大坂城での日常〜1613年〜
1613年の春、江戸幕府では徳川家康が実質的な権力を握り、大坂城には女城主の茶々・通称淀殿と豊臣秀吉の一人息子・秀頼がいた。
桜が舞い散るこの季節、大坂城に人目を引く人物がいた。豊臣秀頼の正室・千姫の侍女である桜音は、その人物が気になって仕方がない。まだ恋を経験していない桜音だったが、おそらく一目惚れというのはこういうことなのだろうと思わざるを得なかった。
秀頼の母・茶々の護衛であったその件の人物は、当時の日本では珍しい茶髪で、女にしては背が高い。顔の彫りが深く、異国人のようにも見えた。桜音は、彼女を何度も遠目で見たり、すれ違ったりしたが、その度に思わず見惚れてしまった。
桜音は千姫の一つ年上の年頃の娘である。7歳の千姫が秀頼との婚姻のため大坂城に入城したのが10年前。桜音は、千姫の話し相手の侍女として8歳で大坂城へやって来た。18歳になる桜音は日本人らしい黒髪で、丸顔の愛らしい顔立ちをしていた。また働きぶりも良く温厚なため、他の姫や侍女たちと平穏に暮らしていた。
そんな桜音の悩みが一つある。例の人物のことだが、一月ほど前に千姫付きの護衛になったのである。
名を、水といった。どうやら忍びらしい。佇まいは無駄な動きがなくしなやかであり、常に体に軸があった。袴を履いてはいるが、手足の長さは隠せていない。千姫に聞いたところ、異国人との混血らしかった。目立つ容姿であるから潜入としては向いていないため、城内の警護しか出来ないのだと噂をされていた時期もある。
水は、容姿がどう言われようと仕事ぶりは優秀だった。洞察力に優れ、どの侍女よりも気が回り、さらに容姿も良いため、茶々が気に入ってどこにでも連れ回していた。大坂城にいれば水を目にすることが多々あるので、大体の女は水を贔屓にしていた。それは桜音と同時に侍女として入城した、二つ歳下のお千代も同じであった。
桜音の悩みというのは、何も水に恋焦がれているからというわけではない。たしかに意識はしているのだが、水はいつも桜音に対して冷たいのだ。お千代には笑って挨拶に応えても、桜音へは少し間を置いてから反応したり、あまり良い態度を示さない。お千代にそのことを一度話してみたことはあるが、水に惚れ込んでしまっている彼女には何も伝わらなかったのである。
「あ……」
千姫への食事を運ぶとき、姫の部屋の前に礼儀正しく待機している水がいる。そこにいるだけなのに、その容姿に目を奪われる。今、桜音と距離はあるものの、おそらく桜音の存在に気付いているに違いない。あまり好意的な態度ではない水に挨拶をするのは、正直なところ労力が必要だった。そう思っていると、向かい側からお千代がやってくる。お千代が水のそばを通りかかると、水は軽く頭を下げた。お千代は水に何か話しかけたようだ。すると水は微笑んで何かを返している。そう、基本的に水は誰にでも愛想が良いのだ。だから男女を問わず好かれているので、どうしても彼女に対する不満を誰にも言えなかった。
そうはいっても、千姫の食事は届けなければならないので、いつも通りを装って桜音は前へ出て行った。桜音が部屋の襖に近付けば、水は無表情を崩すことなく軽くお辞儀をする。それに習って桜音も軽く頭を下げた。
「失礼します。千姫さま、お食事をお持ちしました。開けてもよろしいでしょうか」
「はあい、どうぞ」
返事をしたのは千姫ではなくお千代だ。すると、スルリと桜音の横から襖を開けたのは水だった。お互いの着物が触れるか触れないかの距離に、思わずドキッとした。
そんな桜音の気持ちも知らず、水の目線は襖の隙間の下の方にあり、桜音とはいっさい目を合わせはしなかった。水は、皆に対してこういう事をする。だから、女性にそういう意味で人気なのだ。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
桜音が言っても、さっきお千代に笑いかけたように桜音には返してくれなかった。視線すら合わせてくれない。桜音は気まずそうに頭を下げ、千姫の部屋に入った。そして襖を閉じようとしたが、水がサッと閉じてしまった。それすらの動作も冷たいように桜音には感じられた。
「桜音、どうかしたのですか」
立ちすくんだ桜音に千姫が声を掛けた。千姫はいつも穏やかで、侍女たちにも気を配っている。そんな千姫を桜音もお千代も慕っていた。千姫のことだから、この頃桜音が悩みを抱えている事を気付いているかもしれない。とはいえ、ここで話せば、お千代どころか部屋の外で待機している水にも聞かれてしまうので、桜音は口角を上げて千姫に笑いかけた。
「何でもございません、失礼しました。千姫さま、お食事でございます」
桜音は千姫へ食事を差し出した。




