第6話 三軒隣の葬式
路地を三軒隔てた家で、葬式が出ました。
八十を越えた爺様で、朝に水を汲みに出たまま戻らず、井戸の脇に腰を下ろした形で亡くなっていらしたそうでございます。苦しんだ跡がなかったと、近所の方々が何度も仰っておいででした。
この町では、喪服は家ごとに持つものではございません。路地に一そろい、多くて二そろいを置いて、要るときに回します。ですから葬式が出ますと、まず喪服を出してくる家があって、その家の戸口に人が並びます。
朝のうちに、女の方が四人、わたくしの流しへ布をお持ちになりました。
「あんた、これ、なんとかなるかい」
最初にいらしたのは、井戸の向かいの家の奥さんでございます。広げますと、肩から袖にかけて、色が二段になっておりました。
「畳んだまま、長くお置きになりましたね」
「三年ぶりだよ」
「肩のこちらは、日に焼けております。これは戻りません」
「戻らないのかい」
「黒は日に焼けますと、赤茶に寄ります。染め直すよりほかにございません」
「じゃあ諦めるよ」
「袖口は落ちます。蝋でございますので」
「蝋なんて、いつ」
「前にお使いになった方が、灯りの近くにお立ちになったのだと存じます」
わたくしは紙を当てて、湯で温めた石を上から置きました。蝋は熱を受けますと緩んで、下からではなく上の紙へ移ります。擦って伸ばしますと、布の目のあいだへ入って白く残ります。
紙を三度替えて、それで終わりでございました。
「銅貨一枚いただきます」
「一枚でいいのかい」
「二つ落として、一つ落ちておりませんので」
二人目の方は、襟の脂でございました。三人目の方は、裾に泥。四人目の方は、何も持たずにいらして、しばらく黙って見ていらしてから、明日また来ると仰って帰られました。
回し着の喪服は、持ち主の家の癖ではなく、路地の癖がつきます。肩の焼けは畳んで置いた家の窓の向き、袖口の蝋は通夜を長くやる家の灯り、裾の泥はこの路地の水はけ。四枚並べますと、この一角で去年から何があったかが、順に読めてまいります。
葬式のあいだ、路地はよく晴れておりました。棺が出るときに、女の方々が戸口へ並んで、通り過ぎるまで手を止めていらっしゃいました。手を止めるだけで、誰も泣きません。この町では、泣くのは家に入ってからでございます。
昼を過ぎた頃に、ドーラさんが火のほうから戻っていらっしゃいました。
「あんた、聞いたかい」
「いいえ」
「グレーベルの家だよ」
わたくしは桶の水を替えておりました。
「あそこの後家さんが、役人に届けを出したんだとさ。旦那が死んだのは病じゃないかもしれないって」
「さようでございますか」
「あんた、驚かないんだね」
「あの方がお決めになることでございますので」
「胸の染みの話をしたらしいよ。喪服の。三軒で落ちなくて、四軒目で落ちたって」
「はい」
「落ちた水の色まで、役人に言ったって」
ドーラさんは桶の縁に腰を掛けて、続けられました。
「そしたら上の通りの薬種商が調べられてね。あそこは払いを帳につけるだろう。誰の名で、いつ、何を、いくつ買ったか」
「はい」
「グレーベルの旦那が寝ついてたのは十日だ。ところが薬は、その前の月から出てるんだと」
わたくしは水を替え終えて、桶を伏せました。
「ドーラさん。それは、どちらから聞かれたお話でございますか」
「魚屋の女房。その前は井戸端。その前は知らないよ」
「さようでございますか」
「あんた、そういうとこは疑うんだね」
「布は嘘をつきませんが、人の話は途中で足されます」
ドーラさんは笑って、それから笑うのをおやめになりました。
「もう一つあるよ。あの家、跡目が二人だって話だったろう」
「奥様と、義弟様と伺いました」
「三人目が出た」
わたくしは顔を上げました。
「分家筋の娘でね。名はミナ。十何年、あの家に住み込みで働いてたんだと。掃除と、あとは旦那の世話」
「働いていらした方が、跡目に」
「遺言状の写しに名があったってさ。使用人だと思われてたのが、身内だったってわけだ。旦那が書いたのは死ぬ半年前だ」
「三人でお分けになるのでございますね」
「分けるもんかね。義弟のほうは写しを認めないって言ってる。あの家は今、朝から怒鳴り合いだよ」
夕方に、その義弟様がいらっしゃいました。
三十半ばの方でございます。石けん商の身内らしく、袖口まできちんとしていらして、外套の肩に埃が一つもございません。荷を布で包んで、脇に抱えていらっしゃいました。
「ここが、うちの義姉が世話になった洗い場か」
「エルナと申します」
「ラルフだ。グレーベルの」
その方は包みを石の上へ置いて、両手で押さえました。
