大坂の陣へ
水は、大坂城本丸へ足を急がせた。侍女たちの間で、不穏な噂ばかり流れていた。
「片桐様が追放されたらしいわ」
「徳川と手を組んで、謀反を企んでいたそうですね」
「徳川との戦が始まるのよ」
「千姫様はどうなさるの?」
水にはとても信じられないことだった。秀吉が生きていた頃から豊臣家に尽くした且元が、果たして謀反など考えるだろうか。
且元が大坂城に戻ってきたことを知ったのは、ほんの数日前だった。無事に戻って来たのならばそれで良かったのだが、且元の立場が危ういことには気付かなかった。
その真意を知りたくて、水は千姫に声を掛けたあと、早足で本丸へ向かっていた。
「お前、水か」
「修理亮様」
途中、声を掛けられた。低く響く声色だ。振り向けば、大野治長がいた。直接言葉を交わしたことはほんの数回程度だが、且元の隣にいたのは記憶していた。
「誰か探しておるのか」
「……東市正様が、追放されたというのは本当ですか」
治長は静かに唸った。噂は本当だったのか。どうしてそんなことになったのだろう。
「……お前は、千姫様の護衛、姫様をお守りすれば良い」
「ですが……いえ、申し訳ございません。仰るとおりです……」
出しゃばったことはできない。どうせ、自分は身分のない忍び。それでも、且元が追放とは、何か理由があったのではないかと思う。
水は奥歯をグッと噛み締めた。すると、治長は水と距離を詰めて声を潜めた。
「東市正殿は、謀反の疑いで追放された。ほんの2日前だ。青木源治は彼を庇って共に去ったぞ」
勝元が謀反ーーそれは徳川の罠ではないのか。聞けば、大坂城へ戻るなり、大蔵卿局と全く違う内容の報告をあげたらしい。それが豊臣家には不遇なことだったため、追放されたということだ。
ーー何かあったら教えてくれると言っていた、源治までいなくなるなんてーー。
源治は、水が知る城内の武士の中で、唯一と言っていいほど心を許した人だった。頼りにしていたのに、なぜ、何も言わずにいなくなってしまったのだーー。
「これからどうなってしまうのでしょうか」
千姫が、か細い声で水に言った。
徳川家との戦が、現実味を帯びてきた。秀頼、そして茶々が、各地から武士に呼びかけ、大坂城は物々しい雰囲気に変わっていた。
千姫は、たびたび水を部屋に入れていた。情勢の不安からか、水へ話しかけることが増えている。水自身、この戦の戦法などは何も知らされていない。自分の役目は、これまでと変わらず千姫のそばを離れないことだった。水は千姫を励ますことしかできなかった。
「若様を信じるほかございません。それに、武士たちが続々と集まっていると聞きます。……きっと、なんとかなります」
苦し紛れに水は言葉を続けるしかなかった。そもそも、兵の数自体が徳川と豊臣では差があると聞いている。
千姫は、水の本心を知ってか知らずか、力なく笑って応えた。
「……そうね。……水、侍女の皆へ、長刀の稽古を行ってください。皆が、自分の身を守れるように」
「……はい、もちろんです」
参加は千姫の侍女たちが中心だったが、ほかの側室、姫君たちの侍女にも知らせ、参加の枠は絞らずに稽古を頻繁に行った。
城内の忙しさで、水は桜音と過ごす時間が少なくなっていた。その分、二人で長刀の稽古をしたりもした。
のちに冬の陣と呼ばれる戦では、姫たちに大きな危害はなかった。水はずっと千姫のそばに控え、同時に桜音から目を離すことはなかった。
だが、本当の戦は、これからだったーー。
「水様、和睦が破られたとというのは本当なんですか?」
「お千代ちゃん……」
城内の護衛隊の集まりから千姫の部屋に戻るなり、お千代が不安そうに聞いてきた。徳川との戦は、一時落ち着きはしたが、大坂城内には重い空気が常に流れている。それは武士たちが集まる場だけではなく、女性陣たちへも漂ってきていた。
