『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑦
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「ハリーって、何の仕事をしている人なの?」
室温超電導の磁気浮上車を走らせながら、ビアンカが尋ねてきた。サーボ機構で姿勢制御を行うこの車は当然ながら自動運転技術の産物で、従来の運転席がある位置に座る彼女の行う操作といえば、時折ルート変更のプログラム──初心者でも直感的なビジュアルコーディングが行えるよう立体と呼ばれる3Dのパズルが採用されている──を指先で弄るだけだ。
連絡先の交換を行ってから、五日後だった。
一昨日ホールデンは、「都合のつく日があった」とビアンカにHMEを送り、彼女から今日であれば良いという旨の返事を貰っていた。
二、三日以内に都合のつく日はある、と最初に彼女に言いながら連絡が遅れたのは、カイロスから素性調査完了の報告を受け取るのが遅れた為だ。ホールデンの予想は的中し、彼女はCIAに所属していた。
「ネプチューンから大尉らが派遣された事は、まだ本部にも伝わっていないようです。従って、現在イタリアで活動中の諜報員らもあなた方の事は知らず、彼女があなたの正体に勘づいた上で接触を掛けてきたという事はまず有り得ません」
カイロスは、ホールデンにそう告げた。
同時に彼はビアンカの本名についても知らせようとしてきたが、ホールデンはそれに関しては「言わなくていい」と止めた。これから彼女に呼び掛ける際、うっかりそちらの名前を出してしまってはいけない。
国際組織であるネプチューンと、米国固有の組織であるCIAは仲が悪い訳でも、手柄を求めて競争している訳でもない。しかし、重要なのは米国もまたネプチューンという巨大な世界政府の構成員であるという事だ。
今回のターゲットは、全世界を脅かす「教祖」たちの統率者だ。これを自国の力のみで”制圧”する事は、米国がネプチューン内で今後持つ事になる発言力の大きさにも関わる。国家という枠組みを超越し、現在まさに戦いの真っ最中である「三叉鉾」のホールデンからすれば獲らぬ狸の皮算用といったところだが、大厄災時代以前から国際政治の場で力を持っていた米国にとっては大切な事らしい。
彼らがランドールの殺害を確実に実行するのであれば構わなかった。だが、CIAはスパイであって暗殺者ではない。ストロングホールド体制下の米国でも、職業として暗殺が許された組織は特制軍だけだ。
米国による独自の介入は、効果よりも事態を引っ掻き回す危険性の方が大きい。
ホールデンもミアも、カイロスたちも、皆その意見で一致していた。
「ソフトウェア開発だよ。ベンチャー企業で、多分名前を言っても分からないと思うけど」
ビアンカの質問に対し、ホールデンはすらすらと答える。自身の”設定”と、会話の中で予想される質問とその答えに関しては、事前にミアと打ち合わせて可能な限り綿密に練り上げていた。
ミアは現在、イタリア支部で待機しつつホールデンが胃の中に呑み込んだ小型発信機からの信号を追跡している。信号はホールデンの生体反応と同期しており、こちらに異常があれば彼女がすぐに応援部隊──特制兵は含まれないが──と共に駆けつける手筈となっていた。
「わざわざ海外に来て、ベンチャーなの?」
「学生時代に、イタリア人の友達が居たんだ。そいつが地元で起業して、俺にも一緒に働かないかって声を掛けてくれた。俺はその頃、前の会社の景気が悪くなって整理解雇を喰らったばかりでさ。一応退職金は出たし、貯蓄もあったから当分娘と二人なら食べていけたけど、正直焦りはあった」
「娘さんが居るのね」
意図的にさりげなく混ぜた情報に、予想通りビアンカは反応した。「今、お幾つ?」
「十四」
「あれ? けどあなたは……」
「俺は三十五だよ。別れた女房とは二十歳で結婚して、娘は翌年生まれた」
年齢は、現在の”設定”上娘となっているミアを五歳低く、自分を三歳高く言った。十九と三十二では計算が合わないが、外見上違和感が生じないぎりぎりの範囲で擦り合わせた。これについては、”設定”を練る段階で必然的にミアの童顔を指摘する事になり、彼女からはやや睨まれた。
「あら、そうだったの? じゃ、あたしの方が二つ年下かあ」
