華たちの命運
水が千姫の護衛から外れてから、朝の水汲みは桜音が一人でやるようになった。夜に、部屋まで送ってくれていた日々が、もう何年の前のように感じる。このまま、二人の関係はなかったことになってしまうのだろうか。
ある夜、桜音が寝付こうとしている時だった。部屋のすぐ外に人の気配がした。そして、微かに音がした。
トントン。
襖をつつく音だ。桜音は思わず期待を膨らませた。
「水です、起きていますか」
高すぎず、低すぎない心地の良い声。水だ。桜音は胸がいっぱいになった。桜音は、そっと襖を開けた。そこには水がいた。水は桜音の顔を見ると、ホッとしたように柔らかく微笑んだ。
「すみません、お疲れのところ」
桜音は嬉しさで声が出なかった。大袈裟だと言われそうだが、嬉しくて涙が出そうというのはこういうことなのだろうか。
桜音は思わず、そのまま水の首に腕を回して抱きついた。水は何も言わない桜音の背中に、そっと手を添えた。少し間をおいて、水はギュッと腕の力を強めて桜音を抱きしめ、桜音の肩に顔を埋めた。
二人は部屋を抜け、手を繋いだまま例の中庭へ向かった。桜音が何も言わないでいると、水が声を掛けてきた。
「大丈夫ですか?」
「すみません、感極まってしまって……」
そう言えば、水は柔らかく微笑んだ。そのあと、中庭に視線を移した。桜音は水の横顔を追い掛ける。
水が隣にいるだけで、こんなにも安心する。こんなにも嬉しくて、胸が苦しくなるものなのかと桜音は思う。生まれて初めての感情なのに、これが恋しいということなのだと分かる。
水は桜音の視線に気付いたのか、顔をこちらに向けてきた。桜音は、思わずドキッとしてしまった。
「桜音殿……」
「……はい」
「その……護衛が変わること、直接伝えられなくて申し訳ありませんでした。私も突然知って……不安にさせたかと思います。ごめんなさい」
「そんな……!……水さまが謝ることではないですよ」
不安になったのは事実だ。それでも、こうして会いに来てくれた。それが水の気持ちだと思うと、胸が満たされていく。
「水さまもお疲れですよね。お勤めご苦労さまです」
「ありがとうございます。やっぱり……城の女主人というのは凄いですね。裏に控えているだけでも緊張します」
以前も茶々の護衛だったというのに、今は状況が状況だからなのだろうか。弱々しく笑う水が、桜音には新鮮に見えた。
「あの……たまにこうして会いにきても良いですか。桜音殿が嫌でなければ」
水は桜音を見て控えめに言う。そう言われて今度は胸が温かくなる。桜音は自然と笑みが溢れた。
「当たり前です。お待ちしておりますよ」
「良かった」
桜音が弾んだ声で言えば、水は歯を見せて嬉しそうに笑った。
それから、二人の夜の逢引きが始まった。水は仕事のことは多くは語らなかった。桜音は、千姫やお千代の話を水に言って聞かせた。
「お千代ちゃん、水さまがいなくなったことを隠しもせず残念がっています」
「お千代殿がですか」
「はい。あまりにも水さまの話をするので、千姫さまがお叱りになりました」
「ふふっ……楽しそうですね」
桜音が千姫の侍女として働く間、ごくたまに水の姿を見ることがあった。水は桜音の視線に気付いているのか分からなかったが、常に気を張り詰めた様子で、厳しい顔付きだった。
月日が流れ、徳川家との合戦が目の前に迫っているのを、城内の空気から桜音は感じとった。
「家康が、二条城へ入場したらしい」
「戦闘体制は整っているの?」
「徳川の兵は豊臣の倍の数だそうですよ」
日に日に、千姫は食が細くなってるようだった。気丈に振る舞って笑顔を見せてはくれるが、今日も食事の進みが遅い。
自分の祖父と夫が真っ向から合戦をするという状態だ。その心境を思うと、励ましの言葉も思いつかなかった。
ーーなんだか、落ち着かないな。
その夜、桜音は皆が寝静まってから、襖を開けて廊下へ出た。風に当たって、気を休めたかった。
