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『パラス・アテナ』Ⅲ フニクリ・フニクラ②


「形状変化者(プロティアン)」ハサン・アル=アブドゥルとの戦闘で重傷を負ったホールデンは、また兵舎に戻れずサーペンタイン機関の医務室に泊まり込む日々が続いた。

 テラー殺害後、ランドールの再びの逃亡に対して米国側で情報の伝言ゲームが始まり、機動対応はすぐに限界が明らかになった。ランドールが米国から海外に移動する為には航空機を使わねばならない──空間跳躍は出来ない──という事は既知の事実だったので、情報を受けたFBI(連邦捜査局)はすぐに国内全域の国際空港周辺に検問を敷くように各地に指示を出したが、その時には既にランドールはメキシコとの国境まで南下していた。

 移動速度があまりにも速いのは、空間跳躍を繰り返して移動した為であるようだった。考えてみれば、それなら検問所をどれだけ設けても彼は空港自体には入れるという事になるが、当然自らの顔が割れた事を知っている彼は、FBIの捜査官が待ち構えているであろうそれらを利用しようとはしなかった。

 彼は国境付近から空間跳躍でメキシコへ不法入国し、まだネプチューンや米国からの情報が伝わっていないそこからイタリアへ飛んだらしい。元々彼は海外と米国をそのようなルートで行き来しており、偽造パスポートはあらかじめ用意されていたようだ。これらの足取りをネプチューンが把握したのは、後日になってからだった。

 そこでネプチューンは、空港で彼を確保するという事は取りやめた。第一に、イタリアへ渡った彼が以前と同じくナポリに直接降り立つとは限らないし、英国など他の国を経由したかもしれないのだ。

 いずれにせよ最終的に彼はナポリに入らねばならないのだから、という事で、クラインフェルドが用意しておいた「プランB」が予定通りに発動された。時間が掛かってもいいので、確実に彼がイタリアに入国した事を確認してから、改めてホールデンらが後を追い、現地で追い詰める、という。

 その為、ホールデンとミアには出発までに数日間の猶予が生じた。

 ホールデンはその間治療を受け、少しでも早く完全回復すべく医務室で安静にしていた。そのような中で、被験体としてのミアの実態を知った。

「まだ教育が足りないようだ、サブジェクト・ミア」

 処置用ベッドに横たわり、点滴を受けていると、途中でミアが顔を出した。彼女は自らの取り乱したせいでホールデンが傷を負った、と責任を感じているらしく、様子を見に来てくれたようだったが、その際サーペンタイン博士が「来い」と彼女を室外に連れ出した。

 数秒の後、何やら空気の抜けるような音が響き、次いで鈍い衝撃音と共に誰かが床に転倒したかの如きドサッという響きが耳を打った。

「変動接続剤〇・五ミリリットルを投与した。これで少なくとも一時間は、貴様のS器官は働かないだろう」

 聞こえてきたサーペンタイン博士の声は、ぞっとする程冷たかった。

「ミア。貴様の他にも、S器官の直接移植に適性を持った個体は存在する。HLA(Human Leukocyte Antigen:ヒト白血球抗原)の型が完全一致せずとも、S器官は拒絶反応を起こしにくい。我々に大切なのは貴様ではない、その量子化(クアンタマイズ)能力だ。貴様が正常な心を取り戻す見込みはない、ならば移植臓器を取り出す為に全身をばらばらに解体したところで、惜しむべきものなどないのだよ」

「ゴッドファーザー……」

「娼婦気質(かたぎ)の抜けぬ役立たずめ。米国から貴様のIDなど、とうに抹消されている事を少しは自覚しろ。兵器の分際で、一端(いっぱし)に感情など持ちやがって」

 ドスッ、という鈍い音と、呻くようなミアの声。蹴りを入れられたらしい。

 ホールデンは咄嗟に、点滴のIVスタンドを杖代わりに起き上がり、博士とミアの出て行った実験室の方へ向かって歩き出していた。

「博士! 博士、何をなさっているのですか!」

 扉を開けた時、ミアは歯を食い縛ったまま床に蹲り、博士が指示棒を振り上げて彼女の背を打擲しようとしているところだった。ホールデンは言葉を失い、すぐに我に返って「やめて下さい!」と叫んでいた。

