第7話 落ちない染み、承ります
翌る日から、三日のあいだ、わたくしの流しの前には誰も参りませんでした。
正しく申しますと、参りかけて戻られた方が三人いらっしゃいました。路地の口まで来て、板塀のところで足を止めて、それから川上のほうへ回っていかれます。回った先には洗い場が二つございます。どちらもわたくしより上手ではございませんが、家は壊れません。
ドーラさんの流しは、いつもどおり混んでおりました。
「あんた、うちに回すかい」
「いいえ」
「客がいないだろ」
「桶を直しております」
「桶は三日前に直しただろう」
「二度直しますと、長く持ちます」
二日目に、綿を裂きました。三日目に、帳の綴じ直しをいたしました。糸を替えて、背を締め直します。七年で三度目でございます。
三日目の昼に、ヨナスさんが板を担いでこられました。
「決まったか」
「いいえ」
「じゃあ持って帰る」
「お待ちくださいませ」
「待ってどうする。三日待った」
ヨナスさんは板を石に立てかけて、腕を組まれました。厚みが指二本ほど、幅は肩ほどの、古い板でございます。裏に藍の跳ねが点々と残っております。
「板の裏、藍がついてる。——で、落ちるのか」
「落ちません」
「即答だな」
「板は布ではございませんので、下へ移す先がございません」
「そりゃそうだ」
ヨナスさんは板を裏返して、藍の点を指で弾かれました。
「あんた、町で言われてるの知ってるか」
「存じております」
「家が壊れる洗い場だとさ」
「はい」
「怒らないのか」
「怒っても、噂は落ちませんので」
「壊れたのはあの家であって、あんたじゃない。そう言って回ろうか」
「おやめくださいませ」
「なんでだ」
「言って回りますと、言って回るだけの理由があると思われます」
「……あんた、面倒な女だな」
「よく言われます」
その日の夕方に、ハンナ様がいらっしゃいました。
喪服でございます。わたくしが落としたものを、そのまま着ていらっしゃいました。胸元に日が当たっておりますが、影も輪も浮いてまいりません。
「役人の調べが、済みました」
「さようでございますか」
「薬種商の帳に、主人が寝つく前の月から、名が出ておりました。義弟の名でございます」
「はい」
「同じ薬を、三度に分けて。量は、お医者の書付にあるものの倍でございました」
ハンナ様は石の縁に手を掛けて、そのままお立ちになっておいででした。
「運んでいたのは、ミナでございます」
「あの方が」
「言われたとおりに受け取って、言われたとおりに匙で量って、それだけでございます。あの子は文字が読めません。書付も、帳も」
「はい」
「ミナは、自分から役人に申し出ました。わたくしが頼んだのではございません。わたくしは、あの子が三人目だと知ったとき、正直に申しまして、腹を立てておりました」
「さようでございますか」
「義弟は、昨日、店の鍵を置いて出ていきました」
ハンナ様は包みを一つ、石の上へ置かれました。開けますと、石けんが六つ入っておりました。角の立った、硬い石けんでございます。
「うちで作っているものでございます。硬いほうが日持ちいたします」
「頂戴いたします」
「お代を、まだいただいておりませんでしたね」
「銀貨を一枚頂戴しております」
「あれは、三軒で断られたぶんでございます」
ハンナ様は、そこで少し黙られました。
「奥様。伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「あなたはあの日、なぜ、落としてよろしいのですかとお尋ねになったのでしょう」
「落としますと、無くなりますので」
「それだけでございますか」
「それだけでございます」
「……わたくしは、あの晩、干し場の前で一晩考えておりました。考えて、朝に届けを出しました」
「はい」
「あなたは、何もなさいませんでしたね」
「はい」
「ええ。何も、なさいませんでした」
ハンナ様は喪服の胸元を一度撫でて、それから帰っていかれました。歩き方が、初めていらしたときと違っておりました。包みを抱えていらっしゃらないからでございます。
日が傾いてから、路地の口に荷車が停まりました。
ヴィルマさんでございます。今日は御者台から下りずに、荷台のほうへ顎をしゃくられました。
「連れてきたよ。あたしが連れてきたんじゃない。この子が乗るって言ったんだ」
荷台から、若い方が下りていらっしゃいました。十九と伺っております。髪を布で包んで、胸に麻の包みを抱えていらっしゃいます。抱え方が、押しつけるのではなく、載せる持ち方でございました。
