『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ④
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インフラが復旧し、人々が戻り始めてから十年経ったナポリの街並みは、一度更地も同然になった事を考えれば速いペースで立ち直りつつある、と言えるのかもしれない。
しかしそれは、あくまで「立ち直りつつある」だった。
失われたものは、完全には元に戻らない。ホールデンが歴史の資料に載っていた写真で見た事のあるカンパニアのストリート──石畳の道路沿いに、瀟洒なベランダの付いた集合住宅や店が建ち並ぶ──は最早そこになく、ニューヨークの街中と同じような電子パネルの付いたガラス張りのビルとホログラムの看板がそれらに取って代わっていた。
人口も、「ナポリ最後の日」以前と比べれば十分の一以下に減っていた。その分人探しはしやすくなった、とも言えるのだが、そもそも大まかに見当をつけた捜索範囲自体が間違っていたのでは見つかるはずがない。
その辺りは完全に賭けだよな、と思った。しかし、一日中一つの地域で宿泊施設やらカフェやらを回っていれば、脈ありか脈なしかは大体は分かる。
最初に却下した「虱潰し」とあまり変わらないような捜索が三日目に入った頃、状況が予想だにしない方向に動いた。
それまでと同じくミアと分かれ、ベネデット・クローチェ通りのホテルで一軒目の聞き込みを終えた時、ホールデンはすぐに向かいの建物のベランダからこちらを窺っている二人の男に気付いた。目が合った瞬間、ホールデンは反射的に目を逸らしていたが、それが相手方に何らかの意図を持ったように伝わったようだった。
意識すると共に、眉間にピリピリという刺激が生じた。
共鳴──近くにSディメンショナーが居るという、何よりの証左。向こうも、それを感じただろうか。
思うと同時に、ホールデンは歩き出した。決して駆け出す事はせず、あくまで道を行く人々と同じ足取りで。決して、もう一度向かいに居た男たちの方を見ようとはしない。二度も目が合えば、もう偶然では済ませられないだろう。
路地へ入り込む一瞬前、向こうからの死角になる位置へ移動するや否や素早く首だけを動かして建物を見た。そのベランダからは既に男たちの姿は消え、代わりに二人の人影が非常階段を駆け足で下っているのが見えた。
やはり、ただ見逃してくれるという訳には行かなかった。
駆け出した。彼らが路地に入って来る前に、撒いてしまわねばならない。
(ミアにHMEを──いや、彼女を危険に晒すだけか)
彼女に駆けつけて貰い、あの量子化による高速移動を使って貰えば、逃げ切る事は可能かもしれない。だが、浮かびかけたその考えを、ホールデンはすぐに放棄した。
彼女の能力ばかりを当てにするのは、自分が無能だと主張しているかのようでいい気分ではない。そう思い、すぐに「違う」と否定する。その程度のプライドであれば、任務遂行の為なら幾らでも捨てられる。もっと理性的な理由だ──公衆の面前で、ミアにSDSを使用させる事は憚られるのだ。
超人兵という彼女の肩書きを知らない一般人たちから見れば、Sディメンショナーが平然と社会に紛れ込んでいるという事だけでパニックを起こす理由に十分だ。その上、それが事件として拡散すれば当然ランドールらの耳にも入るだろう。
(いや……探りを入れている者が居ると思われた時点でアウトか?)
──彼らは、カイロスとスミスの言っていた「余燼」ではないのか。
ホールデンは思い、そうだとすると、と更に考えた。
(彼らがホテルの向かいで、こちらを見ていたのは偶然なのか? それとも俺が、ヒューズについて聞いて回っているのが疑われたのか?)
