『パラス・アテナ』Ⅰ パラス・アテナ②
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アムリタ731が人体にもたらすものは、単なる精神の高揚のみではなかった。
一時的な筋肉拡張、骨密度増大効果と痛覚調整。汗腺からも容易に代謝されるナノマシンは肉体が薬物耐性を付けないように生体組織を騙すのみならず、アイピルの要領で四肢や胸筋など特定の部位に物質を送り届ける。
癌化したキメラ細胞だ。蜥蜴や蚯蚓、ヒドラなど、極めて高い自己再生能力を持った下等生物と、それらと同等の再生能力を粘膜や血球に持っている人間の遺伝子を併せ持つ細胞を、異にそれが著しい胎児の状態で培養する。それによって細胞の量が一時的に数倍に膨れ上がり、物理的な人体の拡張が起こる。無論効果が切れれば、それらの伝達に使用されたナノマシンが役目を終えたそれらへの酸素供給を遮断し死滅させる。
痛覚調整は、あくまで”調整”であり”無効化”ではない。完全に感覚を失ってしまっては負傷にも気付かず、治療が遅れて死に至る可能性もあるからだ。原理としては、脳や脊髄が痛覚として処理する強度の電気的な刺激を感知すると、ナノマシンはその一瞬のみ神経の感度を下げて叩かれた程度の感覚に変換する。これにより特制兵は、激痛で戦闘不能になるような事はなく、また負傷に気付かず失血死する事もない。
だからたとえ個人翼を装着せずに雲の上から飛び降りたとしても、ホールデンたちは強化筋肉により両足で着地する事が出来、衝撃による痛みも感じない。アムリタは地上に到達するまでの間に、完全に全身に行き届いている。
ならば個人翼は何の為に装着するのかというと、風によって目標座標から逸れた場所に降下してしまう事を防ぐ為だ。特制軍に於いては、全ての装備は直接的な作戦遂行の為にのみ存在している。
ホールデン、ディーターの組──二人のコールサインから「北欧組」と呼ばれる──、カイエンとリー・トールマンの「海蛇組」、ロバート・ジョンソンとベンジャミン・ハルトグレンの「異界組」が降り立ったのは、黒海とシウトギオル湖、タバカリエイ湖の合流するママイア索道の中央だった。
Sディメンショナーたちの反乱を主導する指導者「教祖」の一人であるアドリアン・ゲオルゲが県警に対して牙を剝いたのが昨夜未明。現地の治安当局が「宣教」コードによって米国のネプチューン本部に「三叉鉾」派遣を要請したのがそれから半日程経った現地時間での正午だったが、情報によるとゲオルゲは黒海経由でトルコの過激派──大本の解散したPKK(クルディスタン労働者党)から分離した者たちで、良心の限界を迎えたSディメンショナーたちが組織を乗っ取り名前だけを使用しているらしい──をルーマニア領内に招き入れるつもりのようで、沿岸部の住民を内陸へと強制退去させているという。
ホールデンら「三叉鉾」は、Sディメンショナーの検挙ではなく「教祖」の暗殺と暴徒制圧をメイン業務とする。暗殺の合法化という事柄も、世界中がネプチューン体制に移行してから起こった大きな変化ではあるが、今回求められたのはそれではなく、上空からの奇襲による短期決戦だった。
なるほど、ゲオルゲの下に集った民兵たちは海岸線を固めてはいた。しかし、彼らの注意は専ら内陸にのみ向いているようだった。
突如頭上から降って来、コンクリートに蜘蛛の巣状の亀裂を生ぜしめた特制兵たちに、民兵たちは肝を潰したようだった。それぞれに備わった千差万別のSDSを使用する前に、反射的に手にした銃火器をホールデンらに向ける。
