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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第9話 家令が来た日

朝のうちに、ロッテさんが晴れ着を持って参りました。


 縄綯いのお宅の若い奥様でございます。板を掛けてから、初めて路地の側から来てくださった方でした。


「三日後に、うちの子の祝いなんです」


 広げられたのは、目の詰んだ毛織の一着でございました。子供の背丈のものですが、仕立てはしっかりしております。肩から袖の付け根にかけて、白いものが厚く盛り上がっておりました。


「灯りを倒しちまって。掻いたら、余計に白くなって」


「掻かずにお持ちくださって、助かりました」


 わたくしは肩の部分を日に透かしました。裏から見ますと、蝋の入った深さが分かります。表で盛り上がっているのは半分で、残りの半分は糸のあいだに沈んでおりました。


「落ちます」


「ほんとに」


「盛り上がっているところは削ぎます。沈んでいるところは、温めて綿へ移します。糸を洗うのではなく、糸から出させるのでございます」


「おいくら」


「銅貨で二枚いただきます」


 ロッテさんは、それを聞いて少し笑いました。


「三枚だと思ってた」


「布を傷めておりませんので」


 木のへらで、盛り上がった白いものを削ぎ落としました。爪では削ぎません。爪を使うと毛が起きて、あとで白く見えます。


 削いだあと、布の下と上に白い綿を当てました。上の綿の上から、湯を張った小鍋の底を置きます。じかに火を当てますと、毛が縮んで二度と戻りません。


 押さずに、置いて待ちます。蝋は熱を受けたところから緩んで、下の綿へ落ちてまいります。


 急ぐと、緩んだものが横へ広がります。広がったものは、あとから追いかけても戻りません。ですから、湯の熱が抜けるまで待って、抜けたら替える。それだけを繰り返します。


 二枚目の綿に替えたところで、坂の上から車の音がいたしました。


 灰汁町の路地に馬車は入りません。入れないのではなく、入る用がないのでございます。洗い場の女の方々が、みな手を止めました。


「奥様」


 石の縁のところに立っていたのは、ボルツでございました。


「ボルツさん」


「ご壮健で何よりでございます」


「はい」


 ボルツは洗い場を一度だけ見渡しました。流しの数と、桶の数と、干し綱の長さを数える目でございます。この方は昔からそういう見方をなさいます。


「当家の白布のことで参りました」


「さようでございますか」


「四十二枚ございます。婚礼までに白くいたしませんと、卓に敷けません」


「はい」


「洗い女を二人、雇い入れました。河岸で腕が良いと言われている者を」


「さようでございますか」


「三日やらせました。色は変わりません。三日目のほうが濃うございました」


「はい」


「腕の悪い者を掴まされたのでございましょうか」


「わたくしは、その方々の手元を見ておりませんので」


 ボルツは、そこで一度、言葉を切りました。


 わたくしは綿を三枚目に替えました。小鍋の底を置き直します。ボルツはそれを見ておりました。


「奥様。お聞きになっておいでですか」


「伺っております」


「では、お引き受けを」


「今日は、こちらの一着を承っております」


 ロッテさんが桶の陰で身を縮めました。わたくしは綿の端を持ち上げて、移った分を見ました。うっすらと脂の色が付いております。まだ足りません。


 ボルツは懐から革の袋を出して、石の縁に置きました。置いたときの音でおおよそが分かります。


「まずは、こちらを」


「拝見いたしません」


「金貨で八枚ございます。白布の分でございます。仕上がりましたら、同じだけ」


「ボルツさん」


「はい」


「洗い場の櫂棒は、まだございますか」


 ボルツの指が、袋の口のところで止まりました。


「……櫂棒、と申されますと」


「柄の長いほうでございます。それから、木灰の桶が三つと、篩が二枚」


「あれは」


「置いてまいりましたので、まだお使いいただいていると思っておりました」


 洗い場の女の方々は、こちらを見ないようにして見ていらっしゃいます。ドーラさんは火の前から動きませんでした。


「……処分いたしました」


「どちらへ」


「河岸の、古手の道具屋でございます。春先のことで」


「では、篩はまだあるかもしれません」


「は」


「あれは目が細こうございますので、買い手がつきにくうございます。櫂棒は売れましょうが、篩は残っているかもしれません。もしお店に残っておりましたら、お報せくださいませ」


