最終章 名残の華〜1624年某日・中編〜
お店の奥から勢い良く飛び出してきたのは、彼女だった。一日だって、忘れたことがなかった。彼女は心底驚いた様子で、声も出ないようだった。それは桜音も同じである。まさか、いつものように団子を買いに来たら、異国に逃れたはずの水がここにいるなど、思いもしなかった。もう二度と、会うことはないと思っていたのに。
「……水、さま」
「桜音殿」
言葉が見つからない。最後に会ったのは、9年前の大坂城での合戦の最後の日。葉名に殺されそうになったところを、水が危機一髪で助けてくれた。一方的な別れの挨拶をされたまま、水は桜音に背を向け、焼け崩れた大坂城へ走って行った。何度も名前を呼び続けたのに、水は振り向いてくれなかったし、立ち止まることもしてくれなかった。
「前から思ってたけどさ、なんなのさ、あんたらの呼び合い方」
後ろから現れたのは葉名だった。いつものように売り子姿でいるが、どこか雰囲気が砕けているように見える。そうか、葉名と水は敵同士だったとはいえ、忍びの修行は一緒にしていたのだと自覚した。二人で昔話でもしていたのだろうか。悶々と考えてしまうが、葉名の登場に水はなんでもないように答える。
「当然だろう、目上の方なんだぞ」
「いや、なんであんたが様呼びされてるわけ?」
「あ、いや、これは」
桜音が弁解しようとすると、水がニヤッと笑って葉名に言った。
「私のあだ名だよ。大坂城の皆は私のことを様付けで呼んでいてな、それが定着してたんだ。凄いだろ」
子供のように、得意気に水が葉名に言った。悪戯っ子のような笑顔に懐かしさを覚えた。それと同時に、敬語ではなく、楽しげに話す水を見ると、少し寂しく感じた。以前よりも雰囲気が丸くなったように思う。それにしては、葉名には戸惑った様子はない。やはり、これが本来の水の姿なのだろうか。
「……ゆっくりして行くかい?」
桜音に優しく声を掛けたのは葉名だった。でも、顔は笑っていない。葉名は他の客へは笑顔を向けるが、桜音に対しては、いつまで経っても笑ってくれない。
自分たち双子の運命のせいだとしても、桜音は葉名に対する申し訳ない気持ちが募った。葉名はどちらかというと、自分と会うのは嫌なのだろう。少し違えば、二人の立場は逆だったかもしれない。そう思うと怖くもある。それでも、どちらにせよ水に出会うことはできたのだとすると、この世界の狭さに驚かされる。こうして何度も葉名がいる団子屋に来るのは、どこか葉名に対する罪滅ぼしでもあった。
「水と話さなくていいの?」
葉名が言う。きっと、精一杯気を遣ってくれているのだ。
「桜音殿、時間があれば休憩しませんか」
「……はい」
葉名がお茶を用意しに一度店の奥へ戻る。桜音の視界に、食べかけの団子が入った。水の食の好みは変わっていないのだと思うと、嬉しくなった。水は、桜音が長椅子に腰を下ろすのを見届けてから隣へ腰掛けた。こういうところに惹かれていたのだ。今も昔も変わりなく。
「お元気でしたか」
水が、高すぎず、低すぎない心地の良い声で桜音に言った。9年前より、ずっと柔らかい声色。戦国の世に身を置かないだけで、こんなにも変わるものなのだろうか。それとも、時間の問題なのか、今住んでいる国の影響なのだろうか。
桜音は水の微笑んだ顔を見る。自分を見つめる明るい茶色の瞳は、昔と変わらずとても優しかった。
「はい、おかげさまで」
「……今も……千姫さまのところに?」
「ええ……、お世話させていただいております」
「そうでしたか。それは良かったです」
水は笑顔を向けてくれる。
それでも、まだ二人の空気はぎこちなかった。あのような別れ方をして、何から話せば良いのか分からなかった。先に話題を振ったのは水だった。
「お千代殿はお元気ですか」
水のその言葉が救いのように思えた。桜音は大きく頷いた。お千代は、大坂の陣のあと、水に対しての態度を悔いていた。
「はい。あの、お千代ちゃん、水さまのことを気にしていました」
「いえ、合戦の最中でしたから。皆、自分のことでいっぱいだったんでしょうし」
水は桜音を安心させるように笑う。そこへ葉名が茶を運んできた。
「お待ちどうさまぁ」
「ありがとうございます、葉名」
「……いいえぇ」
葉名がぶっきらぼうに応える。だが、どこからか親しみを感じるし、照れ臭さが滲んでいる。ここに辿り着くまで、本当に長い道のりだった。全く違った生き方をしてきたのに、こうして巡り会えた妹を可愛いらしいと思うのは本当だった。そんな葉名の態度に水が口を出した。
「もっと態度を改めたらどうだ。桜音殿に対して失礼だぞ」
