それぞれの場所で②〜水編〜
「何も残ってなかったか」
「はい、紙切れや薬瓶の一つもありませんでした」
水は、豊臣家の重鎮である片桐且元の部屋で、城下町へ降りた際の報告をしていた。且元は水を大坂城へ連れてきた張本人であり、水の働きぶりを評価してくれている。水もまた、自分を豊臣家の忍びにしてくれたことに感謝し、信頼を寄せていた。
薬屋はすでに閉まっていたこと、そして、徳川の忍びと接触し、密偵は全て引き上げているらしいことも合わせて伝える。且元は驚いた様子を見せない。水は言葉を続けた。
「その忍びなのですが、私がかつて、ともに訓練した女です」
且元は、ピタリと動きを止めて、水を見た。
「女の忍びか。他にもいたのだな」
「はい」
且元は感心して少しだけ考えたあと、水に言う。
「水、次のその忍びと会うことがあれば、殺さずに連れてくるように。もっとも、城内護衛のお前では、そのようなことはないと思うがな」
「……承知しました」
「他に報告は?」
「いえ、ありません」
且元に「下がれ」と言われたので、水は部屋を出た。
ーー初めて、且元に隠し事をしてしまった。
水は唾を飲み込んだあと、歩き出した。
葉名が、桜音の生き別れた双子の妹であることは意図的に伏せた。もし言えば、桜音の、豊臣に対する信頼を損なってしまうのではないか。桜音の立場が悪くなってしまうのではないか。そう思うと、どうしても言えなかった。
「水さま?」
「あ、はい、どうしました」
翌朝、水は桜音と厨房へ歩いていた。すっかり馴染んだ水汲みの習慣だ。葉名と桜音の関係のことを考えていると、思わず黙り込んでしまっていた。桜音は、水の顔を覗き込んでくる。
やはり、葉名とは全然違うなーー。
「昨日の疲れが残っているのではありませんか?」
「……まさか。そんなことありませんよ。桜音殿こそ、髪が跳ねています」
「えっ」
桜音は自分の髪をペタペタと撫で付け始めた。そうだ、桜音には、ずっとこのように可愛らしくいてほしい。
「ふふっ、冗談です」
「水さま?」
ジトっと睨み上げてくる。正直、桜音に睨まれても全く怖くない。桜音は拗ねたような顔で正面を向いて口を尖らせた。髪の右後ろがうねっているのは本当だが、黙っておいた。
もし、葉名が豊臣家の誰かに捕まってしまったらどうしよう。桜音と同じ顔であることに誰かが気付いてしまうと、状況によっては内通者扱いもされかねない。
葉名には、自分以外の誰にも捕まって欲しくないーー。
水は桶を厨房に届けると、先に千姫の部屋へ向かった。昨日は一日護衛に付けなかったためか、千姫が「顔を見せて」と言ってくれた。水は襖を開けて千姫に挨拶した。
「水、昨日はお疲れさまでしたね」
「いいえ、任務なので」
「昨日、桜音とお千代は寂しそうでしたよ。私もですけどね」
この大坂城の皆は、こうやって自分を無償に受け入れてくれている。それが心地良かった。だからこそ、この日常は守りたいと思う。
千姫に、桜音の事情は話しておくべきなのだろうか。桜音と信頼し合っている千姫なら、桜音に何かあったときに、守ってくれるだろうか。
「あのーー」
そう口にしたとき、桜音とお千代が食事を持ってやってくるのが、目の端に見えた。千姫は顔を傾けてくる。
「失礼しました、何でもございません。食事がきたようです」
「そう?ありがとう、水」
そのまま水は、桜音とお千代を千姫の部屋に通した。部屋の中からは、いつも通り、娘たちの明るい会話が聞こえた。
千姫に話すべきではない気がした。桜音と葉名の事情を、そして自分の不安を、千姫に抱えさせるわけにはいかないだろうと、自分に言い聞かせた。
近頃、水の様子がおかしい。桜音の顔をジッと見つめてくるので目線を合わせようとすれば、パッと逸らされる。今日だって、井戸で「おはようございます」と口にするまで、どこか憂いているように見えた。
「水さま、何か心配ごとですか?」
「……え?私が?」
「はい。お話くらいなら、聞きますけど」
「……いいえ、大丈夫ですよ」
水は笑って桜音を見る。水は、見た目のせいで、感情が読みづらいと思われがちだ。桜音は、水と時間を共有してきて、何となく水のことが分かるようになった気がした。
