第8話 白いものが、黄ばむ
婚礼まで十日である。
家令のボルツは、朝のうちに干し場へ回った。当日、広間と小食堂に出す白布の数を検めるためである。帳面には四十二枚と書いてある。書いたのはボルツ自身だ。
綱に上がっていたのは、三十一枚だった。
「クレタ」
「はい」
「残りは」
「洗い直しております」
「なぜだ」
女中頭のクレタは答えなかった。代わりに、綱の端を指した。五十を過ぎた女で、この家に二十二年いる。
ボルツは干し場の端まで歩いた。
白布は、三十一枚とも同じ色をしていた。
白の中に、薄い茶が沈んでいる。一枚だけを見れば分からない。並んでいるから分かる。端から端まで、寸分違わず同じ色だった。
「日焼けか」
「いいえ」
「では水だ。井戸の底が動いたのだろう」
「水は去年と同じでございます。同じ井戸から、同じ刻に汲ませております」
「洗いようが変わったのだ」
「変えておりません。人も、石けんも、湯を替える数も。去年と同じ順でやらせております」
ボルツは一枚を引き寄せて、指で挟んだ。乾いている。匂いはない。ただ、白くない。
「櫃のを持ってこい。去年仕舞ったものだ」
クレタが運んできた布を、綱の布の隣に広げた。
二枚は、違う色だった。櫃のほうは白い。並べて初めて、綱のほうが何色であるかが分かった。
「……こちらは去年の婚礼で使ったものでございます。三度洗って仕舞いました」
「同じ洗い場で洗ったのだろう」
「同じ洗い場でございます」
ボルツは、洗い直しに回されていた十一枚のうちの一枚を持ってこさせた。その一枚には、掌ほどの脂の染みが残っていた。二度洗ってなお残っている。縁のところが、洗う前より広がっていた。
「これは、洗ったのか」
「二度洗いました」
「広がっているではないか」
「はい」
「洗って広がる道理があるか」
「道理は存じません。広がっております」
クレタは口を結んだ。この女は分からないことを分かると言わない。ボルツはそこだけを買っている。
「洗い場の者を呼べ」
来たのは、十六の下働きだった。テアという。前掛けの紐を両手で握って立った。
「灰の壺は、壁際だな」
「はい」
「中身はあるか」
「ございます。毎朝、足しております」
「替えているか」
「……足しております」
「替えているかと聞いている」
娘は紐を握り直した。
「替えると申しますのは、壺の中のものを、全部お捨てするということでしょうか」
「知らんのか」
「……教わっておりません」
「誰から教わることになっていた」
テアは口を開いて、それから閉じた。目だけがボルツを見た。
「奥様から、でございます」
「あの方の話はよせ」
「お発ちの日に、伺いかけました。灰は、と申し上げたところで、お呼びがかかりましたので」
「誰が呼んだ」
「……ボルツ様が、でございます」
「壺の灰は、いつから足しているだけだ」
「わたくしが洗い場に入りましてからでございます。春からでございます」
「春からずっとか」
「はい。前におりました者も、足しておいででした」
「その者は、誰から教わった」
「存じません」
ボルツは干し場の柱に手を掛けた。あの日、通用門へ抜ける通路で自分が誰を呼んだのか、思い出せなかった。あの日は取り決めの写しを三通、日暮れまでに仕上げねばならなかった。人を呼んだ覚えはある。誰を呼んだかは覚えていない。
「灰を倍に足せ。今日じゅうに十一枚を洗い直せ」
「倍に、でございますか」
「白くならんのだろう。足りていないということだ」
昼過ぎに、洗い直した十一枚が上がった。
ボルツは干し場へ出た。
十一枚は、朝の三十一枚より濃かった。並べると、そこだけが一段沈んで見える。四十二枚のうちの十一枚が、はっきりと別の色になった。
「クレタ」
「はい」
「これはどういうことだ」
「洗うほど濁ります」
「そんな話は聞いたことがない」
「わたくしも聞いたことがございません。ただ、朝より濁っております」
風が出て、綱の布が一斉に鳴った。
クレタが帳面を開いた。
「卓布は三十枚ございます。そちらも今朝、上げました」
「同じか」
「同じでございます」
「見てもいないのに分かるのか」
「同じ井戸の水で、同じ湯で洗っております」
ボルツは干し場の反対側へ回った。長い綱に、大卓の一枚分が三十枚。端から見ると、白ではなく、薄い麦の色をしていた。
「アニエス様が、昨日ご覧になりました」
「なんと仰った」
「洗い直させなさい、と」
「洗い直したのが、これか」
「これが、洗い直したものでございます」
ボルツは屋敷へ戻り、櫃を開けさせた。
櫃の白布は、四隅を揃えて重ねてあった。上から三枚をめくると、下のほうは去年のままの白さだった。使わずに仕舞ってあったものだけが白い。使えば濁る。この家の布は、いつのまにかそういうことになっていた。
ボルツは指で数え直した。二度数えても、同じ数だった。
「白布は何枚ある」
「櫃には三十七枚でございます」
帳面には四十二枚と書いてある。差の五枚が去年のうちにどこへ流れたかを、ボルツは知っていた。布商のところで金に替わり、その金が別の頁の穴を埋めた。埋めたのはボルツの手である。
「新しく誂えると、いくらだ」
「一枚が銀貨で三枚、四十二枚では」
「もういい」
「卓布は麻の厚手でございますので、その倍でございます。十日で織り上がる店は、王都に二軒しかございません」
「二軒に当たれ」
「当たりました。婚礼の日には間に合わないと、二軒とも」
クレタは帳面から目を上げなかった。
「旦那様のお召し物も、襟が同じ色になってまいりました。今朝、二枚とも下げております」
「洗わせろ」
「洗っております。洗ってあの色でございます」
ボルツは窓の外を見た。干し場の綱が、まだ膨らんでいる。
この家の布は朝と夕に動く。動かなくなれば三日で足りなくなる。誰かがそう言っていた。いつ、どこで聞いたのかは思い出せない。
「ボルツ様」
「なんだ」
「先の奥様に、お伺いを立てるということは」
「クレタ」
「アニエス様は、あの方の妹君でいらっしゃいます」
「その話はよせ」
クレタは黙った。帳面を閉じる音がした。
婚礼までに、広間と小食堂の卓に白い布を敷かねばならない。客は八十人を超える。当日、この色の布を敷いた卓に八十人が着く。そのことだけが、ボルツの頭にあった。
「洗い女を一人雇え。腕の良いのを」
「この時期に、腕の良い者は空いておりません」
「金を積め。銀貨で構わん」
「……承知いたしました」
「婚礼までに白くなればよい。それだけだ」
クレタが下がったあと、ボルツはもう一度、干し場を見下ろした。
風が来て、綱の白布が一斉に膨らんだ。三十一枚とも、同じ色をしていた。
【落ちません】
灰は入れれば良いというものではございません。替える間隔と、水の硬さと、干す前に何度すすいだか。三十一枚が揃って同じ色になりますのは、そのどれも誰も知らないからでございます。
次回、その屋敷の家令が坂を下りてまいります。札束を持って。




