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『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ③


 妻と娘と死別してからというもの、ホールデンには肉欲が起こらなくなっていた。

 無論、ディーターやチャールズらと打ち上げなどをし、話題が男のみの宴席ならではの猥談に発展したり、彼らに成人向けのコンテンツを見せられたりなどすれば、生理的な肉体の反射としてそういった変化が起こる事はあった。

 だがその一方で、自らが築いた家族を喪ってから、自分は女との交わりに恐れにも近しい忌避感を抱くようになっていたし、十年に渡ってそのような行為がない事で不自由を感じる事もなかった。故に、再婚しようという気も起こった事はない。それはS器官の切除後──サーペンタイン博士曰く、S器官の再形成は有り得ないらしい──も依然として自らの中にS遺伝子の塩基配列が残っており、またSディメンショナーの子を産む事になるかもしれないという恐れでも、何かの弾みでまた家族を喪う事になったらという怯えでもなかった。

「きっとお前は、もうアンナさん以外の女を愛する事は出来ない……んだろうな」

 ディーターに、自分は異常なのだろうか、と尋ねた事があった。それに対して彼は、四の五のを言わせず自分を歓楽街の性風俗店に連れて行った。

 やはりフラッシュバックを起こした──今よりもトラウマが深刻な頃だったので、店を出るや否や堪えきれなくなって嘔吐した──ホールデンに、ディーターは何度も謝った後、そう言った。その声には気の毒そうな響きと共に、そこには何処かほっとしたような色も含まれているように感じられた。

「知ったような口は利けねえけどさ、俺はそれが──罪悪感じゃないかと思う。そんな事をしたら、死んでしまった彼女に申し訳ないって思っているんじゃないか」

 ホールデンは、きっとそれが真実なのではないかと思っている。

 ミアに迫られて怒鳴ってしまった後、この事を思い出した。同時に、自分が彼女をどのように見ているのかと改めて考え、やはり彼女を亡き娘と重ねて見ているという事は否めない、と思った。

 フラッシュバックと同時に込み上げてきた怒りは、自分のトラウマを関知せず、壊れ物を乱暴に扱うかのような彼女の態度に苛立ったというよりも、娘が自分に対してそのような淫らな振舞いを見せたら、という事を無意識に考えてしまった故の不快感に由来するものだったように思う。それは、無垢なまま死んだサラを穢す事に等しかった。


 ミアからは、ハットゥシャと呼ばれていた頃の洗脳が消えていない。

 それは、チャールズも言っていた事だった。自らをレイプし、戦わせ、同じく不幸な子供たちを殺させたハサン・アル=アブドゥルに対する怒りや憎しみは、サーペンタイン機関で受けた”教育”によって感情を制御されて尚、消えるものではなかった。しかしそれとは別に、彼女の中で、自らは兵士として傍に居る男を守るものだという意識、そういった男に自らは体を差し出さねばならないという固定観念は、当然の事であるかのように染みついてしまって消す事が困難なのだ。

 あたかも、ホールデンらが現在の個人情報、遺伝子の管理社会を、大厄災時代以前の世界では異常なものだとされていた事が信じられないように。

 倫理道徳は、その者たちが生きている社会の規範によって変わる。法と倫理は異なるものであるかのように主張されながら、究極的な部分では根を同じくしているのだ。

(それでも俺は……)

 彼女の大きく開いたワンピースの背を見つめながら、ホールデンは考える。

 ──貴様たちネプチューンのした事は、単にこの娘のご主人様を、私から別の男にすげ替えただけだ!

 ──貴様らのした事も、この娘の体をいいように弄んだ事には変わりがない!

 ハサン・アル=アブドゥルの死に際の言葉が、脳裏で明滅した。

(それでも俺は、彼女には奴隷として生きて欲しくはない)

 そうこうしているうちに、荷物運びが済まされたようだった。駐在員たちが、一仕事を終えたというように肩関節を回したり腰を伸ばしたりしながら引き揚げて行き、最後にカイロスとスミスが

「何かありましたら、直接私どもにご連絡下さい」

 と言って出て行った。

 二人だけになると、ミアは早速気に入ったらしいパステルブルーの壁紙にレイアウトを変更した。端末を閉じ、「さて」と言いつつこちらを振り返ってくる。

「どうしますか? カイロスさんたちの仰っていた『余燼(エンバース)』と呼ばれる者たちの事も気掛かりですが、私たちが現在名前を知っている敵はジョニー・ランドールとデュラン・ヒューズだけです。後者には英国から提供された顔とID情報がありますので、ホルスをオンにして虱潰しに街中を歩いていれば──」