見つかり次第自己申告するか、現地の特制軍に身柄を確保されて正常化手術を受けさせられる事により、ノーマルの人々が日常生活の中で良心の限界を迎えたSディメンショナーを目の当たりにする事は滅多にない。それ故に誤解されがちな事ではあるが、良心の限界を迎える事とは決して人鬼の如く凶暴化するという事ではないし、理性の働かない怪物に成り下がるという事でもない。実際には、この理論はサブジェクトとしてのノーマルの存在ありきで初めてSディメンショナーに言える事であり、ノーマルと人間以外の生物の関係性に於いてはノーマルにも当て嵌まる。
自分たちが相手にするのは、人間である。
その認識は、アムリタが戦闘志向の精神状態を作り出し、殺戮に対する躊躇や罪悪感を消していたとしても当然のように持ち合わせている大前提だった。
「畜生ッ!」
民兵たちが、中東から密輸したと思しきIMI ネゲヴ(軽機関銃)をこちらに向ける。しかし、奇襲が功を奏した時点で優位性はホールデンらにあった。
道路を封鎖するSディメンショナーたちの懐に入り込んだホールデンは、得物である巨大な拳銃──改造されたデザートイーグルを抜くよりも先に、筋肉量の激増した右腕を振るってグリップを握る民兵たちの手首をへし折っていた。否、中にはそれだけでは済まず、両手を銃ごと叩き潰されたり、捥ぎ取られたりした者も居る。
アムリタ服用中の特制兵の握力は、ゴリラと握手をして相手の手を握り潰せる程だ。Sディメンショナーたちは狼狽の声を悲鳴に変え、そこで初めて我に返ったように自分たちの能力を発動し始めた。
ホールデンが手を叩き潰した民兵の一人が、苦悶の声を上げながらも眼前の虚空に網の目状の光を描いた。今までに他の戦場でも目にした事のある、比較的オーソドックスなSDSの一つ、「次元切断」だ。
防御は不可能な攻撃だった。ホールデンは「ディート!」とペアを呼びつつ、空中に跳躍してそれを回避する。数瞬前まで自分の居た場所を網の目状の斬撃が通過し、彼方の街路樹に当たった。街路樹は音もなく同一の大きさのブロックに解体され、大気中に溶け込むように消滅した。
ホールデンのすぐ横に居たディーターは、跳び上がりざまに反撃に移っていた。空中で身を捻り、次元切断の刃を飛ばしたSディメンショナーの首筋に回し蹴りを放つ。強化筋肉の脛を叩きつけられた兵士の首は、あらぬ方向に曲がって血を飛沫かせた。
少し離れた場所で、カイエン、リーが「分子使い」二人と交戦している。敵はやはりネゲヴを主武装としていたが、片方が放った弾丸は火薬の炸裂光が瞬く銃口でパッと光の粉と化して消え──次の瞬間、銃口の数百倍の大きさの円錐となった。
道路を塞ぐようなそれを、カイエン、リーは圧し潰されそうになりながらも両腕に力を込めて押さえ込んだ。初速は完全に相殺されてはいないようで、踏み堪えた二人の足がずるずるとコンクリートの上を滑る。
これもまた、よくある分子使いの戦法だ。分子それ自体を巨大化・変形させ、分解不能な大質量を作り出す。
海蛇組の二人は暫し踏み止まっていたが、やがて限界が訪れたように手を離した。逆ベクトルから解放された巨大分子弾は、一直線に飛んで道路沿いのビルを穿つ。
カイエンは鋭く舌打ちをしてから、
「建造物の防衛は、業務に含まれていませんよっ!」
微塵の動揺も見せず、XM7(アサルトライフル)の引き金を引いた。6.5mmクリードモア弾が、次弾を発射しようと分子操作を開始していた敵に肉薄する。敵はぎょっとしたように能力の使用を中断し、相方がその弾を分子へと分解しようとする。だが、カイエンの行動は失敗ではなかった。
この一瞬、二人の分子使いは能力をカイエンたちへの攻撃に回せなくなった。
すかさずリーが動き、同じくXM7──「三叉鉾」のメンバーのうち、米国出身者は基本的にこれを主武器とする──を彼らに撃った。弾丸は .277 FURY弾、威力は至近距離であれば大口径弾にも匹敵する。
