『パラス・アテナ』Ⅱ カズイ・スチカ⑥
「大尉っ!」
ミアが量子化し、ホールデンの前方に高速移動した。真っ直ぐに突撃して来る男に向かって銃口を突きつけ、引き金を引く。
攻撃を仕掛ける瞬間まで量子状態を継続しなかったのは、やはり次元屈折を恐れている為のようだった。屈折により時空を乱す能力──それは、本来彼女が移動しようとした別次元の座標を消滅させてしまう、という事でもある。その瞬間に実体化などすれば、彼女は恐らく「能力の発動に手間取り、隙が生まれる」などでは済まないのではないだろうか。自分に科学的な知識はないので正確には言えないが、ややもするとそれは、罷り間違えば彼女は亜空間に突入してしまい、消滅するという事ではないか。
彼女はアムリタを服用してはいないが、仮に薬物の摂取により感情を制御されていたとしても、この”恐れ”は本能として、肉体を脊髄反射的に動かすのではないか。一秒にも満たない時間の中で、彼女がランドールのすぐ近くでの量子化を避ける、という反射を理性によって矯正する事は不可能なのではないか──。
とはいえ、今の攻撃の場合、ランドールにもSDSを発動する暇はなかった。加速度を殺しきる事が出来ず、怪人は音速で射出された弾丸の先端を目掛け、弾道を反対側からなぞるように自ら真っ直ぐに突っ込んで来る。
頭が砕かれる。ホールデンはそう思ったが、決してそれで戦いが終わる、などと楽観視はしていなかった。
ミアのSDS発動に自らの次元屈折を重ねる事は出来なかったが、弾丸が命中するまではコンマ数秒の時差がある。その間に、自分の周囲の空間を曲げて弾道を逸らす、程度の回避行動なら行えるかもしれない。ならば……
「ミア、避けろ!」
ミアの発砲とほぼ同時に、ホールデンはこれら一連の思考を完結させてデザートイーグルを撃っていた。
ランドールがミアの弾丸を避けたとしても、間髪を入れずに二発目──次はFC弾だ──が来る訳だ。命中すれば、更に次の攻撃をSDSで防ぐ事は出来ない。
ミアはホールデンの行動に、そうでなくては、というように大きく肯いた。肯きながら、もう量子化による移動を開始している。機動隊員たちは、何が起こっているのか分からないような顔で右往左往していた。
彼らを自分たちの速度──ホールデンのは厳密には「情報処理速度」だが──に着いて来させるのは無理があると判断したらしく、ミアは移動後、自ら止めの一撃となる次弾を放とうと腕を振り上げた。
と、同時に、ランドールが意思を示した。
次元屈折による弾道の変更──ではなかった。
特徴のない平々凡々とした顔に、不意に無数の泡の如き粒子が湧き上がった。ホログラム映像を形成するポリゴンブロックが現れたかのような、或いは皮膚の内側から悪性の吹き出物が表出したような。
ホールデンがぎょっとする間もなく、また一瞬でそれらが弾け飛んだ。
下から現れた顔は、既に「大教祖」の──否、人間のものではなくなっていた。犀、というよりも角竜に近い、甲殻に覆われた獣とも爬虫類ともつかない質感。ミアの放った一発目、.277 FURY弾はその眉間に当たると、角岩を叩いたかの如く火花を散らし、弾かれたのか何処へともなく消えた。
「えっ……」
ミアの声が、微かに鼓膜を揺らす。その時にはランドールの──否、先程までランドールの顔をしていた恐竜人間の注意はFC弾に移っている。
一発目の弾丸の後を追尾するように迫ったFC弾を、怪人は垂直方向への跳躍によって回避した。彼の居た場所を断空した弾は、デザートイーグルから射出された威力をそのままに奥の高機動車を貫き、爆散させる。
爆風により吹き飛ぶ機動隊員たちから視線を引き剝がし、ホールデンは持ち前の動体視力で跳躍の瞬間に裾が捲れ上がったズボンから覗いた男の脚を見た。
先程、人間の脚には見えない、と思った直感は、正確だったらしい。そこに見えたのは、異様に細く外側に反った、どう考えても馬の脚としか取れない代物だったのだ。
その馬の脚で、着地と同時に放たれた蹴りがまた一人の隊員に炸裂した。その隊員は脇腹の辺りをL字に折られ、恐らく内臓が陥没か破裂したのだろう、噴水の如く口から血を噴き出して倒れた。
馬の脚とトリケラトプスの顔を持つ怪人は、バランスを取るかのように数歩その場で足踏みをし、やがて顔の下半分を人間のものに戻してニヤリと嗤った。
「ジョニー・ランドール……」
「……では、ありませんね。恐らく」
ミアが、動揺を押し殺すかのように数回咳払いをし、言った。「形状変化者です」
「ご名答」
