『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ⑥
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「撮影はしましたか?」
スプーンを振りながら、ミアが尋ねてきた。「その、ビアンカさんの事をです」
HMEで連絡をつけ、ホールデンとミアはバッラにあるカフェで待ち合わせた。ホールデンが彼女に好きなものを注文するように、と勧めると、彼女は
「ご馳走して下さるみたいに言っていますけど、結局必要経費で落とすつもりでしょう?」
やや湿度の高い視線でこちらを見つめた後、ジェラートを所望した。ホールデンが先程までの出来事とビアンカから得た情報、更に自分の推測を語る間、彼女は黙々と本場の菓子を口に運んでいた。
こうして見ていると、彼女も愛想は全くないもののごく普通の少女のようだ。これまで殺伐とした様子ばかりを見ていたので、微笑ましくすら感じられてくる。
「ホールデンさん、聞いていますか?」
顔の前でスプーンを振られ、ホールデンは我に返る。話し終えてから、気付けばミアを見つめたまま心ここにあらずの状態に陥っていた。
「あ、すまない。何て言った?」
「そのビアンカ・マルディーニという女の人の写真、ちゃんと撮りましたか?」
「ああ、勿論。今、イタリア支部に送ってIDを検索して貰っている」
ホルスに含まれるナノマシンには、録画機能を持つものもある。ホールデンの視覚情報と同じものを常に撮影しており、任意のタイミングで視界の写真や動画を記録する事が可能になっているのだ。
ホルスを始め、特制兵の体に埋め込まれている電子機器は基本的にバッテリー切れを起こす事はない。TEG(ThermoElectric Generator:熱電発電機)を利用し、人体から熱放射される体温を再回収して常に電力を供給し続けているのだ。表皮と外部環境の温度差を用いる「ゼーベック効果」で充電しているらしい。
ホールデンは、ビアンカがCIAではないかと睨んだ際、この「視覚記録」で彼女の顔写真を密かに撮影していた。彼女のIDが米国のデータベースに登録されている場合、この顔を照合に掛ければ一致する人物が発見されるはずだ。
「まあ、当然ですよね」
ミアは「そうでなければ」というように肯き、再びジェラートを掬った。
「彼女が訳ありかどうかはさておくとして、彼女の方はホールデンさんがネプチューンから派遣されている事に何か勘づいているのでしょうか?」
「いや、そんな様子は特に見せなかったが」
「それは、もし本当に諜報員だとしたら、プロのはずですから。けれど、一般人も舐めたものではないですよ。気付かない振りをしながら、ホールデンさんの様子を探ってみるつもり、という可能性も否めません」
「そんな事をして、何になる?」
「分かりません」ミアはあっさりと言った。「けれど、ネプチューンや外国のスパイが国内で活動する事を、よく思わない人々は居ますから」
「だがイタリアも、ネプチューンへの国民のID提供と個人情報管理制度を実施している」
「実感が違うんだと思います。自国の制度として行われる情報収集は、たとえネプチューンに対する間接的な情報提供だとしても受け容れられる。適切な喩えかは分かりませんが、直接川に食用油を捨てる事には忌避感を抱く人々も、ビーチのトイレは平気で利用するでしょう。それが排管を通って直接海に流れ込むとは知っていても」
「……コーヒー飲んでいる時に、嫌な喩えを出すんだな」
ホールデンは、ややげんなりしながら言う。
「けれど、少し意外だ」
「何がですか?」
「ミアはそういう、人の感情的な問題──気分、みたいなものには無頓着なのかと思っていたな。どっちにしろ同じ事なら、そういう事で気分を悪くしたりするのは馬鹿馬鹿しい、と思うとか」
「失敬な。実感はなくとも、概念くらいは知っています」
彼女はやや拗ねたようにスプーンを咥えてから、でも、と付け足した。
「確かに私も、ちょっと意外です」
その先は、特に何も言わなかった。暫らく無言でスプーンを動かし、ジェラートに集中していたが、やがて器を空にすると満足そうにほっと息を吐いた。ホールデンはその唇に、初めて微笑みの形が浮かぶのを見る。
彼女は紙ナプキンで口元を拭うと、再び真面目な表情になった。「ともかく、悪意がなかったとしても素性が露見するのはいけませんよ」
「分かっている」
「その情報が、何処から漏れるか分かりませんからね。もしもその時、『余燼』が彼女に目を付けたとしたら──そして、手荒な手段に訴えてでも自分たちについて調べている者の情報を得ようとしたのなら、そこで口を割らない一般人、というものを求める方が高望みというものでしょう」
ミアは、そのまま微塵も声色を変えずに言ってきた。
「ビアンカさん、美人でしたか?」
「なっ?」
ホールデンは、彼女がどのような気持ちでそのような問いを放ってきたのか理解出来ず、たじろぐ事になった。
「主観が含まれる情報は、考察の材料にはならないぞ」
「いいえ、ホールデンさん。その”主観”が欲しいのです」
ミアの顔は大真面目だ。彼女が冗談などを口にする性格ではない事は、これまでの付き合いでホールデンも分かっている。
「……まあ、そうなのかな。一般の人として見たら、まず間違いなく美人の範疇に含まれるのではないかと思う」
「そうですか……なるほど。ホールデンさんは、そう思われるのですね」
彼女は何かに納得したように一人で肯いている。
いきなり何を言い出すのだ、と、ホールデンはやや極まり悪いやら、訳もなく腹立たしいような気がするやらで口を噤んだ。しかし、ここで滞ると却って微妙な空気になると思い、漂いかけた沈黙を摘み取るような気持ちで再度開口した。
「ともかく、俺は数日以内にビアンカさんに、デュラン・ヒューズの所に案内して貰う。本当にスムーズに接触が行えたのなら、取り敢えず第一条件はクリアという事になる。上手く行けば、今後は彼女を間に挟まずヒューズに渡りがつけられるようになるかもしれない。もし、何らかの”始末”をつけねばならなくなっても──」
そうだ、と、ホールデンは冷静沈着な特制兵としての自らの声に耳を傾ける事にした。
言われるまでもない。自分がここに居る目的は、ヒューズに接触する事、彼にFC弾を撃ち込み、脅してランドールの居場所を吐かせる事、そしてランドールに微分ウイルスを投与しこの世から抹消する事。
それ以上の事は望んでいないし、望む事も許されない。