距離的に初速を維持したまま、それは最初に能力を使用した方の敵に襲い掛かった。側頭部を撃ち抜かれ、分子使いの片割れは声も上げずに倒れ伏す。その時にはカイエンも、発砲後のコンマ数秒間の反動から立ち直っており、低姿勢でもう一方に接近し、強化筋肉によるアッパーカットを繰り出した。
敵の顎が拉げ、砕けた歯が血液と共に飛び散る。舌を噛み切ったのか、口腔から大量の血を噴き出して分子使いは仰向けに倒れた。
素手で人間を撲殺出来る腕力。従来の反応速度を遥かに超える外界の情報処理能力。
特制兵たちの”能力”もまた、SディメンショナーのSDSと遜色のないものだ。違いはその能力が、本人たちの意思によって獲得されたものであるか、そうでないかという点のみと言っても過言ではない。
Sディメンショナーへの憎しみは、恐らくこの先も消える事はないだろう、とホールデンは思っている。しかし、自身がかつて手放した力と同等の力で彼らを制圧する度に──アムリタの効果が切れ、自らの行いを後になって振り返る時、罪悪感とは異なる自らへの恐れが顔を出すのだ。
いずれ人間に対して良心の限界を迎えるのは、自分もまた同じなのではないか、と。
S器官を切除した自分でも、人類それ自体の宿業から解き放たれる事は、この先もないのかもしれない、と。
ともあれ、目下とうに限界を迎えたSディメンショナーの民兵たちは、「三叉鉾」の急襲を受けてたちまち駆逐された。死にはしなかったものの、重傷を負ったり意識を失ったりして戦闘不能に陥った者、武器を捨て投降した者を、ロバートとベンジャミンが手際よく拘束していく。無論SDSが使える以上、武器を手放したからといって油断は出来ないので、意識のある者には漏れなく麻酔薬が投与された。
彼らとハンドサインで確認をし合うと、ホールデンはHME(連絡用端末)を取り出して音声を吹き込んだ。傍受を防ぐべく、音声はテキストに変換され送信先のホルスにのみ表示されるようになっている。
「こちらクラーケン。ブラボー分隊、予定落着地点の敵を制圧完了。戦死者・重傷者なし。南下し、エコー、フォックストロット分隊を支援しつつトミス観光港方面へ移動する。尚、ターゲットからゲオルゲへの警告は確認されず」
送信から数秒後、クラインフェルド大佐からのメッセージがAR画像に現れる。
『こちらリヴァイアサン、了解。チャーリー分隊から同様の連絡あり。我々アルファ分隊にも戦死者・重傷者なし。ゲオルゲの移動は未だ確認されず、デルタからの報告を受け次第六分隊総員で港の包囲を行う。 Col. Kleinfeld』
ホールデンはそのメッセージから、地元の特制軍が今や殆ど戦闘状況から離脱してしまっている事を読み取った。しかし、それを彼らの無能と責める事は出来ない。今は見えていないが、街からの撤退を余儀なくされた民間人、最初にゲオルゲに襲撃された県警の中にも相当数犠牲者が出ただろうし、半日にして沿岸から全ての民間人の退去が済んだのは、治安当局がその力のほぼ全てを避難民の警護に回したという事に他ならない。
彼らのみでは対処のしようがなくなり、初めてネプチューンに「三叉鉾」の派遣が要請された。この時点で、状況を動かし得るのは「三叉鉾」のみとなっている。
「ここまでで九分……予定よりかなり速いペースだ」
ディーターが、タイマー表示を確認しながらマスクの顔をこちらに向けた。
「ゲオルゲは、逃亡を図るだろうか?」
「それはそれで困るが、抵抗されても厄介だな。一人大隊──反ド・ジッター空間を利用した次元跳躍と、その応用による複数座標への同時出現……」
言っているホールデン自身にも、何が何だかよく分からない。ただ、事前情報として共有されたテキストを読み上げているだけだ。いつの間にか自分たちの近くに来ていたリーが、「平たく言えば」と口を挟んだ。
