『パラス・アテナ』Ⅰ パラス・アテナ①
始まりは、ガラスの割れる音だった。
モンタナ州、グラスゴー南部。フランシス・ストリート沿いの家。
彼らが突如として現れたのは、夏めき始めた六月上旬、日差しがベランダの廂に映える白昼の事だった。
涼しい風の吹く窓際でホログラムの地方紙を広げていると、ベランダの方からその音が響いてきた。続く銃声と、娘が転がしてしまったボールを拾いに行った妻の悲鳴。それは刹那の事で、すぐにどさりと倒れるような音が終止符を打った。
そこで、また同じ夢を見ている事に気付く。
二歳の誕生日を迎えたばかりの娘が、「ママ?」と呼びながらリビングを横切る。
何が起こるのか分かっていた。しかし、夢の中の自分はその時既に視点だけになってしまっており、リクライニングチェアに凭れたままの目線で娘の小さな背中を追う事しか出来なくなっていた。
──ああ、駄目だよサリー。そっちに行っちゃ。
心の中で呼び掛ける。しかし当然のように、その声は彼女には届かない。
「ママ、どうしたの?」
彼女の周囲で、光が歪曲する。陽炎のように空気が揺らめき、その中に映し出される無数の彼女の姿。それらの合間に、砕け散ったプランターやガラス、血溜まりから飛散した赤い斑点が紛れ込む。
それは彼女が起こしている現象であり、同時に彼女の意思とは関わりのない事だった。
彼女も怯えているのだろう。突然の異音に──銃声と母親の悲鳴、大勢の怒号と不揃いの軍靴の音に。そして、自らの内に備わった異質な器官が働き掛け、否応なく見せてしまうその光景に。
──戻っておいで、サリー。こっちに戻っておいで……
「何てこった! 子供までか!?」
「畜生、どれがどれだか分からん!」
「構わん、片っ端から撃て! Sディメンショナーに情けなど必要ない!」
光がどんどん強くなる。その中心で、娘の輪郭がぼやけ、揺らめきの中に溶け込みながら黒点となっていく。
コンマ数秒後、連続音と共に、そこから引き裂かれた影が飛び散った。
消えていく。削られるように爆ぜる黒点も、それが周囲に映し出す無数の影像も。
眩む視界が、次第に溶暗する。その向こうから滲み出すように迷彩服とガスマスク姿の兵士たちが進み出て来、それらもまた同じようにフェードアウトしていく。
自分の番が来るのだ、と思った。夢の終わりを感じ、早く覚めろ、と強く念じる。そうすれば覚ませるはずの明晰夢が、何故かこの光景の時に限ってなかなか覚めてくれないのはいつもの事だった。
セミオートで放たれた無数の銃弾が、光源から一挙に襲い掛かってきた──。
* * *
はっと飛び起き、正面の壁が目に入った。
夢の中から持ち越された動悸が、肋骨を激しく叩いている。臀部と脚に伝わってくる微かな震動が、それを超音波洗浄の如く分解し、鎮めていった。
「お目覚めですか、大尉?」
前方の操縦席から若いパイロットに呼び掛けられ、自分が現在NC - 47 アルゲンタヴィス(人員輸送機)で仮眠中だという事を思い出す。GCL(Gel Contact Lens)型のウェアラブルディスプレイ上で、視界の端に映し出される時刻を見ると、午後七時四十五分になっていた。作戦開始の十五分前だ。
という事は、既に目的地であるルーマニアの領空には入っている。
ARデバイス「ホルス」を制御するナノマシンには、当然のようにNTP(Network Time Protocol)が使用されており、地球上の何処に居ても正確な時刻を表示させる。ネプチューン本部を出発し、大西洋を横断する間に設定をし直す必要はない。
「ホールデン・ハング大尉」
カール・クラインフェルド大佐が名指しする。彼はホールデンら統一特制軍「三叉鉾」の司令官だった。
「薬が切れたか? 移動中の仮眠で魘されるとは、今までなかった事だな」
「申し訳ありません、大佐。しかし、アムリタで中和出来ない程ではありませんので、作戦への影響についてはご心配なく」
ホールデンは答えながら、確かに今までにない事だ、と考えていた。
大厄災時代の後、世界各地に出現したSDS(Super Dimension Skill:超次元能力)の保有者──通称Sディメンショナーを狩る為に各国軍内に組織された特殊制圧軍。それらを国境を越えて統括するネプチューン直属部隊が「三叉鉾」だ。従来の人類──本人たちからは「ノーマル」、Sディメンショナーたちからは「オールド」と呼ばれる──が特殊能力者たちと渡り合う為には、装備の性能だけではいけない。サイボーグ化やドーピングによる激烈な人体改造に個人の思考制御、ネットワークとIDによる管理、世界がネプチューン主導の新体制に移行してから解禁された兵士の強化プロトコルの中で、「三叉鉾」所属のホールデンらに施されたそれらは特に苛烈を極めるものだった。