その方は、わたくしの流しの前まで来て、石の前に立たれました。
「……お願いします」
「拝見いたします」
「あの」
「はい」
「落とさないでほしいところが、あります」
「どちらでしょう」
包みが開かれました。四日前にヴィルマさんがお持ちになったものと同じ産着でございます。畳み目が変わっておりました。ご自分で畳み直されたのでございます。
「ここの、小さいの。三つ並んでるところ」
「爪の先ほどの点でございますね」
「はい」
「これは、何でございましょう」
「……分かりません。でも、あの子が起きてるあいだについたものです。ほかのは、寝てるあいだのだから」
わたくしは産着を日に透かして、点の三つを指の腹で押さえました。周りより硬うございます。乾いてから、一度も水に触れておりません。
「承ります」
「落とせるんですか。片方だけ」
「落とすものと落とさないものを分けるところが、わたくしの仕事でございます」
湯を沸かしました。熱くはいたしません。
乳から始めます。乳はぬるい湯で緩みますが、緩んだところへ灰を当てますと固まります。ですから灰は使いません。押す。綿を替える。押して、待つ。
薬は、ぬるい湯に酢を落として、下に白い綿を敷きます。移した先が白ければ、何が出てきたのかが見えます。縁から中へ。中から縁へは決していたしません。
血は、冷たい水でございます。熱を当てておりませんので、縁から緩んでまいります。
点の三つには、綿を当てません。そのまわりだけを湯で押さえて、乾いた綿で境を作ります。境を作りますと、湯はそこで止まります。
湯を替える。綿を替える。押す。待つ。
白い麻が、白くなってまいりました。乳の輪が抜け、薬の縁が抜け、最後に血の薄いものが綿へ移りました。
水に沈めて、二度すすぎ、絞らずに日向へ運びました。
「落ちました」
産着は、白でございました。胸のところに、爪の先ほどの点が三つ、残っております。
娘さんは、受け取りませんでした。
両手を前掛けで拭いて、また拭いて、それから、両手を出されました。わたくしは畳んでお載せいたしました。その方は、しばらく動かずにいらっしゃいました。
「おいくら」
「銅貨三枚いただきます」
「三枚」
「布を傷めておりませんので、それだけでございます」
「あたしが置いてった銀貨は」
と、ヴィルマさんが荷車の上から仰いました。
「お返しいたします。お預かりしただけでございますので」
「取っときな。あんた、それじゃ飢え死にするよ」
「では、頂戴いたします。そのぶん、貸し物屋さんの布をお預かりいたします」
「ああ、そうしとくれ。婚礼のあとの衣装ってのは、ひどいもんだよ。葡萄酒と、脂と、泣いたあとがいっぺんに来る」
「承ります」
板は、その晩に掛けました。
ヨナスさんが墨を持ってきてくださって、書くのはわたくしがいたしました。字は上手ではございません。七年、帳に同じ形の字ばかり書いてまいりましたので、短い言葉を大きく書くのは初めてでございます。
——落ちない染み、承ります
「落ちないもんを承って、どうする」
「落ちるか落ちないかを、まず分けます」
「それが商売か」
「それだけが商売でございます」
ヨナスさんは板を路地側の柱へ回して、上と下を縄で留めてくださいました。結び方が二重でございます。この町は風が川下から吹き上げてまいりますので、一重では朝に落ちます。
「名前がないね」
ドーラさんが火のほうから仰いました。
「ございません」
「まあ、いいさ。布で選ばせるんだろ」
「はい」
縄の結び目を確かめておりましたときに、路地の向こうで車輪の音がいたしました。
この町の荷車ではございません。輪の幅が違います。石畳を打つ音の間が、均されております。
路地の口に、黒い箱馬車が停まっておりました。
扉の腹に、紋が見えました。水と、鳥。
わたくしは七年、その紋を朝と夕に見ておりました。洗ったことはございません。金物でございますので。ただ、その下を通らない日は、七年で一日もございませんでした。
馬は動きません。扉も開きません。
【落ちました】
板の一行が、この作品の看板でございます。名前は書いておりません。布のほうに選ばせるためでございます。
第一章「灰汁町」は、ここまで。灰を替えなかった家の白布は、そろそろ十七枚が同じ色になっている頃でございます。次回は、その干し場を上から見下ろす回でございます。
ブックマークと評価は、板に字を書く墨代に充てさせていただきます。