少し前の自分なら、おそらく不安になっていただろう。だが、水と気持ちを通じた今は、水の心を疑うつもりはない。
おそらく、水は何かを隠し事をしているのだと思うーー。
ある日の午後、千姫はお千代に、城下町で旬のお菓子を買ってくるようにと言付けた。お千代は喜んで出て行った。そして今度は、襖を開けて水にも声を掛けた。
「水、申し訳ないのだけれど、少し外してくれますか」
千姫の行動に、水は驚いている。桜音もどうしたのかと目を見開いた。思わず水と目を合わせてしまった。
水はすぐに千姫に視線を戻した。
「千姫さま、何かございましたか」
「お願い、ね」
千姫は両手を合わせて水にねだって見せる。
「……分かりました」
水は根負けして腰を上げた。
「半刻(1時間)後に戻ります。それまで茶々さまへご挨拶と、中庭で一人稽古をしております」
「ありがとう」
水はそう言って腰を上げて立ち去った。千姫は襖を閉めて桜音を振り返った。そして、にっこり笑って桜音に言う。
「桜音、私とお話しましょう」
桜音は二人分のお茶を用意して、千姫と向き合って座った。千姫はお茶を一口飲むと「美味しい」と言う。いったい、何の話をされるのだろう。お千代にも水にも、聞かれてならない話なのだろうか。
「……あ、あの、千姫さま、お話とは……」
「あなた、何か悩んでいるんじゃないの?」
そう言われて、桜音はお茶を持つ手を止める。
本当によく見てくれているのだなと感心する。同時に、水に隠し事をされているとは、さすがに個人的な理由で言い出せない。
黙っていると、千姫はクスッと笑った。
「水とのことなら、もう知ってるわよ」
「え……?」
頭が真っ白になった。「水とのことを知っている」とは、どういうことだろう。千姫を凝視すれば、可笑しくなったのか、千姫は笑みを深くした。
「あなたと水のことね。私はこれでも人妻ですから。お千代ちゃんも気付いているわ」
開いた口は塞がらない。桜音は、自分の気持ちも、水との関係も誰にも知られていないと思っていた。
千姫だけでなく、お千代にまで気付かれていたことが恥ずかしくてたまらない。嬉しいようなむず痒いような気持ちのまま、火照った頬を両手で包み込んだ。
「水のことで、悩んでいるの?」
「……あの……はい、仰る通りです」
桜音は、恥ずかしさと気まずさで声がどんどん小さくなった。これからきっと揶揄われる。あとで、水には二人にバレていることは伝えよう、と桜音は思った。
「私で良ければ、なんでも相談して」
桜音は千姫を見る。千姫は微笑んでいた。桜音は、少し間を置いてからお茶を置き、息を吸った。
「あの……千姫さまは、若様に、何か隠し事……だったりとか、教えてくれないことなど、ありますか?」
千姫は桜音の言葉を聞くと、一瞬驚いたように目を見開いた。それから、少し首を傾けて、指を顎に添えて考えてくれる。
「……うーん、そうね……」
言ってみてから、後悔した。秀頼が全てを千姫に伝えるなど、まずあり得ないのではないか。秀頼の元に寄せられる情報は、きっと膨大な数で、それも政治的なことばかり。それを、千姫にいちいち相談などすることはないだろうに。
「すみません、変なことを聞いてしまいました」
「そんなことないわ。でも、秀頼さまは……必要なことしか言わない気がします」
「……必要なこと、ですか」
「ええ。きっと……余計な心配はさせたくないのでしょう」
千姫が笑顔でそう言って、なんとなく理解できた。大切に思うからこそ、言わないこともあるだろうか。それを、千姫は受け入れているようだ。
「あんまり参考になることを言えなくてごめんなさいね」
「そんなことありません」
「千姫さま、お千代です、戻りました」
「どうぞ、入って」
千姫は、間髪入れずに答える。お千代が「失礼します」と襖を開けて入ってきた。
「さあ、お千代も帰ってきた事だし、桜音は護衛を連れ戻してきてくれる?急ぎではないから」
「は、はい。あの……本当に、ありがとうございます」
‘姫とその侍女‘という身分の差こそあれど、二人は同年代の娘だ。桜音は、千姫と普通の娘としての話題を共有できることが嬉しかった。
桜音は、水を迎えに行くために部屋を出た。




