ビアンカは「そうね……」とやや考え込むように睫毛を伏せ、
「何とか立ち直ろうとして頑張った彼に、いつまでも憐れむような目を向けていたら本人も嫌だよね」
否定とも肯定ともつかない返答をした。
「だけど、たかが『バイト先のお姉さん』にここまで話してくれたんだから、あたし、彼に相当信頼されているんだって思ってもいいよね? あたしは、ルキアーノ君の事を応援しているわ。彼の為になる事であれば、出来る限りしてあげたい」
「そうか……」
ホールデンは、胸中に萌し始めたもやもやとした感情を打ち消そうとした。
彼女は諜報員だ。この地で目標を達成すれば留まっている必要もなく、ランドールによる第二の「ナポリ最後の日」が阻止されねばならない以上、あと二週間もイタリアには滞在しないのだ。故に彼女が、ルキアーノに特別な感情を抱くという事は有り得ない──。
やや沈黙が流れた後、ビアンカは「ごめん」と手を叩いた。
「湿っぽい話になっちゃったね」