「三叉鉾」が戦闘を開始する前には、必ず向精神薬「アムリタ731」の服用がある。効果は極めて短く、体が余計な耐性をつけないように含まれるナノマシンが命令を発する仕様になっているが、幾つも修羅場を潜り抜ければ徐々に薬物なしでも心理状態を安定させる術は身に着いてくるものだ。
それは、ホールデンにとって望ましい事だった。元はといえばそれを望んで、「三叉鉾」への入隊を志願したのだから。特制兵として戦いの中に身を置くようになれば、自らも同じ存在となった特制軍への恐れが消えると思ったから。
「血圧の上昇、脈拍の増加……やはり、トラウマの再発か」
クラインフェルド大佐は、自身の視界に映し出されるホルスの映像に目を走らせながら呟いた。司令官である彼には、作戦に参加する者たちの生体情報が常時モニタリング出来るよう信号が送られている。
本当に大丈夫だという事を示すべく、ホールデンは立ち上がろうとした。が、その時、突如頭部に──正確には眉間の奥の方に──大きな疼きが生じた。
磁力に引かれるように、頭が自然に窓外に向く。
そこに、ホールデンは思いがけないものを視認した。
初夏、夏至へと近づき、まだ沈みきらない太陽に下方から照らされ、内側から鉛丹色に発光する雲海。その雲と、既に群青色の天元からグラデーションを成しながら交わろうとする空との合流地点に、人影が立っているように見えた。
少女のようだった。一瞬通過しただけだったのでよくは見えなかったが、薄水色のワンピースの裾を風に靡かせていたように思う。そしてそれよりもはっきりと分かったのは、彼女の視線が、光学迷彩を展開して飛行しているアルゲンタヴィスを──その窓から外を見ている自分を、はっきりと捉えているという事だった。
よく見ようと身を乗り出した時には、既にそれは消えていた。
(見間違いか? ……いや)
ホールデンは眉間を押さえ、微かに頭を振る。確かに今、感じたのだ。
共鳴を──。
「おい、大丈夫か?」
同僚であり、二人一組の相棒であるディーター・グラニッツ大尉が肩を叩いてくる。ホールデンは「ああ」と応えたが、彼はやや疑わしげだった。
「まさか、またS器官が……?」
「いや、定期検診はつい三日前に済ませた。CTスキャンにもそれらしいものは映っていなかったし、プロテオーム解析も、mRNAにも変異の兆候はなかった」
ホールデンは、噛んで含めるように言う。
「そもそも、大前提としてS器官そのものの再形成は有り得ないって博士は言っている」
「けれど、あなたは遺伝子的にノーマルじゃない」
ぼそりと呟くように言ったのは、カイエン・ホイストだった。「猿から体毛を剃っても、ヒトにはならないように」
「ホイスト」いつもの事ながら、毒を含んだ口調で言う彼を窘めるのはディーターの役割だった。クラインフェルド以外であれば上司に対しても慇懃無礼な態度を取るのはカイエンを彼らしくしている特徴ではあるが、それがホールデンとSディメンショナーを紐づけるような内容であれば、ディーターは本気で腹を立てるのだ。「作戦開始前だぞ。貴様のその態度が、部隊の和を乱すものである事を自覚しろ」
「本当の事を言ったまでですよ、グラニッツ大尉」
カイエンはさらりと受け流すと、「で」と再びホールデンの方を見た。「共鳴が起こったんでしょう、今? Sディメンショナーが近くに居るんですか?」
「ああ、えっと」
ホールデンは口に出すべきか出さざるべきか迷い、結局言った。
「今さっき、雲の上に女性の姿が見えたような気がするんだ。若い──まだ高校生か大学生くらいだったような」
「うわっ、嫌らしい……」カイエンが顔を顰め、
「またお前は女の事を考えている……」今度ばかりはディーターも苦々しく呟いた。
ホールデンは慌てて両手を振り、「いや」と付け加えた。
「多分見間違いだろうと思うよ。ほんの一瞬で、見えなくなってしまったし」
「だとすれば」クラインフェルド大佐が容喙した。「今貴様が感じたのは、この下に居る敵の気配だろうな。今回は現地の治安当局も手を焼いている大物だ、この距離から感知出来たとしてもおかしくはない」
