第5話 白い卓布
婚礼まで、あと半月だった。
ヴァルデン侯爵家の広間には、朝から仕立て屋が四人入っている。長卓は端へ寄せられ、床には白い紙が敷かれ、そこにアニエス・リントが立っていた。
「アニエス様、お手を」
「はい」
袖が通される。肩の縫い目が引かれ、背で留められる。仕立て屋が針を口に含んだまま、膝をついて裾を回った。
「お丈は、あと指二本ぶん詰めましょう」
「歩きにくくはないかしら」
「石段をお使いになりますか」
「使いますわ。玄関の広いところを」
「では、二本で」
アニエスは鏡を見た。鏡は三枚立てられていて、正面と左右から自分が映る。左の鏡の中の自分に向かって、少し顎を引いた。
「ねえ、この白は、婚礼のあいだじゅう白いままでいてくれるのかしら?」
「白いままでございます」
「よかった」
「アニエス様、お手袋はいかがなさいましょう」
「つけますわ。式のあいだじゅう」
「長うございますと、お暑うございますよ」
「暑くても、つけます」
「肘までのものにいたしましょうか」
「肘まで。留めは内側にしてくださいな」
「かしこまりました」
「手は、人がいちばん見るところですもの」
「……さようでございますね」
アニエスは手袋の見本を一つ取って、指を通さずに掌へ載せた。
昼前に、長卓が元の位置へ戻された。
婚礼の日に使う卓布を、寸法を見るために出したのである。三枚を継いで一枚にした白い麻で、四人がかりで広げられ、角を引いて皺を伸ばされた。
天窓の光が、卓の中ほどに落ちている。
「まあ」
アニエスは卓の端に手を置いた。
「きれいだこと」
「奥様が、こちらは念入りに晒しておいででした」
と、家令のボルツが言った。
アニエスは一度、ボルツを見た。
「……ボルツ。それは、わたくしのこと?」
「失礼いたしました」
「いいのよ。まだ半月ありますもの」
アニエスは卓布の上を、掌でひと撫でした。
「長く持つものなのね、こういうものは」
「布は長く持ちます。持たせ方さえございますれば」
仕立て屋が、婚礼の衣装に合わせる白麻の見本を卓の上へ置いた。掌ほどの端切れである。
端切れは、卓布の上で四角く浮いて見えた。
「こちらの白で、よろしゅうございますか」
「ええ、その白で」
誰も、端切れと卓布を見比べなかった。仕立て屋は端切れを取り上げ、帳面に挟んだ。
午後、裏の通用門に荷車が二台入った。
ボルツが立ち会っている。運び出されたのは、洗い場の道具だった。櫂棒が六本、桶が十四、木灰の壺が三つ、窓の下に伏せてあった篩。
「そちらの壺も、よろしいので」
「中身ごと持っていけ」
「値のつくものではございませんが」
「置いておく場所のほうが惜しい」
ボルツは荷札に数を書き入れた。指の細い、帳付けの手である。書き終えると、札を紐で桶の耳に結んだ。
「あの」
荷車の脇に、洗い場の下働きの娘が立っていた。テアという。十六になる。前掛けの紐を両手で握っている。
「その壺は、置いていただけませんか」
「なぜだ」
「灰が、要りますので」
「灰なら買える。上の通りで袋で売っている」
「……はい」
「テア。おまえ、あの壺の灰をどう使う」
テアは口を開いて、閉じた。
「水に、浸けて」
「それで」
「……存じません」
「知らないものを置いておいても、場所を取るだけだ」
ボルツは御者に手を上げた。荷車が動き、車輪が敷石の目に嵌って一度跳ねた。壺の中で、乾いたものが鳴った。
テアは、車が門を出るまでそこに立っていた。
夕方近く、アニエスは奥の廊下を通った。
右手に、洗い場へ下りる石段がある。戸が開いていて、下から水の音がした。桶を置く音、それから、何かを打つ音。
アニエスは足を止めた。
石段は五段で、下は暗い。湯気が上がってきている。その湯気に、灰の匂いが混じっていた。
彼女は右手を左手で握った。指の腹が乾いている。婚礼まで半月、この手には毎晩、香油を塗ることになっていた。
「アニエス様」
ボルツが後ろから来た。
「洗い場をご覧になりますか。人の入れ替えがございますので、一度、顔だけでも」
「……いいえ」
「では、後日に」
「ボルツ」
「はい」
「あそこは、誰が見ているの」
「今は、下の者が三人で回しております」
「回っているのね」
「回っております」
「なら、いいわ」
「アニエス様。洗い場の頭を一人、お入れになりますか。上の通りに口入れ屋がございます」
「頭って、何をする人」
「見ている者でございます」
「見ているだけの人を、お雇いになるの?」
「……前は、そうしておりました」
「では、いりませんわ。手が足りないのなら、数をお増やしになればよろしいでしょう」
「かしこまりました」
「ボルツ。婚礼の卓布は、あれで足りるのかしら」
「足ります」
「白いものは、多いほうが華やかですわね」
「ご用意いたします」
アニエスは石段のほうを見ないまま、廊下を進んだ。
十年前に一度だけ、姉から、洗い場へ来ないかと言われたことがある。アニエスは断った。そのとき何と答えたかは、今でもはっきり覚えている。理由のほうは、口にしなかった。誰にも訊かれなかったので、そのままになっている。
その晩、テアは洗い場で白布を一枚洗っていた。
昼の打ち合わせで杯を出したときに、卓布の端へ葡萄酒がひとしずく落ちたのである。継ぎ目から指二本ほどのところに、小指の先ほどの染みがあった。
テアは湯を沸かし、桶へ張り、布を沈めた。買ってきた灰の袋を破って、掌に一掴み取り、湯へ落とした。
灰は、浮いた。
浮いた灰を掬い、もう一掴み入れた。それも浮いた。桶を回すと、湯が灰色に濁った。
テアは布を引き上げた。染みは、輪の形で残っていた。輪の外側に、うっすらと、新しい色がついている。
布を裏返して、指の腹で擦った。強く、それから、もっと強く。
二度目に日にかざしたとき、輪は前より大きくなっていた。
洗い場には、もう一人いた。年上の女中で、皿を下げに下りてきたのである。
「テア。まだやってるのかい」
「落ちないんです」
「そんなもの、明日でいいだろう」
「明日になると、もっと落ちなくなります」
「なんでだい」
「……分かりません。でも、そう伺いました」
「誰に」
テアは答えなかった。
「灰なら、あたしも使ったことがあるよ」
「どうやってお使いになりましたか」
「そのまま入れるんだろう。ほかにやりようがあるのかい」
「……ございませんか」
「あたしに訊くんじゃないよ。皿はあたしの持ち場だ」
女中は皿を伏せて、石段を上がっていった。
テアは湯を捨てて、新しい湯を張った。灰をもう一掴み入れた。
翌朝、干し場に白布が並んだ。
十七枚。風のよく通る日で、昼過ぎには乾いた。
畳んで棚へ上げるとき、テアは一枚だけを下のほうへ入れた。輪の残っているものである。棚には、まだ余りがあった。
卓布は広間の長卓に敷かれたまま、婚礼の日を待つことになった。
【落ちません】
★の付いた回は、加害者側だけを描きます。主人公は出てまいりません。この作品のざまぁは、エルナが何かをするのではなく、替えなかった灰のほうが勝手にやりますので。
次回、第三話の依頼人が姿を消します。喪服に残っていた薬液が、どこから来たものだったのか。




