第4話 落とせますが、落としません
喪服の一件から、四日が過ぎました。
三日目に、初めての客が参りました。魚を扱う家の女の方で、前掛けの裾に鱗と血の混じったものが乾いておりました。銅貨を二枚いただきました。四日目には、そのお隣の方が、お子さんの膝の泥をお持ちになりました。銅貨一枚でございます。
どちらも落ちる染みでございました。落ちるものは落ちるように落とすだけでございますから、帳に書き付けることもございません。
持ち金は、銅貨七枚から銀貨一枚と銅貨十枚になりました。
変わったことがもう一つございます。洗い場の女の方々が、こちらを見ないようにして見るのをおやめになりました。今は、見るときに見ていらっしゃいます。手を止めて、桶の縁に肘を載せて、遠慮なくご覧になる。この町では、そちらのほうが近いのだと分かってまいりました。
「あんた、看板は」
ヨナスさんが工房の戸口から声を投げてこられました。片手に藍の桶を提げ、もう片方の腕には濡れた布を巻いていらっしゃいます。
「看板でございますか」
「ドーラんとこの端に名無しの女が座ってる。そう言って回るのは、こっちが面倒だ」
「回してくださっていたのでございますか」
「回してない。聞かれたから答えただけだ」
ヨナスさんは桶を石の上に置いて、腰を伸ばされました。
「板ならある。工房の裏に余ってるのが二枚。墨も貸す」
「ありがとうございます」
「——で、何て書く」
わたくしは、少し考えました。
「存じません」
「名前だろ、普通は」
「名前を書きますと、名前で選ばれます」
「それの何が困る」
「わたくしを選んでいただいても、困ります」
「じゃあ何で選ばせるんだ」
「布でございます」
ヨナスさんは片眉を上げて、それから桶を持ち上げられました。
「板は裏に置いとく。決まったら取りに来い」
その日は、板のことを考えて過ごしました。
落ちるものを落とします、では長うございます。染み抜き、では、この町の女の方々が全員そうでいらっしゃいます。ドーラさんに申し上げましたら、洗い場と書いておけばいいだろう、と言われました。それでは流しをお貸しする商売になってしまいます。
昼を過ぎた頃、路地の口に人影が立ちました。
五十に近い女の方でございます。身なりがよく、外套の裾が乾いておりました。この町の路地を歩いて裾が乾いているのは、荷車でいらした方でございます。
「ここかい。落ちない染みを引き受けるってのは」
「ヴィルマさんじゃないか」
ドーラさんが桶の陰から顔を出されました。
「上の通りの貸し物屋だよ。婚礼と葬式の衣装を貸してる」
「ドーラ、あんたまだ生きてたのかい」
「あんたこそ」
ヴィルマさんは笑って、それからわたくしの前に来て、石の縁に銀貨を三枚並べました。並べ方が慣れていらっしゃいます。先に金を見せて話を短くなさる方でございます。
「先に出しとくよ。あたしは値切らない。落ちても落ちなくても、これは持って帰らない」
「まだ、何も伺っておりません」
「聞いてからじゃ、あんたが受けないかもしれないだろ」
包みを開かれました。
白い麻の産着でございました。仕立てはこの町のもので、脇の下に足し布がしてございます。育つのを見越して、あとから広げられるようにしてあるのでございます。
胸から腹にかけて、染みがございました。三つ、重なっております。
いちばん下が広く、薄く、縁がぼやけております。その上に、細い筋が二本。さらにその上に、爪の先ほどの点が三つ。順に付いたものでございます。下のものが乾いてから上のものが乗っておりますので、間には日が空いております。
わたくしは日に透かして、それから鼻を近づけました。
「乳と、薬と」
「と」
「血が、少し」
ヴィルマさんは外套の襟を直されました。
「先月、この町で子が一人死んだ。生まれて四十日でね」
「さようでございますか」
「母親は十九だ。うちで預かってる。奉公の口を探してやってるんだが、あの子はそれを膝に載せたまんま、飯も食わないで座ってる」
「四十日でしたら、この足し布はまだ使っておいでではございませんね」
「……そういうことを、あんたは先に言うのかい」
「申し訳ございません」
「いいよ。誰も言わないから、余計に腹が立つんだ」
ヴィルマさんは、指で産着の襟をなぞられました。
「落ちるのかい、それ」
「落ちます」
「そうかい」