 ボルツは、しばらく黙っておいででした。


「奥様は、そのことを」


「今、伺いました」


「……お怒りではないので」


「怒っても、篩は戻ってまいりませんので」


 綿を四枚目に替えました。小鍋の湯が冷めておりましたので、新しいものと入れ替えます。


「奥様」


「はい」


「あの洗い場の帳は、まだお手元にございますか」


「ございます」


「……どこに」


「置いております」


 ボルツは、それ以上お尋ねになりませんでした。革の袋を石の縁から取り上げて、また置きました。置き直したところが、さっきより二寸ほどわたくしの近くでございました。


「旦那、そこ邪魔だ」


 路地から出てきたのは、ヨナスさんでございました。肩に前掛けを掛けて、片手に藍の染みた布を提げていらっしゃいます。


「順番だろ。俺のほうが先に来てる」


「後ろにいらしたのは存じませんでした」


「今来た」


「では、後ろでは」


「気持ちの上では先だ」


 ヨナスさんは布を桶の縁に放って、ボルツの脇に立ちました。背丈が頭一つ違います。


「あんた、この町の人間じゃないな」


「ヴァルデン家の家令でございます」


「ああ、道具屋に櫂棒を流したとこか」


 ボルツは答えませんでした。


「河岸の道具屋なら、うちの隣だ。春に長いのが三本入ったのを覚えてる。柄に焼き印が二つ」


「……それが何か」


「別に。ただ、この町じゃ、道具を売った先の話は、売った本人より近所のほうが詳しいってだけだ」


 女の方々の何人かが笑いました。ボルツは襟のところを一度直しました。


 わたくしは三枚目の綿を外して、四枚目を敷きました。三枚目には、黄がかった脂がまだらに移っております。まだらであるうちは、途中でございます。一枚の綿に丸く移るようになりましたら、終わりが近うございます。


「奥様。日を改めます」


「さようでございますか」


「白布は、婚礼までに白くなればよいのでございます。それだけのことでございます」


 わたくしは五枚目の綿を敷きました。ここからは、湯の温度をわずかに下げます。蝋が抜けたあとに残っているのは、蝋そのものではなく、蝋と一緒に入った灯りの油でございますので。


 薄めた酢を数滴だけ落として、指の腹で押しました。押して、待ちます。縁から中へ。中から縁へは決していたしません。


 布を返して、日に透かしました。


 白いものは、どこにもございませんでした。毛の目が起きているところも、寝ているところもございません。削いだ跡も残っておりません。蝋は、削ぎ方よりも、そのあとの熱の当て方で仕上がりが決まります。


「落ちました」


 ロッテさんは、両手で受け取ってから、肩のところを何度も日に向けました。


「……ほんとだ」


「三日後まで、畳んで重石を載せておいてくださいませ。抱えて歩きますと折り癖がつきます」


「うん。うん」


 ボルツは、坂へ戻りかけた足を止めておいででした。


 わたくしの手元ではなく、綿を見ていらっしゃいました。五枚目の綿の真ん中に、脂の色が丸く移っております。布から出たものが、そこにございます。


「奥様」


「はい」


「……奥様には、妹君から頼んでいただくことにいたします」


 馬車は坂を上っていきました。


 ヨナスさんが、わたくしの隣で腕を組んでおいででした。


「妹って、あんたの」


「はい」

【落ちました】


ボルツは札束を積み、エルナは値段の話を一度もいたしません。噛み合っていないようで、この二人はきちんと同じ話をしております。落ちるか、落ちないか、でございます。


次回、大型の回です。頭を下げにまいりますのは、実の妹でございます。

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