すると、少し先に水の姿が見えた。こちらに歩いてくるようだった。桜音は忍び足で水に近付いた。水も笑みを浮かべている。二人は何も言わずに、手を繋いで中庭へ向かった。
「忍び足が上手になりましたね」
「何度も抜け出していれば、自然と身につきます」
そう言って笑い合う。この穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのにと桜音は思った。
「水さまには負けませんよ」
「どうでしょう、私は伊賀流ですけど、桜音殿は我流ですからね」
「言いましたねぇ?」
「……」
いつもなら、ここで水はクスクスと笑う。今日は微笑むだけだ。
ーー何か、あったのだろうか。
水は中庭に咲くミヤコワスレの花を見ていた。花びらを閉じて、蕾のまま夜風に揺れている。
しばしの沈黙のあと、水は桜音を見た。想いを通じた夜のように、水の瞳が揺れているのが分かった。桜音はその目を見つめ返した。水が口を開いた。
「あの……」
「はい、どうされましたか」
「……いえ、その」
言いかけて、水は口を一度閉じた。形の良い唇が、少し歪んだ。
ーー水は何か、大切なことを言おうとしている。
唾を飲み込んだあと、水は、震える声で桜音に言った。
「……桜音殿、私たちの関係……終わりにしましょう」
その言葉を聞いて、どれくらい時間が経ったのかは分からない。ただ、風がザアッと吹いていた。
水にしては、とても小さな声だった。そして、声が震えていた。だから、それが本気なのだと分かった。
桜音が何も言わないことが分かると、水は言葉を続けた。桜音は、その声を一言も聞き漏らすまいと耳を傾けた。
「大きな声では言えません。……豊臣家の勝算ははるかに低いと思います。……千姫さまは徳川の出、万が一のことがあっても、命は助かると思います。だから……千姫さまに幼い頃から尽くした桜音殿も、きっと助かると思うんです」
水は言葉を切った。水の言いたいことは理解できた。それでも、納得できるかどうかは別問題だった。桜音は、水から視線を逸らすことなく言葉を返した。
「水さま……、千姫さまへ尽くされたのは、あなたも同じでしょう」
桜音が言えば、水は視線を逸らし、中庭で揺れるミワコワスレの花を見た。
「私が尽くしたのは……千姫さまだけではなく、豊臣家の皆様です。これで……お分かりいただけますか」
「……」
何も言えなかった。水の言っている意味が分かるからだ。豊臣家に万が一のことがあったとき、水は生き残っても助からない、処刑に当たると思っているのか。
「だからね、桜音殿……私は、あなたに幸せになって欲しいんです。いつか平和が訪れた時には……私はあなたに生きていて欲しい」
「……千姫さまのおそばにいて、私のことも守ると、水さまは言いました」
言い返せば、思わず涙声になってしまった。水の視線が、桜音に戻った。水は桜音の目を見ると、瞳を揺らしたまま言った。
「……申し訳……ありません」
桜音は唇を噛んだ。水が悪いわけではないのに、水を困らせてしまう。涙が溢れてしまう。心を痛めているのは、水も同じはずなのに。
「今生の別れという訳では……ありませんよね……?」
「それは……分かりません」
その言葉を聞くと、涙はもう耐えられなかった。
水は、桜音の顔を見て、手を伸ばしてきた。だが、その手は中を彷徨ったまま、グッと拳を握った。先に目を逸らしたのは水だった。
大声をあげて泣きたかった。あなたが私を想うように、私もあなたを想っているのにーー。
桜音は、声を低くして水に言った。
「……死んだら、許しません」
「……努力します」
しばらくそのまま、夜風に当たる。ここから離れてしまえば、もうこうして会うことは出来ない。それならば、このまま時間が止まればいいと桜音は思った。
「……部屋まで送ります」
水が声を掛けてきた。桜音は何も言わず立ち上がった。
この日、1615年5月25日の夜だった。翌日、日本の命運を決める合戦が始まるーー。
※本作では、歴史上の出来事の日付やを創作上の都合で調整しています。