「頼みがある。これを落としてくれ」
「拝見いたします」
包みを開きますと、敷布が出てまいりました。麻の厚いもので、寝台に敷くものでございます。真ん中より少し上に、掌ほどの染みが二つ。縁が濃く、内が薄うございます。
顔を近づけますと、甘うございました。ごく薄く、金気が混じっております。
二つの染みは、寝ていた人の胸の高さに並んでおりました。掛かった向きが同じでございます。上から落ちたものが二度、ほとんど同じところへ落ちますのは、同じ人が同じ側に立って、同じ手で器を持っていたということでございます。
わたくしは敷布を広げたまま、指の腹で縁を押しました。乾き切っておりません。この一日か二日のうちに、一度、水に浸けていらっしゃいます。
「兄の部屋のものだ。病人が寝ていたんだから、汚れもする。人手を入れて片付けるのに、こういうものが出てくると具合が悪い」
「落ちます」
「落ちるか」
「熱を当てていらっしゃいませんので、落ちます。ぬるい湯と、酢と、白い綿を下に敷きます。二日いただければ、跡は残りません」
「じゃあ頼む。値は言ってくれ」
「お預かりできません」
ラルフ様は、包みの紐を巻き取る手を止められました。
「今、落ちると言ったな」
「落ちます。けれども、落としません」
「なぜだ」
「この敷布は、どなたのものでございますか」
「グレーベルの家のものだ」
「跡目が、まだお決まりでないと伺っております」
「……それが何の関係がある」
「持ち主の決まっていない布は、お預かりしないと決めております。落としましたあとで、それはわたくしの布だと仰る方が出てまいりますと、落としたわたくしが困ります」
「金は倍出す」
「三人でお決めになってから、お持ちくださいませ。三人のうちどなたがお持ちになっても、同じように承ります」
ラルフ様は、しばらくわたくしをご覧になっておいででした。
「あんた、義姉から何か聞いたか」
「喪服をお預かりいたしました」
「それだけか」
「わたくしは、落とすだけです。裁くのは布です」
「……何だ、それは」
「落としたものが何であったかは、お持ちになった方がご存じでございます。わたくしは布のほうしか存じません」
ラルフ様は敷布を包み直されました。畳まずに、丸めるように押し込んでいらっしゃいます。紐を掛けるときに袖が上がりました。
右の袖口の内側に、薄い染みがございました。乾いてから、一度洗ってございます。灰を替えていない湯で洗いますと、ああして輪郭だけが残ります。
わたくしは何も申しませんでした。
「洗い場は、ほかにもあるだろう」
「ございます。三軒隣にも、川上にも」
「そうさせてもらう」
ラルフ様は路地のほうへ歩いていかれました。
その途中で、一度、足を止められました。
路地の入口に、若い女の方が立っておいででした。二十を少し越えたくらいでしょうか。髪をきつく結って、両手を前で組んでいらっしゃいます。
お二人は、すれ違いました。どちらも何も仰いませんでした。
女の方は洗い場のほうを二呼吸ほどご覧になって、それから、来た道を戻っていかれました。
着ておいでのものは、上等な喪服でございました。丈が合っておりません。裾を折って、内側で留めてございます。ご自分のものではないか、あるいは、ご自分のものになったばかりのものでございます。
袖を通したまま、手だけがよく働く形に鍛えられておりました。
「あれが三人目だよ」
ドーラさんが、わたくしの後ろで仰いました。
「ここへ来るつもりだったのかね」
「存じません」
「訊きに行かないのかい」
「参りません」
わたくしは帳を開いて、その日の頁に書きました。
——喪服四枚、蝋・脂・泥。落ちた。日焼けは落ちず。
敷布のことは、書きませんでした。お預かりしておりませんので、書く行がございません。
その晩、井戸の向かいの家の奥さんが、洗い場の入口まで来て、そこで立ち止まられました。
手に布を抱えていらっしゃいます。朝にお持ちになったのとは別の、白いものでございました。
「あんた」
「はい」
「……やっぱり、いいわ」
「さようでございますか」
奥さんは布を胸に押しつけ直して、それから、言いにくそうに仰いました。
「今日、井戸端で聞いたんだよ。あの洗い場に持っていくと、家が壊れるらしいって」
【落としません】
「あの洗い場に持っていくと、家が壊れるらしい」。噂は、たいてい半分だけ当たっております。壊れたのは布を持ち込んだ家ではなく、もともと壊れる支度ができていた家のほうでございました。
次回、第一章の終わりです。噂で客が引いた洗い場に、それでも来る方がいらっしゃいます。板を一枚、掛けます。