「……私が知らされている限り、どうやら本当のようです。徳川が、大坂城の外堀だけでなく、内堀も埋め始めたようです」
言えば、桜音とお千代は同時に息を吸い込んだ。
日が経つごとに、内堀が徐々に埋められていくとの話が城内を飛び交う。
堀を埋められてしまえば、大坂城は終わりだーー。
「水、今すぐ茶々様のところへ参りなさい」
「二位局様……どうしてこちらへ」
水がいつも通り、千姫の部屋のすぐそばで待機していると、茶々の上級侍女である二位局がやって来た。後ろには稲が不安そうな顔で付いてきている。
「千姫に、お伝えすることがあるのです。急ぎです。さあ、あなたは早く行きなさい」
「……はい、承知しました」
二位局は特に焦る様子もなく、淡々と水に言う。水は、それが不思議に感じたが、何かあったのかは聞けなかった。
水は少し足を進めたあと、肩越しに振り返った。
二位局が、千姫の部屋に入っていく。後ろについている稲は、こちらをチラリと見ていたーー。
「水、突然だが、今から妾の護衛に戻ってもらうぞ」
「……承知しました」
茶々の元へ着くなり、前置きなしに言われた。水は思わず返事に一呼吸の時間を取られてしまった。てっきり、次の合戦の時も千姫の護衛をするのだと思っていた。
ーー千姫を守ると同時に、桜音のそばから離れないつもりでいたのに。
「どうした、何か不満か」
「いいえ……。申し訳ありません、突然で少し驚いてしまい……」
「ははは……、お前は本当に人間らしいな。またこれからも頼むぞ」
茶々は水の心境を知らないまま、水へ笑いかけた。水は「はい」と頭を下げた。秀頼は、そんな水に気付いたのか、声を掛けた。
「信頼できる者で近場を固めておきたいのだ。いきなりで申し訳ないが、母上を頼む」
「は。ご指名いただき、ありがたき幸せでございます」
戦いが終われば、どうなるのかも分からないのだ。水のような忍びの身分は、仕える主人の命に従うことが絶対であった。
水がこれより茶々の護衛に戻るということは、二位局が千姫たちに知らせた。そのことを聞いた千姫は「そうですか」と答えたが、桜音は驚きで呼吸が止まりそうだった。
二位局の淡々とした様子に、お千代が声をあげた。
「あまりにも突然過ぎませんか、何も今すぐでなくても」
「お千代、お黙りなさい」
千姫はお千代に言う。お千代はムッと口を継ぐんだ。
桜音は心が酷く痛んだ。お千代が二位局にそう言ってくれたことが、ほんの少し救いでもあった。
「ご足労頂きありがとうございます。水のことは分かりました」
千姫が軽く頭を下げると、二位局も千姫に倣って会釈した。そして、稲と千姫の部屋を出ていった。稲は、深々と頭を下げてから襖を閉じた。
「千姫さま、あまりにも急過ぎではありませんか。
「お千代、そう思ってるのはあなただけではありません」
千姫が少し強く言うと、お千代は黙った。千姫も、お千代と同じ気持ちなのもしれない。
沈黙のあと、千姫は桜音とお千代の顔を交互に見ながら優しい口調で言った。
「戦いの間だけかもしれません。お義母さまも秀頼さまも大変な時期だから……。水なら、しっかりとお義母さまを守ってくれるでしょう」
それでも、と桜音は思った。水は以前、千姫のそばにいて、自分のことも守ってくれると言ったのにーー。
「桜音、大丈夫です。今生の別れではないのですからね」
「……そう、ですよね」
「お義母さまも秀頼さまも、水を頼りにしているのですよ。誇らしく思いましょう」
これが、戦国の世なのだなーー桜音はやるせない思いのまま、唇を噛んで頷いた。
※修理亮・・・大野治長の呼び名。