「なんだって?あんたこそ、私に対して少しは敬意を払ったらどうさ」
「今日の私は客なんだけど」
二人の姿が、桜音にはまるで姉妹のように見えた。葉名の姉妹は紛れもなく自分だし、それは周りから見ても一目瞭然だろうに。
「全く……調子が良いこと言うんだから」
葉名がブツブツ文句を言いながら店頭に戻って行った。お盆を持ったままなのに良いのかな、と思ったが、水はどこか楽しそうに葉名の背中を見ていた。水が葉名に視線だけをやって「お盆持ったままですね」と笑って桜音に言った。桜音も釣られて笑ってしまった。
桜音が湯呑みに手を伸ばせば、水も茶を啜り、残りの団子の串に手をつけた。
葉名はずっと、桜音に対して壁を作っている。この先もずっと、葉名と和解することはできないのだろう。それはそれで、受け入れてはいるのだ。
下を向いた桜音に、水が声を掛けた。
「桜音殿、時間があるのなら、少し祭りを見ませんか」
「え?」
「いいでしょう?金平糖買いに行きましょう」
水の申し出に、桜音は素直に「はい」と答えた。
包んでもらった団子と手持ちの荷物は、葉名の店に預けさせてもらった。水が押し付けるように葉名に伝えると、葉名は文句を言いながら承諾した。水は「行きましょう」と左手を桜音に差し出した。その手首には火傷の痕があった。
祭り期間の城下町は本当に賑わっている。神輿が出ている道へ行けば、手を繋いでいないと逸れてしまいそうだった。二人で神輿を眺めながらなんとか切り抜け、人が少ないところへ足を向かわせる。桜音の右側を歩く水は、ずっと笑顔だった。以前、一緒に祭りに行ったときとは違い、今日は心から楽しんでいるようで、桜音も嬉しくなった。
水が金平糖を買い、それを桜音に渡した。瓶に詰められた金平糖は、以前の頃と同様、今でも高級菓子だ。お千代にこれを見られたら怒られるなと思いながら、今の瞬間を噛み締めた。お千代には、団子で我慢してもらおう。
水は今、どんな生活をしているのだろう。イスパニアへ逃れることができたというのは千姫から教えてもらった。葉名が城下町の団子屋に勤めていると聞き、会いに行ってそのことを伝えたのは桜音である。水と葉名の関係がどんなものだったのかは分からないが、水が葉名を慕っていたのは間違いない。だから、どうしても伝えておきたかったのだ。
水のことだ。容姿端麗で頭の回転も早い。身のこなしも忍び上がりなのだから、どこでもやっていける。もしかしたら、好い人もいるのかもしれない。そして、もう会うこともないのかもしれない。いいや、今日のような機会があれば、望みもあるのだろうか。けれど、一つだけ水に伝えておきたいことがあった。
一通り祭りの出店を見たあと、自然と二人の足は団子屋へと向く。二人の歩く速さが、ゆっくりになったように桜音には感じた。そう思いたかっただけかも知れない。まだ昼間で空は晴れ晴れとしてるのに、胸が苦しくなった。
「水さま」
桜音は水に声を掛ける。もう二度と会うことはないと思っていた想い人へ、伝えたいことがあった。伝えないと、一生後悔するような気がした。水も緊張を感じ取ったのか、水は軽く微笑みながら、少し首を傾げて桜音を見た。
これを伝えなければ、もう、前に進むことはできない。
「私、嫁入りが決まったんです」
そう言えば、水は立ち止まった。水は驚いているのか、表情を変えず、瞬きも忘れてしまったようだった。今でも、水は自分と同じ気持ちなのだろうか。
「千姫さまが取り計らいをされて……本多家家臣の方へ、嫁ぐことになりました」
水はやっと意味を理解したのか、何回か瞬きをしたあと桜音から視線を外した。水は一呼吸してから応えた。
「そう、でしたか」
「……」
そうして、二人でまた歩き出した。空気が重いまま、沈黙が続く。このままだと、何も会話がないままに団子屋に着いてしまう。
「実は、……今後日本に来ることはなさそうなんです」
「え……」
水が言った言葉に、今度は桜音が理解できないでいた。どういうことなのだろうか。
「私は今……通訳として働いているんですが……日本とイスパニアの交流が難しくなるかもしれなくて」
「……水さまは、これまで何度か日本に来ていたのですか?」
「江戸と博多に訪れました。今日も、このあと江戸へ行ってから、イスパニアへ戻る予定です」
「……そうなんですね」
水の言葉が、胸の奥に重くのし掛かった。自分の唇が震え、呼吸が浅くなるのが分かる。
桜音は顔を上げられないまま、言葉を失った。水は、すでに新しい道を見出しているのだと理解したーー。




