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最終章 名残の華〜1624年某日・後編〜

 水は、日本ではなく、異国を選んだのだーー。


 きっと、もう会うことはない。あと少しで、団子屋に着いてしまう。桜音と水の間に重い空気が流れ続けた。

 

 結局、団子屋に着くまでの会話は途切れたままだった。店に戻ると、葉名が出迎えてくれた。その葉名に、水が言う。


「もう暇するよ。団子何本か包んでくれ、持って帰りたい」

「はいはい」


 葉名は呆れたように水に答えると、準備を始めた。水は帰り支度を始め、荷物を持ち、改めて笠を被った。桜音は葵から団子を包んでもらった風呂敷を受け取った。


 水が店頭で勘定を済ませる間、桜音はなんとなく、それが終わるまで後ろに下がって待っていた。忍びの頃は財布を開けるところなど見たことなかったのに、また新しい水を見た気がして、さらに気持ちが沈んだ。葉名は二人のぎこちない雰囲気に気付いたのか、桜音と水を何回か目線で捕えたあと「ふう」と息を吐いた。


「葉名」


 別れ際、水が葉名に声を掛けた。そして、荷物の中から短刀を取り出した。日本では見ない、異国式のものだった。そしてそれを葉名へ差し出す。


「え、何?」

「餞別」


 言われた葉名は、驚きで目を大きくした。目をパチパチさせているが、目玉が転がり落ちてしまいそうだ。


「……餞別って」

「もう日本に来ることはないと思うから。これ高いんだ、壊すなよ」


 水は笑って言う。葉名は両手でそれを受け取った。


 水の声には迷いがなかった。水は覚悟を決めて日本にやって来たのだ。桜音にではなく、葉名に会うために。


「あの時、助けてくれてありがとう」


 水が言えば、葉名は浅く頷き、ほんの少しだけ微笑んだ。


「……まだそれ言うの?」

「だってあの時は、狸寝入りされてたから」


 水は、葉名を忘れられないのだ。


「じゃあ……元気で」

「……水も。……気を付けて帰んなよ」

「ははっ……うん」


 葉名の答えに、水は嬉しそうに笑って返した。水は葉名に背を向けると桜音の元へやってきた。


「城まで送ります」

「……はい」


 これが最後なのだ。桜音は流れそうな涙を堪え、声を絞り出した。


 水は、桜音の歩幅に合わせて歩いてくれた。だが、言葉はなかった。桜音も、水に何を話せばいいのか分からなかった。葉名とは、これからも会うことはできるだろう。本多家家臣の元へ嫁いだとしても、こうして甘味を買いに行けば良い。だが、水には二度と会うことはできない。言葉の代わりに、時折桜の花びらが二人の間を舞った。


 桜音は涙を溜めながら歩いた。千姫が縁談を進めたのは、桜音の幸せを願ってのことなのは分かっていた。千姫は桜音と水の関係を知っていて、応援もしてくれていた理解者である。そんな主人がこのような縁談を進めたのは、この国の動向を知っていたからなのだろうか。


 右を見れば水と目があった。驚いてしまい、桜音はすぐに目を逸らしてしまった。そんな桜音の様子を見て、水も前を向いたようだった。舞い落ちる花びらの量が増えてきたようだ。


「……今日、桜音殿に会えるとは思っていませんでした」

「……」

「私は……桜音殿が幸せなら、他には何も望みません」


 返事ができない。声を出せば、泣いてしまう。城に着いてしまう。すでに姫路城の周りの桜の木々が、二人を包み込んでいた。門の石垣のそばで、水がついに足を止めた。


 今、水の目を見て言葉を発したら、きっとここから動くことはできない。二人は向き合うが、桜音は水の顔を見ることができなかった。


「桜音殿」


 名を呼ばれても、見上げることができない。水が、懐から明るい灰色の手拭いを取り出すと、桜音に差し出した。おそらく水の私物なのだろう。瞬きをすれば、ついに涙が溢れた。何かが途切れたように、涙が次々と流れ落ちる。


「桜音殿、拭いてください」


 受け取ることができないでいた。水は見かねたのか、自らその手拭いで桜音の涙を拭いた。その間に桜音は嗚咽を漏らした。周りに人もいただろう。門番にも見られたかもしれない。それでも、水は丁寧に桜音の涙を拭った。一通り涙が落ち着くと、水はその手拭いを桜音の手に持たせた。


「これはイスパニアの手拭いです。あちらの言葉では‘パニュエロ’と言います」

「……」

「……あなたが持っていてください」


 水は、桜音から手を離した。桜音は、やっと水の顔を見ることができた。見上げれば、水は今にも泣きそうな顔をしていた。


「桜音殿、どうかお幸せに」

「……水さま」

「はい」

「水さまも……どうか、幸せになってください」


 桜音は勇気を出して言葉を紡いだ。涙が止まらなかった。自分はこれまで、水の幸せを願うことができていただろうか。自分の事ばかりで、水の幸せを考えることができていたのだろうか。水は、桜音の言葉を聞き、涙を堪えたまま笑顔を向けた。


「私は、桜音殿に出会えて幸せでしたよ」

「それは、私もです」


 桜音の目から、また涙がこぼれ落ちる。水は左手で笠を深く被り直した。もう表情は見ることができなかった。ただ、その美しい輪郭を、雫が伝って落ちたのが微かに見えた。


「では」


 水は桜音に背を向けてゆっくりと歩き出した。桜音はその背中を見送った。水が振り返ることは一度もなかった。今日、その姿を包むのは炎ではなく花たちだ。桜並木を行くその後ろ姿は、まるで絵のように美しかった。


 手拭い、もといパニュエロには、白い糸で異国の船の刺繍がされていた。彼女はこんな船に乗って旅立つのだろう。嫁入りを控えるその侍女は、しばらくパニュエロを握りしめたまま、桜並木を眺めていた。風に吹かれる桜の花びらと、枝に残る花々が彼女たちの新しい道を祝福しているようだった。戦国の末期に置き去りされた彼女たちの物語は、どこの歴史書にも残らないまま散っていった。





〜終わりに〜

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。初めて書き上げた長編で、また初めて公開したオリジナル小説を読んでいただく方がいて、とても嬉しいです。

明日から、サイドストーリーや短編を投稿する予定です。

そちらでは、登場人物たちの生活を、本編よりも詳細に、ほのぼの系やラブコメディな日常を送りします。

もう少しの間、『名残の華』の皆をよろしくお願い申し上げます。



〈参考文献〉

・北川央著『大坂城をめぐる人々 その事跡と生涯』創元社 2023年

・小和田哲男、山田雄司著『超リアル戦国武士と忍者の戦い図鑑』株式会社G.B. 2020年

・小和田哲男著『戦国の合戦と戦い方の絵辞典』成美堂出版 2025年

・山崎白露著『現代語訳おあむ物語・おきく物語:戦国女子の落城記』史学社文庫 2018年

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