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大坂夏の陣〜1615年6月4日〜

 豊臣軍と徳川軍の衝突は激しさを極めていた。12日目に突入するこの間、各所の勝敗の知らせが茶々と秀頼の元に寄せられた。


樫井かしいでの合戦……塙団右衛門はなわだんえもん殿が討死されました……」

小松山こまつやまにて、後藤又兵衛ごとうまたべえ殿、討死……徳川の勝利でございます」

「豊臣軍の兵力が、著しく低下しております……いかがなされますか」


 茶々の護衛として、大坂城本丸に控える水の耳に、ほぼ全ての知らせが聞こえた。堀を埋められた大坂城はもやは丸裸にされたも同然。徳川軍が攻めてくるなど、もはや時間の問題ではないか。


 かといって、淀殿と呼ばれる茶々と、その息子・秀頼が降伏するはずもない。どんな知らせが届こうとも、兵を引くような指示は一切出なかった。降伏したところで、豊臣家に待ち受けるのは死である。だから、豊臣家に尽くした自分も運命は共になるだろう。


『……死んだら、許しません』


 ふと、桜音の言葉が蘇った。桜音が泣いていたのは見ていて辛かった。


 分かっている。自分が桜音を想っているように、桜音も自分を想ってくれている。


 だからこそ、果たせない約束はしたくなかった。ただ一つ、水には懸念があったーー葉名の存在だ。


 桜音が侍女の中でどんなに長刀が得意だろうと、稽古をたくさんしたとしても、忍びの教育を受けている葉名には歯が立たないことなど明らかだ。桜音と葉名が出会わないことを、水は強く願った。



 気のせいではなく、煙の匂いがした。間違いなくこの大坂城はすでに燃え始めている。このような状態で、豊臣軍の誰かが寝返ったとしても無理はない。部屋にもついに煙を感じられるようになってしまったのか、部屋から、侍女たちの小さな悲鳴が聞こえた。


 水は隣に控える他の護衛と視線を合わせる。いよいよ煙の匂いが近くなってきた。「少し先を確認してくる」とその護衛が言う。水は頷いたが、確認に行ったところで返り討ちに合うのではないかと心配になった。


 水の背後の襖に気配がした。


「水、聞こえているか」


 秀頼の声だった。直接、秀頼からの命令を聞いたことはこれまでない。だが、茶々の護衛をすれば自ずと顔を合わせるし、千姫の夫ということで、水にとっても親しみを覚えているのは確かだった。


「はい」

「何も言わずに聞いてくれ。ここにいる侍女を連れて、そして千姫を助けあと、大坂城から出るんだ。頼めるか」

「……若様と茶々様はどうされるのですか」

「豊臣として、私たちはここに残る」


 水は千姫の心を思ったーーそんなことをすれば、千姫が悲しむ。千姫は徳川家の出だとしても、秀頼を夫として慕っているというのに。


「……差し出がましいことを申し上げますが、千姫さまは、それはお望みにならないかと存じます」

「千姫は家康の愛孫だ。きっと助かる。それに……我々の間に子もいない。千姫の身を案じているのは、水も同じじゃないのかい」

「私は茶々さまの護衛です。ここを動くつもりはありません」


 水は言う。相手が茶々であれば、この時点でものすごい形相で睨まれていることだろう。秀頼はしばし黙った。こうしている間にも、煙が濃くなってきた。


 大坂城内で関わった者たちは、皆親切に接してくれた。そして、桜音と出会い、穏やかな時間を過ごすことが出来た。だから、大坂城を築いた豊臣家には恩がある。生まれた村では、生い立ちと容姿のせいでいじめられていたのに、ここではそうではなかった。水にとって、今はもう大坂城は居場所だった。


「桜音が心配ではないのか」


 秀頼が言ったーーその名前を出してくるのは卑怯だ。桜音は千姫の侍女だ。その役割をずっと果たしてきた彼女なら、徳川に捕えられても無事でいられる。そんなこと、秀頼でも分かるだろうに。桜音は少しくらいのことでくじけない頑固なところもある。桜音なら上手くやれる。だから、関係を終わらせたのだ。ただーー。


「水」


 秀頼が、水に同意を求めてくる。


 そのとき、誰かが走ってくる音が聞こえた。人数は一人。水は長脇差に手を伸ばす。現れたのは、いつか去ったはずの源治だった。


「源治様……!?」

「ここも時期、危のうございます!」


 源治は、水と顔を合わせると口角を上げて頷いた。なぜ、彼がここにいるのだろうーー。


「水!早く行くのじゃ!命令に背くとはなんたることじゃ!」


 勢い良く襖を開けて、茶々が怒鳴ってきた。そして源治に命じる。


「お前は水とともに侍女たちを逃すのじゃ!」

「は、淀殿」


 源治は「失礼」と言って部屋に足を進める。その場にある手拭いや着物、帯などを並べて逃亡の準備に入った。侍女たちに着物を重ね着させて、手拭いで口を抑えるように伝える。そのそばで、茶々は厳しく水に言った。