「非効率的すぎる」ホールデンは頭(かぶり)を振った。「百二十平方キロメートルだぞ。その上相手は移動するし、屋内にも入る」

「私もそう思います」

 ミアはあっさりと肯き、「CIAの人たちなら人海戦術が使えるのに」と零した。

 ホールデンは考えながら言う。

「ランドールが西洋人である事は確かだ。EU加盟国は百パーセントID登録制度を採用しているから、そちらでも該当データがなかったという事は、やはり奴は戸籍を改竄しているのだろう。ランドールという名前も偽名に違いない……ここでは当然、別の偽名や素性で通っているはずだ」

「顔が分かったのは大きいですが、指名手配も出来ませんね。ランドールが空間跳躍をする以上、国境警備はほぼ意味がありません。事によっては、少々乱暴な手段にはなりますが飛行機にただ乗りして逃亡する可能性もあります」

「だから、やはり先に押さえるべきは協力者のヒューズだろう。入国した時点で、ヒューズは指名手配されていなかった。正常化(ノーマライズ)手術を受けていないという事は、SDSの発現は後天的なもので、Sディメンショナーだという事は最近発覚したんだ。一応エシュロンが、SDSの事は掴んだ訳だからな。

 国際情報収集システムはランドールの手に落ちている。Sディメンショナーとしての彼の情報が、ランドールにスカウトされたという事が発覚する以前に英国から海外に共有されたとは考えにくい。デュラン・ヒューズという名前の『英国からの観光客』がイタリア国内に居てもおかしい事はないし、むしろ渡航に際して下手に偽の個人情報を使う方がリスクが大きい。本名で堂々と入国した方が安全だ」

「『英国からの観光客』のヒューズを探している、という線で捜索を行うのがベストという事ですね。けれど、では何故私たちが彼を探しているのか、という点についてはどうしましょうか? 彼のプロフィールについて、情報は」

「昨年度まで高校で世界史を教えていたらしいが、七十で年金受給が開始されてから退職したらしい。それから間もなくSディメンショナーである事が発覚し、あと僅かにでも早くバレていたら解雇されて退職金は貰えなかっただろう、と」

「七十? すみません、情報が上手く伝わっていませんでした。しかし、七十歳でSDSの発覚ですか……過去にない高齢ですね」

「世間でもう少し噂が広がっていれば、それこそ今回の渡航が海外逃亡だ何だって騒がれたんだろうな」

 ホールデンは、ひょっとすると彼にもかつての自分やアンナのような慢心──自分であれば良心の限界を迎えずに済ませられる、という──があったのではないか、と思う。しかし、ランドールの手に掛かってしまったのでは仕方がない。

「これ程の長期滞在になれば、こっちで現地の人たちと繋がりが出来ない方がおかしい。昔から沿岸地域のイタリア人は陽気な国民性だと言われているし、旅行客と仲良くなってその人の事について色々聞いたりする事もあっただろう。俺たちは……そうだな、俺が昔ヒューズに世話になった事のある生徒という事にしよう。卒業後、イタリアで仕事をして、現地で家庭を持って。今回、たまたま恩師がこっちで長期旅行をしている事が分かって、挨拶に行こうとしている──という設定で聞き込みをする」

「……なるほど」ミアが肯く。「となると、私はその奥さんですか?」

「奥──いや、娘という事にしようか」

 ホールデンは言いながら、可能な限りさりげなく口に出した「娘」という言葉が、やはり微かに胸奥を疼かせるような気がした。

 ミアは、こちらの声に含まれた一瞬の強張りを感じ取ったらしい。しかし彼女としては、ホールデンが自分との「夫婦」という設定を却下した事の方に意識を向けているらしく、微かに声を潜めて「やっぱり、あの事が」と独りごちた。

 彼女もやはり、ホールデンに抱かれようとし、拒絶された事についてまだ蟠(わだかま)るものがあるようだった。

 蒸し返すと気まずくなるような気がしたので気付かない振りをしたホールデンだったが、その時ふとミアが尋ねてきた。

「ところで、ホールデンさんって……お子さんはお持ちなのですか?」

 思わずはっとしたが、

「……娘が居たんだ」

 正直に伝えておく事にした。「二歳の時、米国特制軍に殺された」

「あっ──」ミアは、慌てたように口元を押さえる。「ごめんなさい」

「気にしないでくれ、知らなかった事なのだから。妻もその時に亡くしていて、今は独り身なんだ。……大丈夫、任務に私情を差し挟んだりはしないよ」

 言ってから、それもこの間ミアが自らを責めていた事を思い出せば皮肉めいた台詞に聞こえただろうか、と気掛かりになる。

 どうも彼女と言葉を交わすのには神経を使うな、と思った。

「……それでは、早速行きましょうか」

 気を取り直すようにミアが言った。

「十九日後の実行の事を鑑みて、ランドールと協力者たちは火山の近くに拠点を置いている可能性が高いでしょう。手分けして聞き込みしますか?」

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