怪人はそこで、初めて言葉を発した。それは口の動かし方から、自動翻訳デバイスで自分には英語だと認識されている他の言語である事が推測された。
形状変化能力。それは、皮膚や筋肉などの細胞の配列を変更し、同時にその細胞レベルで化学反応を起こす事によって外見・組成を変えるSDSだった。皮膚組織から繊維を合成して分離させる事で、服装の変化もある程度可能らしい。
──ランドールによって動員された「教祖」。
ホールデンはそう結論を出した。それはつまり、彼がこちらの作戦を知った上で囮を送り込んできたという事に他ならない。
「顔認証とID検索……は、無理か」
恐らく外国籍。密入国者か、ランドールがKKKと共に動かそうとしたという他のSディメンショナー団体の後援者か。
そう思った時、謎の形状変化者がミアの方を向いた。
彼女を見て──その人間の口元に湛えた笑みを、大きなものに変えた。
「おお、誰かと思えば……我が愛しのハットゥシャではないか」
「ハットゥシャ?」
何を言っているのだろう、と思いながら、ホールデンは彼女へと視線を向ける。
その瞬間、ミアの顔に湛えられた今までにない表情──驚愕と、現実を認めまいとするかのような否定の仕草──首を小刻みに振る──を見、思わずたじろいでしまった。唖然と開かれた口から、笛のような短い呼吸音が零れている。
「ミア、どうしたんだ? その男は──」
言いかけたホールデンは、次の瞬間眦が裂けそうな程に目を見開いた。
午前中、情報部のオフィスで閲覧した資料に書かれていた内容が脳裏に蘇る。
「何だ、ハットゥシャ? よもや私の事を、忘れてしまったのではあるまいな? かつてウサマ・ビン・ラディンを殺した異教徒の末裔どもに頭を弄られて、私が手取り足取り教えてやった聖典の教えをも忘却したか?」
言うや、男は再び顔を嚢胞状のもので覆い、変化させた。微かに背も縮んだように見えるのは、外側からでは見えないズボンの内側で馬の脚も人間のそれに戻った為だろう。
現れたのは、中東系の顔立ちをした中年の男だった。それを見た途端、ミアの表情が増々歪められる。
「検索、シリアで活動するテログループのうち、五年前にネプチューン軍の介入を受けた組織をピックアップ」
ホールデンは、HMEにインストールされているオープンソースの検索エンジンに呼び掛けた。大厄災時代の終結後も米国は絶えず中東情勢に介入し続けているが、ネプチューン軍による国際紛争への介入は年にそう何度もある事ではない。
該当する組織は、すぐに発見された。後進国や紛争地域では公的機関でのID管理が未だに行われていない場合も多いので、こういった検索方法で個人を特定するのが手っ取り早い事もある。更に、その中で当時から組織に所属する者として名前や顔がデータベースに登録されている人物を取り上げ、照合を行う。
すぐに、その名前が分かった。
「ハサン・アル=アブドゥル……」
「あなたの信仰は上っ面だけのものです、アブドゥル!」
ミアは、自らを鼓舞するように声を張り上げた。彼女は紛れもなく英語で叫んでいたが、相手の形状変化者はそれをしっかりと聴き取っている。ネプチューン軍の軍用デバイスがそう簡単に手に入るはずもないし、それを脳に埋め込む外科手術も相当に腕の立つ専門医が必要となるものだ。この男は、普通に英語が理解出来るらしい。
「あなたはコーランを曲解し、多くの人々を殺しました! 十二歳だった私を犯し、その後二年間も同じように戦わせ、罪のない子供たちを殺させ……異教徒、ですか? アブドゥル、あなたが手を結んだジョニー・ランドールも、恐らくそうですよ!」
「彼は御使いさ」
ハサン・アル=アブドゥルは、ミアを嘲弄するように鼻を鳴らした。
「たまたま、今はあのような敵国人の姿を取っているだけだ。思い出せ、ハットゥシャ。お前を可愛がってやっていた頃の私は、この奇跡を行う能力は持っていなかった。あの男が私に与えてくれたのだよ、この力を!」
「SDSを?」
ホールデンはそれを聴き、はっとした。
カイエンとリーに拷問されたテラーが零した、ランドールの持っているという「教祖」を操る力。ノーマルにSDSを与える──即ち、S器官を形成する──という事も、その正体不明の”力”に関連するものなのだろうか。
(……いや、待て)
──今は。
──今はそのような事を考えている場合ではない。
ホールデンは思考を中断し、嫌らしい口調でミアに語り掛ける男を睨んだ。
(そんな事よりも、今は優先させなければならない事がある)