「『分身の術』を使う相手ですよ。しかも、本体がない──強いて言えば、全部が本体、みたいな。SDSとしては珍しい種類ですね」
「全部が本体って……それを一人の人間の脳味噌が操れるのか?」
ディーターは、未だに信じられないというように頭を振る。
「例えばグラニッツ大尉の視点からご覧になった世界は一つで、同じ瞬間にハング大尉のご覧になっている世界は見えないでしょう? そのように、ゲオルゲは次元ワープでテンソルを発生させると、ある瞬間にAという座標に居た自分と、Bという座標に居た自分をそれぞれ独立して体験するんですよ。記憶は、後から統合されるんでしょう」
ロバートたちが上空の航空機に捕虜の回収を要請するのを待ち、ホールデンたちはママイア通りの南下を開始する。カイエンが「なるほど」と呟いた。
「それで一人大隊、か」
「『大教祖』が見込むだけの事はあるな。これが捕獲でなく、抹殺でも大変だった」
ディーターの言葉に、皆が黙り込んだ。
ホールデンは、これまで制圧してきた数々の「教祖」たちの陰に潜む「大教祖」、ジョニー・ランドールの事を考える。
今まで確認されたあらゆるSDSのうち、最も忌まわしいとされる「次元屈折」能力を持つ男。全世界の「教祖」を煽動し、超次元戦争、第三次世界大戦を引き起こそうとしているという黒幕。その意思によって決起し、特制軍に囚われた「教祖」は皆凄まじい恐怖と共に彼によって命を奪われる事を予言し、いずれもその通りに死んだ。
厳重なセキュリティに守られたネプチューン本部内の独房で、原形を留めない程に肉体を破壊されて。
経歴、国籍一切不明。ネプチューンに情報を掴まれない割に「教祖」たちの前にはごく普通に姿を現すらしく、性別が男である事、年齢が恐らく二十代後半から三十代半ばである事ははっきりしている。名前も本名なのかは分からず、近年では各国でランドールの煽動によると思われる「教祖」の反乱が起こる度にその国の国民たちのIDが「宣教」コードに基づきネプチューンに提供されるが、そのいずれにも彼の名前は発見されなかった。
とはいえ、ネプチューンの求めに応じてドクトリン「ストロングホールド」を発布した米国を始め、既に管理体制に入っている国々では身分の偽造も容易ではない。それらの国々は原則としてネプチューン公認の世界共通IDを持たない人間は渡航禁止、移住を希望する場合戸籍の登録にも厳正な審査が行われる。
考えられるとすれば、彼が未だに法制定、特制軍の配備が進んでいない発展途上国の出身者であるか、或いは出身国で政府システムに入り込み、出生時点での戸籍そのものを改竄しているか。
後者の可能性も、十分すぎる程に考えられた。ランドールの名がテロ事件の捜査上に上がり始める直前、英国のエシュロン傍受施設の一つがSディメンショナーの手に落ち、”敵”が国際情報収集システム──ネプチューンが反乱分子の特定・追跡に用いるもの──を使用可能だという事が発覚したのだ。
以降、このシステムは使用不能となり、国際捜査と「教祖」の制圧は以前よりも難渋なものとなった──という。
情報に飢えた自国特制軍に目を付けられる可能性がある以上迂闊な書き込みは出来ないものの、「大教祖」ランドールという存在は民間でも酷く人口に膾炙し、インターネット上では半ば都市伝説の如き扱いを受けている。しかし、それらと決定的に異なるのは、ランドールという男の実在は確定しているという事だ。
それはある意味、神格化に近い扱いだった。
実在するという事のみが分かっており、正体不明であるが故に伝説というベールを被る。
果たして彼は、何者であるのか──それを暴く事は、目下ネプチューンが最優先で達成せねばならない課題だった。