 ノーマルの遺伝子を編集し、意図的にSディメンショナーを作り出す。ストロングホールド体制下の米国で、逆ならばまだしも、正気の沙汰とは思えない実験だ、とホールデンは内心で思ってはいた。PTSDの克服や肉体のメンテナンスを担当してくれる博士はとても親切なので、サーペンタイン機関で行われている超人計画を耳にした際は、ミアという実例を目の当たりにしていながらも「まさか」という思いが拭えなかった。

 しかし──今ぞっとするような人格否定の言葉を浴びせかけながらミアを打ち据えようとしている博士の目は、思い通りにならない自らの発明品に苛立つマッドサイエンティストのそれとしか見えなかった。

「ハング大尉、困りますな。特制兵だからといって、自身の再生能力を過信されては」

「ホールデンさん……いけません。これは、私の受けるべき懲罰です」

 ミアが微かに顔を擡(もた)げた。途端に博士は指示棒を突き出し、彼女の後頭部を殴りつける。彼女はリノリウムの床に顔面を叩きつけ、口の中を噛んだのか血を吐いた。

「やめないか!」

「お止め下さるな、ハング大尉。こやつら超人兵の為でもあるのです、SDSを有した人間は良心の限界を迎えるのが必定、しかしこやつらはそうなった時、細胞乖離を引き起こして死んでしまう」

「そのように定めたのはあなただ、サーペンタイン博士。そのようなリスクを負わせねば我々の役に立たせられないというのなら、何故彼女をSディメンショナーなどにしたのです?」

「ではお教え頂きたい、ハング大尉」

 サーペンタイン博士は、棒の先端でミアの頰骨を突き、横を向かせながらホールデンを睨(ね)め上げてきた。

「『大教祖(オーバーロード)』ジョニー・ランドールに『一人大隊(ソロ・バタリオン)』アドリアン・ゲオルゲ、ここ最近でSディメンショナーの能力の強さはインフレーションを起こしている。連中に対し、大尉は従来の特制軍のみで対抗する事に限界は感じられませぬか?」

「しかし!」

「超人兵の投入がやむを得ない処置だと、仮(・)定(・)して頂きたい。その時彼らが良心の限界を迎えるリスクに対して、転化も軽減も行わぬまま、今回のあなたのように組(バディ)を組んでノーマルと共に戦わざるを得なくなったら? ”その時”が訪れるのを恐れ、彼らが百パーセントのパフォーマンスを発揮出来なかったりすれば、あなた方はそれを『足手まといだ』と感じられるのではありませんかな?」

 博士の言葉に、ミアが顔を伏せるようにした。低く絞り出すような声で、彼女は再び「いいんです、大尉」と言った。

「感情の制御が出来ない私にこそ、問題がありました」

「ミア、俺はそんな……」

 ──感情の制御など、しなくてもいいのに。

 ホールデンはそれを口に出す事が、何故か出来なかった。

 サーペンタイン博士は「話は終わりだ」というように空いている手を振り、こちらに医務室に戻るよう促してきた。

「薬が上手く回らなくなります。安静にしていて下さい」

 結局それから、ホールデンは点滴パックが空になるまでの間、扉越しにミアが脅迫に近い台詞を浴びせられながら折檻を受ける音を聞き続ける事を強いられた。


「……ホールデンさん」

 その夜、やはり医務室のベッドに仰向けになっていると、ミアの声と共に、扉が控えめにノックされた。「もう、お休みになりましたか?」

「………? どうかしたのか?」

 その応答で彼女は「入っても良い」と判断したらしく、静かに扉を開けた。同じく研究所に泊まり込んでいるサーペンタイン博士や他の超人兵の少年少女たちに配慮してのようだが、後者に関しては彼らがいつも何処に居るのか、ホールデンにも分からない。

 入って来たミアは、普段はハーフアップに結い上げられている髪を解(ほど)き、無造作に背中に流していた。身に着けているものも、訓練用の黒いスポーツブラと股下の短い同色のペチコートのみで相当な薄着だ。消灯している為か、それまで殊更(ことさら)に意識しなかった彼女の肌の白さが映えるようだった。

 その時ホールデンには、一瞬彼女の姿が亡き妻と重なって見えた。若くして命を落とした妻アンナの享年は二十二歳で、当時のホールデンと同い歳だった。考えてみれば現在のミアは、彼女と三つしか歳が違わないのだ。