まさか、こちらがネプチューンに派遣された暗殺者だとは思っていないだろう。
そうは思うものの、本気で調べられれば何処かから必ず綻びが見つかり、全てが暴かれる事にもなりかねない。
走りながら、ベルトポーチから2.34mm 微分弾とC1ST(スイスミニガン)を取り出した。前者は、あるSディメンショナーのS器官から摘出された細胞を培養し、ミクロ化してウイルス型ナノマシンの中に埋め込んだものを弾頭として使用しており、命中した対象の次元数を下げて三次元世界から消滅させる弾丸だった。
体の何処かに当たった時点で死亡が確定するこれは、対Sディメンショナー戦にしか使用してはならないとされる。それも、ターゲットに対する処分が「抹殺」一択になった時にのみ使用が許可されるのだ。
ランドールと対面したら、問答無用でこれを撃ち込むようにクラインフェルドからは言い渡されていた。
危険極まりない代物なので、イレギュラーで敵の手に渡る事も想定し、渡されたのは三発のみ。一発は確実にランドールに用い、残り二発は予備だ。先にランドールを始末し、ヒューズが生きているという状況で余っていれば彼に用いる、という配分が最も理想的だという。しかし、現在はその使用もやむを得ない状況と言えた。
入国から三日目で、敵に動きが露見した。その上こちらが上手く彼らを始末する事が出来たとしても、死体が見つかればこれまた騒ぎになる。ここイタリアでランドールに協力する者がどれだけ居るのかは不明だが、ナポリ市内で分担して動いていた者が一人か二人失踪しただけであればまだごまかしようがあるだろう。その点で、死体を残さない微分弾はこの状況を捌くのに最適な武器といえるのだが──。
「逃がすな!」
自動翻訳デバイスによって英語に聞こえるイタリア語で叫びながら、男たちが路地に駆け込んで来る足音が聞こえた。
「脇道に入られたかもしれん。二手に分かれるぞ」
その言葉の通り、足音が分裂する。片方は、ホールデンが辿って来た経路を正確になぞっているようだった。
ホールデンは走り、先が行き止まりになった所で唇を噛んだ。
──ここで対処するしかない。相手が姿を見せた瞬間、発砲するのだ。
手の中に収まる程のミニガン──五・五センチ──を片手で構え、そのサイズの割にやたらと大きな引き金に指を掛ける。来るか、それともまだか。
と、その時だった。
「──こっち」
二メートル程先で、何の前触れもなくビルの裏口が開いた。若い女の声と共に、その中から腕が伸ばされる。その手は、早く来い、と言うかのように指先を動かし、ホールデンを招いていた。
考える間もなく、ホールデンは扉の中へと飛び込んだ。同時にミニガンを持った手首を掴まれてぐいと強く引かれ、危うく微分弾を暴発させそうになる。
間違ったものに当たれば洒落にならない事になるので、ホールデンは辛うじて指先を動かして銃を弾き、ポケットの中へと滑り込ませた。その時には既に、こちらの腕を掴んだ手の主は扉を閉め、建物の奥へと駆け出している。
雑然とした事務所のような部屋を抜けて廊下に出、すぐに現れた階段を駆け上る。ホールデンは引っ張られながら、相手がやはり声の通り若い女である事を見て取った。かなり短く切り揃えられた、明るい茶色の髪。背は大柄なホールデンよりは低いものの、平均的な女性の身長からすればかなり高い方だ。Tシャツとジーパンというラフな服装だったが、こちらに背を向けている為顔は確認出来なかった。
階段を上がった先で、彼女は廊下に等間隔に並んだ扉の一つを開ける。そこはリビングのような部屋で、開け放たれた窓から風が吹き込み、カーテンが内側に向かって大きく膨らんでいた。女は身を屈めるようにし、不意に減速して窓際へと歩み寄る。
「あの……」開口しかけたホールデンは、
「しっ! 静かに!」
彼女の鋭い声色に、反射的に口を噤んだ。同じように姿勢を低くするようジェスチャーで合図され、しゃがみ込んで爪先だけの小走りを開始する。
女は窓の下の壁に背中を付けて座ると、窓枠に置いてあった手鏡を取り、頭上に掲げた。ホールデンは覗き込み、そこに映し出された窓の外に丁度先程の男の一人が駆け込んで来るのを見た。
「畜生、こっちじゃなかったのか?」
男は毒吐き、現れた時と同じく駆け足で元来た方向へ引き返して行く。
数秒の後、緊張が解けたように深々と息を吐き出したのは女の方だった。「もう大丈夫。いやあ、あなたも災難だったわね」
「あ……ありがとうございます、助けて頂いて。あなたは──」
「ここの住人。ビアンカ・マルディーニ」
尋ねる前から、彼女は名乗った。「あなたは?」
「ハ……ハリー・グラニッツ」
咄嗟に出たのは、ディーターからよく呼ばれる愛称と、彼のファミリーネームを合わせたものだった。スパイ任務の際はクラインフェルドによってプロフィールが与えられるので、自ら偽名を考えた事はない。
ビアンカと名乗った彼女は「宜しく」と言うと、改めて窓の外に視線を向けた。
ホールデンは、そこで初めて彼女の顔をよく見た。ややメイクの濃い顔。睫毛は長く、やや厚い唇にルージュを挿している。
自分よりも年下だろうか。いや、ひょっとするともっと行っているかもしれない。考えているうちに、ミアとは正反対のタイプだな、という感想がちらりと脳裏を過ぎった。