「乳は日が経っておりますが、まだ縁が緩んでおります。薬はぬるい湯で下へ移せます。血は熱を当てておりませんので、冷たい水で戻ります。三つとも別のものでございますから、順に、別のやり方で」
「じゃあ頼むよ。二日でも三日でも待つ」
「お預かりできません」
ヴィルマさんの手が、産着の襟の上で止まりました。
「今、落ちるって言ったろ」
「落ちます。けれども、落としません」
「なんでだい」
「この産着は、どなたのものでございますか」
「言ったろ。あの子のだ」
「あの方は、落としてくれと仰いましたか」
ヴィルマさんは、少しのあいだ黙っておいででした。洗い場の棒の音が、三つ向こうの流しで続いております。
「言うわけないだろ。言えるくらいなら、あたしがここまで来ることもないよ」
「さようでございますね」
「あんたね。あたしが意地悪でやってると思ってるのかい。あの染みがあるかぎり、あの子は前を向かない。奉公先だって、あんなものを抱えた娘は取らないんだよ。落として、畳んで、しまってやる。それでやっと——」
「ヴィルマさん」
「なんだい」
「落ちましたら、この染みがあったことは、どこにも残りません」
ヴィルマさんは、こちらをご覧になりました。
「布は元に戻ります。戻ったあとで、あったと申し上げても、誰も信じません。ご本人でさえ、そのうち信じられなくなります」
「……それでいいんだよ」
「わたくしにも、そう思われます」
「じゃあ」
「けれども、それを決めるのは、わたくしではございません」
「あたしが決めちゃいけないってのかい」
「どなたが決めても構いません。ただ、決めた方が、布を持って石の前にお立ちになります」
ヴィルマさんは口を開きかけて、閉じられました。
「わたくしは、落とすだけです。裁くのは布です」
「……何を言ってるんだか、さっぱりだね」
「落とすと困る方がいらっしゃる染みは、承らないと決めております」
「困るって、誰が」
「存じません。困らないと分かってから、承ります」
ヴィルマさんは、産着を畳み直されました。
袖を内へ折り、肩の線を合わせ、裾を二つに。畳み方が丁寧でございました。貸し物を扱う手でございます。この方は、布を粗末になさる方ではございません。人を粗末になさる方でもございません。ただ、布は、持ち主の手を離れて畳まれると、一度だけ形を変えます。
「銀貨は」
「お持ちくださいませ」
「持って帰らないって言ったろ」
「では、お預かりしておきます。あの方がいらしたときの分に」
「……来ると思ってるのかい」
「存じません」
ヴィルマさんは包みを抱え直して、路地のほうへ二歩お戻りになってから、振り向かれました。
「あんた、変な商売してるね」
「よく言われます」
「まだ来て何日だい」
「九日目でございます」
「九日で三枚断る奴を、あたしは初めて見たよ」
日が落ちてから、ドーラさんが洗い場の隅で火を焚かれました。
わたくしは銀貨三枚を麻布に包んで、帳の表紙の裏へ挟みました。帳には何も書きませんでした。落としていないものには、書く行がございません。
「あんた」
「はい」
「今日のは、断って正解だったのかい」
「存じません」
「正解じゃなくても断るのかい」
「はい」
ドーラさんは火に木を一本足されました。三つのうち、水に浸けてから乾かしたほうの木でございます。
「板、何て書くんだい」
「まだ、決まっておりません」
「早く決めな。名無しを長くやるもんじゃないよ」
わたくしは膝の上で、明日の分の綿を裂いておりました。目に沿って裂きますと、綿は音を立てずに切れます。端から親指の幅で当たりをつけて、あとは手が覚えている幅で裂いてまいります。
ドーラさんの手が、木を持ったまま止まりました。
「あんた、母親そっくりだね。手つきがさ」
わたくしは、顔を上げました。
ドーラさんは、もう火のほうを向いておいででした。木が一本崩れて、火の粉が上がりました。
わたくしは母のことを、この方にまだ、一言も申し上げておりません。
【落としません】
落とすと困る方がいる染みは、承らない。裁くために落とすのではないからでございます。この規則がどちらに効くかと申しますと、たいてい、落とさなかったほうに効きます。
次回は、加害者側の屋敷を覗きます。婚礼の支度で浮かれた広間に、まだ誰も気づいていない白い卓布が敷かれます。