「千姫と侍女たちを大坂城から逃がせ。決して死ぬのではないぞ。さあ、行くのじゃ!」


 茶々の言葉と同時に、室内に控えていた常高院じょうこういんと、侍女達が茶々と秀頼に追い出されてきた。この場に15人以上はいる。武装をした侍女たちは涙を流しながら茶々にすがっていた。その中には稲もいた。


 侍女たちを追い出したあと、茶々と秀頼、大蔵卿局おおくらきょうのつぼね二位局にいのつぼねなど、茶々に近い側近たちは部屋のまた奥へ続く襖を開けた。水は秀頼の背中に問うた。


「どちらへ向かうのですか」

「私たちは降伏しない。この場を移す。水は源治と一緒に侍女たち……それから千姫を頼んだよ。必ず生きて、皆を守ってほしい。これは豊臣からの最後の命令だ」


 建物内に、大勢の人の気配がする。ここも危ない。待っていられないことは分かった。


「……承知しました」


 水は深呼吸した。最後の命令を胸に刻んだ。


「皆さん、手拭いで鼻と口を抑えてください。なるべく姿勢は低くして!」


 源治が皆に指示をした。水は源治と共に侍女を誘導することに集中した。進むと、豊臣の兵や他の護衛に声を掛けられたが、水は聞こえないふりをした。少し移動すれば、そこはもう合戦だった。


 水は、何度も侍女たちの無事を確認しながら前に進んだ。何人かの男の鎧にぶつかったが、水は人の流れに逆らい、その中を走った。途中、稲が徳川軍の男に押し倒されたが、すかさず水は間に入った。稲を救い出し、また侍女の列に戻った。


 常高院が足を挫いて倒れてしまった。源治はすぐさま、彼女に駆け寄る。


「常高院様、私があなたを背負います。さあ、お乗りください」

「しかし……」

「早く!私は皆様を無事にこの城から脱出させます!」


 常高院は、源治の背中に登る。かつて、大坂城から去ってしまったはずの源治がこうして戻ってきてくれたことに、水は少しだけ救われた気もした。そして、また足を進める。


 大丈夫、一人じゃないーー。


 千姫がいる建物への近道である通路へ来たとき、水は立ち止まった。源治は水を促した。


「水!早く、こっちだ!」

「源治様、私は千姫さまのことろへ行かなければなりません」


 それだけ言えば、源治は理解したようだった。そして、源治は水に近付いて言った。合戦の最中のせいか、源治の瞳に熱がこもっている。


「……水、東市正ひがしいちのかみ様から伝言だ。合戦が終わったら、長崎に行くようにと」

「長崎……?」

「異国船がたくさん来る。東市正様から聞いた……、水、君は徳川から処刑命令が下るそうだ」

「……」


 且元が、そこまでしてくれるとは驚きだった。それを伝えるために、源治はこの動乱に紛れてやって来てくれたのか。


「長崎に行ったらどうするか、分かるかい」


 源治は、背中に常高院を負ぶったまま水に言う。


 水は、息を吸い込み、止めた。言葉を失ったまま、水は、目を伏せて頷いた。


「水、気をつけて。必ず……生きるんだ」

「……源治様も。……お会いできて、良かったです」


 別れの言葉は、源治の目をしっかり見て言った。源治の目に、何か迷いが見えた。だが、瞳を閉じて息を吐くと、優しく微笑んで頷いてくれた。


「ああ……私もだよ……水」


 ーーああ、そうだったのか。源治の声の熱が、建物を燃やす熱気と共に伝わってきた。自分の命を助けてくれたのは、源治なのかーー。


「さあ、水、行くんだ」

「……はい」


 水は源治たちに背を向けて走りだした。どうか、源治が無事に城を出られますようにーー。


 水は、無心で千姫が控えている部屋へ走った。水が千姫の部屋の確認すると、既に炎に包まれていた。中を確認したが、誰もいなかい。おそらく抜け出したに違いない。一体どこにいるのか。


「きゃあ!」

「危ない……!」


 複数人の女の悲鳴が聞こえた。千姫、お千代、そして桜音だ。


 水の目に、廊下の突き当りに追い込まれる複数の女性と、黒っぽい装束を纏った影が映った。その影に勇敢に立ち向かう姿があるーー桜音だ。桜音は長刀を手にしているが、その影に易々とそれを振り払われていた。影は桜音相手に刀を上から降り下ろした。影が誰であるのか、水には分かった。


 桜音の握っていた長刀が宙を舞う。水には、それがゆっくり動いているように見えた。


 ーーそんなことはさせない。それだけは、許さない。


 水は長脇差を抜いた。今日一番、力強く床を蹴った。

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