 思わずぼーっと彼女を見つめてから、不意に妙な心地悪さを感じて視線を逸らした。

 アンナがサラを出産したのは丁度二十歳(はたち)の時で、かつての同級生たちはまだ多くが大学に通っていた。ホールデンは高校を卒業すると同時に民間用のソフトウェア会社で働き始め、彼女とはサラ出産の前年に籍を入れていた。当然ながら、現在のミアと同じ歳だった頃にはホールデンは女性の体を知っていた。

 というよりも、出会ってから自分たちは何かに追われるようにセックスを繰り返した。自分たちが共に後天的なSディメンショナーであり、共に世間体を恐れて──良心の限界という概念は知っていたが、ノーマルに対して自分たちがそれを引き起こすとは思わず、むしろ自分たちだけは大丈夫だという思いがあった──その事を隠し、家族に自己申告をして正常化(ノーマライズ)手術を受けようとも考えなかったが、もしも子供が出来たらなどといったリスクは顧(かえり)みていなかった。これもまた、「世間一般がどうであれ自分たちは大丈夫だ」という根拠のない自信に基づくものだったのだろう。皆がさも当然のように、軽薄に学生時代に行っている事から取り残され、舐められたくないという気持ちの方がその時の自分たちにとっては重要なものだったのだろうと思う。

 十九歳の、まだ少女の未発達さを残す体に、だからホールデンが特別なものを感じる理由などないはずだった。その上自分は、ミアが既に処女ではない──ハサン・アル=アブドゥルへの言葉通りであれば十二歳の時にはとうに──事を知っている。

 それでもホールデンは、

「その……ごめんなさい、ホールデンさん。先の戦いの事も、今日の事も……」

 そのような格好で寝室に入って来たミアの意図がいやという程理解出来た時、何故か心にもやもやとした感情が湧き上がるのを感じてしまっていた。

 肉欲ではなかった。

「気にしないでくれ」無意識に憮然とした声が出た。

「しかし、ホールデンさんがこれ程傷を負われた責めは……私が負うべきです」

 ミアは言いながら、ベッドの縁(へり)に腰を下ろした。

「感情を捨てろだなんて、博士は間違っている」

「けれどそれに囚われさえしなければ、戦闘時に於けるリスクがないと判明した時点で、私はSDSを使って可及的速やかにアブドゥルを葬っていれば良かった。彼に情はありません、あるのは復讐心だけでした。しかしその復讐心が──可能な限り彼を苦しめて殺したいという思いが、あなたを危険に晒したのです」

「………」

 ミアは「ねえ」と耳朶をくすぐるような声で言いながら、徐(おもむ)ろに身を倒し、ホールデンの横に臥した。

 腹筋に触れられた。体温が間近に感じられた。インナーがずれ、大きく覗いたやや小さな胸の谷間に、汗の雫が一筋吸い込まれていくのが見えた。

「私にはこのような事しか出来ませんが、どうか埋め合わせをさせて下さい」

 彼女の手がアブクラックスをなぞり、毛布の中で下腹部の方へ下りた。

 もう少しで内股に触れられる、という時、例のフラッシュバックが起こった。不完全な量子化を行う娘に、襲い掛かる無数の弾丸──引き裂かれた肉──砕け散ったガラスの中で、血塗れで投げ出された妻の腕──。

 脈拍が乱れたが、その興奮によってホールデンの下半身が変化する事はなかった。

「やめろっ!」

 脅しつけるような声音で、ホールデンは低く叫んでいた。ミアははっと我に返ったように手を引っ込め、起き上がりざまに跳び退(の)いた。

 毛布ごと引き摺り下ろすかのように床に尻餅を搗いた彼女は、ぺたんと座り込んだままこちらを見上げてきた。その顔に浮かんだ表情は──年上の大きな男に怒鳴りつけられた事への怯えだった。

 ホールデンはまだ興奮が冷めず、荒い息を吐(つ)きながら彼女を睨んだ。自分でもどうしたのかと思う程の怒りが、正常な呼吸を奪っていた。

「ホールデン……さん?」

「それじゃあ君は未だに、アブドゥルの慰み物だった頃と何も変わっていないんだな。猥りがわしい──二度と俺に対して、そういう事をするな」

 言うと、彼女は

「……ごめんなさい」

 泣き出しそうに声を震わせてそう口に出し、顔を俯けた。

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