司令官の言葉に、皆がぐっと黙り込んだ。
ホールデンはホルスにビューを映し、現在の座標を確かめる。北緯四十四度十分、東経二十八度三十八分、高度三万三千フィート──コンスタンツァ上空、既に作戦空域だ。
二ヶ月ぶりとなる「教祖」との戦闘だった。不謹慎な高揚を抱いている自分に気付き、ホールデンは自らを窘めた。
(アドリアン・ゲオルゲは、『大教祖』に肉薄する貴重な手掛かりだ。決して殺す為に戦うのではないんだからな)
「予定時刻だ。総員、個人翼をアクティベート。アムリタ用意」
クラインフェルドの指示と共に、床の脱出口が開いた。この時点で、アルゲンタヴィスは高度を一切下げていない。
ホールデンを含め、搭載された「三叉鉾」メンバーたちが”翼”をランドセルから浮き上がらせる。活動電位により神経細胞に直接接続されたそれが有効化されると、本来人間には存在しない部位が現れたような違和感が背中に生じ、すぐに幾度も経験した事による”慣れ”がその感覚を掻き消した。
脱出口の周囲に集まると、各々腰のポーチからアムリタ731のポーションを取り出す。依存性は特にないものの、如何せん人体の可能性の限界を引き出す薬だけに効力が消えた後の反動が凄まじい。故に、一度の作戦につき一人に与えられるアムリタは一本のみだ。
「マップとフォーメーションは既に転送した通りだ。それぞれ二人一組で、ルーマニア政府から提供されたID情報を基にゲオルゲを判別し捕獲を目指せ。SDSの特性上、顔写真はあまり信用するな」
「イエス、サー!」
メンバーたちが唱和すると、クラインフェルドは「乾杯」をするかのようにポーションを体の前に突き出した。
「各々の信ずる神より加護あれ! 必ずやゲオルゲを捕らえ、『大教祖』の情報を引き出すのだ。……状況開始」
言うや否や、アムリタを一気に飲み干す。空になった瓶をぽいと放り捨て、ガスマスクを装着して個人翼を展開する。それを合図に、ホールデンたちもアムリタを飲み下し、誰からともなく脱出口へと足を踏み出した。
最初に飛び込んだペンギンに仲間が続くように、メンバーたちは一人、また一人と虚空へ身を躍らせて行った。ホールデンもまた、その中へと加わった。
底のない雲の中を突き抜けると、上昇気流がホールデンの全身を包み込んだ。
翼をはためかせる度に、血中に溶け込んだ薬物が巡り、戦闘に相応しい心理状態を作り出していくのが分かる。地上に到達する頃には、自分は既に敵との戦いにのみ特化した人ならざる特制兵となっているだろう。
* * *
世界各地への同時多発的な隕石落下を端緒に、世界中を恐慌に陥れた大厄災時代。しかし真の混沌は、その後に発生したSDSの発現という出来事だった。
シェードコアと呼ばれる隕石──便宜上そう呼ばれているだけで、専門家によると実際には更に複雑怪奇な”物体”であるらしい──の落着地点を中心に現れたSDS保持者、Sディメンショナーたちは、それまで彼ら自身と同一の存在であった既存の人類、ノーマルとの共存を望まなかった。
後に科学的に理由を考察された彼らの極度な過激思想志向、特権意識が、大厄災時代の終わりと共に新たな紛争の火種となるのは早かった。彼らが目指したのは、自分たちによるノーマルの支配だったのだ。
大厄災時代は、全世界の政府機能を著しく麻痺させ、大国の国力を大きく減退させた。信頼に足る大きな影響力を求める人々に応えるように、国連は人類の新たな脅威に対して各国家が団結する為の統一規格へと枠組みを変更した。
世界統一政府NEPTUNE(National EnterPrises TUNing Enactment:国際事業調整法定機関)。海によって繋がれた全世界を統べる「海王」の名を冠したその組織は、それまでフィクションで度々類似の存在を描かれ、また実際に多くの主義者が設立を構想したものでありながら、急遽用意されたもの故の不完全性が目立った。
設立後も暫らくの間、国家ごとの政府による独立統治に依存を余儀なくされたネプチューンは、それぞれの国に体制の移行を求めた。多くの現代国家で採用されている民主制、共和制から、厳格な管理体制へと。
特に高度情報化による管理システムが推奨された。IDの登録、ネットワークによる個人の行動記録の集積。