ビアンカは三十三歳らしい。それがホールデンと同じく諜報員としての”設定”に基づく偽のプロフィールなのか、本当の歳なのかは分からない。が、ホールデンは何となく、出会った時から彼女の方が自分より一、二歳上のような気がしていた。
「娘さんも、こっちに?」
「ああ、でも今は全寮制の中学に通っているからなかなか帰って来ない。こっちに移って来たのはあいつが小学生の頃で──気分を悪くしたら悪いけど、その頃丁度、ナポリも放射能除去が終わって再建が進んでいる頃だっただろ? さっき言った友達のオフィスも元々はミラノにあったんだけど、再建計画のお陰でIoTの需要が増えるって事で拠点ごと移転したんだ。俺は、正直この街に娘の進級と同時に移ったら、もう英国には戻れないと思った。風評被害とかさ……子供って分別がついていないだけに、残酷なところがあるから」
「分かる。あたしの息子もそうだった」
ビアンカは先程のホールデンと同じく、「息子」という言葉をさりげなく織り交ぜた。こちらが無反応だった為か、彼女は「あ、でも」と付け足す。
「あたしも離婚したんだ、一昨年。息子は旦那が引き取ったの」
「そうだったんだ……」
「ここがまた住めるようになるまで、息子は分離集落の小学校に通わせていたけど、やっぱり色々言われたみたい。家、帰還困難区域のぎりぎりにあったから、汚いとか、核の病気が感染るとかって。ハリーもそう思ったんでしょ?」
「まあ、そうだね。けどあの頃の娘は反抗期の前で、凄くいい子だったからさ、パパのしたい事があったらいいよ、って。本心だったのかどうかは分からないけど、海外に引っ越しなんてわくわくする、っても言っていた。それに、本当に救われた」
「そっか。ほんとにいい子だったのね」
ビアンカはしみじみと肯いた。ホールデンは、もしも彼女がこちらの事をごく普通の移住者だと思っているのだとしたら、このような話で騙している事に後ろめたさを感じる事は禁じ得ないな、と思った。
思うと同時に、また例の冷静な自分が「いや」と心の中で言う。彼女も、親権を手放した息子が居るなどと同じような作り話をしているではないか。それに今、CIAとして活動している彼女がマーク対象の一派であるヒューズに、単なる一般人だと思っている行きずりの男を引き合わせようなどと考えるだろうか──。
(……黙れ)
本当に無意識のうちに、ホールデンはその「もう一人の自分」に対してそう言っていた。その事に、我に返った自分自身でまず驚いたが、
(ビアンカは悪い人じゃないんだ。俺は今、アムリタを飲んではいない……今の俺の心は、俺自身のものだ。それが、彼女を騙している事を後ろめたいと思っている。何がおかしい?)
柄にない長台詞の形で、そう思考した。
もう自分の話はいい、と思い、ホールデンは「君は?」と尋ねた。HMEで連絡を取り合った辺りから、いつの間にかこちらの口調も彼女に合わせてフランクなものになっていた。
「君の仕事は、何なの?」
「芸術家」
ビアンカは言ってから、少女のような仕草で悪戯っぽく舌を覗かせた。「って、本当は言いたいところだけどね。派遣よ。基本的にはウェブデザインとか、広告プランニングのイラスト作成とかをやってる」
「ポルティチ王宮にも、絵を描きに行くって言っていたっけ」
「そうそう。大厄災時代の前には、画商って結構居たのかな? ネット販売じゃ、無名の人はいつまで経っても無名のままじゃない」
「君は、プロの画家になりたいの?」
「そうだなあ」彼女は口元に指を当てる。「お気楽な独り身に戻った訳だし、心機一転、思い切って好きな事でもやってみようと思って」
車内で、それまで彼女が描いたという油絵を見せて貰った。
アートにはそこまで詳しくないホールデンだが、公園の風景や遊び回る子供を写生したそれらは、前世紀の芸術家たちが描いたと言われても違和感のないものだった。それらが、彼女が今回の任務で与えられた”設定”の為に別の人物によって用意されたものだとは、どうにも考えにくい。彼女は実際に、公園でヒューズの観察を行いながら、これらを自分で描いていたのではないか。
しかしホールデンには、それらの絵に横溢した、彼女自身に対して最初に抱いた「溌剌としている」という印象の如き生命力が、スパイならではの”設定”通りに模倣された人物像に基づいてカモフラージュ用に生み出されたものだとはどうしても思えなかった。
段々と、ビアンカ・マルディーニと名乗るこの女性の輪郭が、自らには掴めないものになっていくような気がした。