それらの理由には、Sディメンショナーに対抗し得るノーマルの兵士を養成する為の土壌を作るという事があった。倫理的側面による規制を大幅に緩和する事で、有効ながら従来は使用出来なかった科学技術を解禁する。それにより、各国の軍隊は対Sディメンショナー戦に特化した「特殊制圧軍」の配備が可能となった。
特権には、特権を以て対抗するしかない──特制軍の実態が、ノーマルの敵を徹底的に排除する為に形振り構わない手段を採るものである事は、多くの人々から指摘されていた。具体的には、超法規的措置として人体実験や拷問などが許可される。ID管理により、ある国民にS器官形成が認められれば彼らが派遣され、正常化手術を目的とした措置入院という名での身体拘束や、本人がそれに応じず敵対行動を──傷害未遂が基準とされる──取った場合にはその場での”処理”も認められる。
それはSDSの研究やテロの未然防止に大きく貢献し、各国でも一定の支持を得ている事だった。その理由に、いつ善良な知人が「良心の限界」を迎え、理解し合えない怪物になるか分からないという人々の恐れがあるのは事実だ。
しかしその一方で、SDSの獲得とSディメンショナーへの進化など望みもしない人々が、いつ自分がそうなり”魔女狩り”の標的とされるかという怯えに悩まされながらの暮らしを強いられるという現実も確かにそこには存在していた。
力を望まず、力を得てしまった事で世界から拒絶された者たち。
良心の限界によって他者を拒絶する前に、他者からの拒絶を味わった者たち。
彼らがその後、採り得る選択肢は二つだった。現地球人類の営為を覆う、ネプチューンによる管理体制を憎むか。或いはSDSと、その忌むべき力を得意げに誇示するSディメンショナーたちを憎むか。
現実に於いて、どちらが生きやすいのかと問われれば断然後者に違いなかった。
自分たちは当たり前ながら、死に急ぐ為に生まれた訳ではないのだから──。
本日より満を持して『パラス・アテナ』の連載を始めます。また異能力バトルものですが、今回はアメリカン・コミックのようなものを目指しました。私が新人賞に応募した作品としては三作目ですが、「ラノベ:一般文芸」の比率が『闇の涯』が4:1、『神器』が2:3くらいだったのに対し、今回は3:2といったところでしょうか。
今回モチーフとして意識したのは伊藤計劃さんの小説『虐殺器官』と冲方丁さんの「マルドゥック」シリーズです。『闇の涯』は『精霊の守り人』×『マトリックス』を、『神器』は『神狩り』×『PSYCHO-PASS サイコパス』を意識しましたが、今回はそこまで異質な組み合わせという気はしません。具体的にどのような部分が似ているのかはこの先を読んでお確かめ下さい。
それから、若干ですが知念実希人さんの『レゾンデートル』(実業之日本社文庫版。単行本版では『誰がための刃 レゾンデートル』)の風味も入っています。主人公ホールデンとヒロインのミアの年齢である三十二歳と十九歳は、この『レゾンデートル』の主人公とヒロインの年齢と同じです。とはいえ最初の数日間はミアが登場しない為、これも先の展開をお待ち下さいといったところです。因みに『闇の涯』のムウが(作者本人の感想ですが)過去一くらいに可愛いヒロインで、『神器』の由憐はあまり可愛くないヒロインだったのに対し、ミアは「段々可愛くなるヒロイン」になりました。書き終わる頃には「ああ、続き書きてえなあ」と思っていた作者ですが、具体的な事は何も浮かんでいなかった上、『リ・バース』の連載準備をせねばならなかったので(もうじき連載開始という時に本作を執筆した為第二話までしか書けていなかったのです)、そちらに着手しているうちに意気が阻喪しました。恐らく、本当に続きが書かれる可能性は極めて低いのであまり期待しないで下さい。
ところで、今作のホールデンは三十二歳という、短編を除いた藍原センシ作品の主人公たちの中では最年長です。中高生の頃は「自分には高年齢の主人公は気持ちが想像出来ないから書けない」と思っていましたが、現在書けるのは自分がその年齢に近づいたからというより、触れた創作物の数が増えたからだと思います。今作は視点変更はなく、ホールデンの一人称視点で最後まで通しますが、やはり一巻分で完結させなければならない作品で人物に厚みを持たせるにはこの方がいいです。
恐らく一ヶ月と少し程度の連載期間になると思います。明日以降も宜しくお願いします。




