↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/38

第4話 落とせますが、落としません

喪服の一件から、四日が過ぎました。


 三日目に、初めての客が参りました。魚を扱う家の女の方で、前掛けの裾に鱗と血の混じったものが乾いておりました。銅貨を二枚いただきました。四日目には、そのお隣の方が、お子さんの膝の泥をお持ちになりました。銅貨一枚でございます。


 どちらも落ちる染みでございました。落ちるものは落ちるように落とすだけでございますから、帳に書き付けることもございません。


 持ち金は、銅貨七枚から銀貨一枚と銅貨十枚になりました。


 変わったことがもう一つございます。洗い場の女の方々が、こちらを見ないようにして見るのをおやめになりました。今は、見るときに見ていらっしゃいます。手を止めて、桶の縁に肘を載せて、遠慮なくご覧になる。この町では、そちらのほうが近いのだと分かってまいりました。


「あんた、看板は」


 ヨナスさんが工房の戸口から声を投げてこられました。片手に藍の桶を提げ、もう片方の腕には濡れた布を巻いていらっしゃいます。


「看板でございますか」


「ドーラんとこの端に名無しの女が座ってる。そう言って回るのは、こっちが面倒だ」


「回してくださっていたのでございますか」


「回してない。聞かれたから答えただけだ」


 ヨナスさんは桶を石の上に置いて、腰を伸ばされました。


「板ならある。工房の裏に余ってるのが二枚。墨も貸す」


「ありがとうございます」


「——で、何て書く」


 わたくしは、少し考えました。


「存じません」


「名前だろ、普通は」


「名前を書きますと、名前で選ばれます」


「それの何が困る」


「わたくしを選んでいただいても、困ります」


「じゃあ何で選ばせるんだ」


「布でございます」


 ヨナスさんは片眉を上げて、それから桶を持ち上げられました。


「板は裏に置いとく。決まったら取りに来い」


 その日は、板のことを考えて過ごしました。


 落ちるものを落とします、では長うございます。染み抜き、では、この町の女の方々が全員そうでいらっしゃいます。ドーラさんに申し上げましたら、洗い場と書いておけばいいだろう、と言われました。それでは流しをお貸しする商売になってしまいます。


 昼を過ぎた頃、路地の口に人影が立ちました。


 五十に近い女の方でございます。身なりがよく、外套の裾が乾いておりました。この町の路地を歩いて裾が乾いているのは、荷車でいらした方でございます。


「ここかい。落ちない染みを引き受けるってのは」


「ヴィルマさんじゃないか」


 ドーラさんが桶の陰から顔を出されました。


「上の通りの貸し物屋だよ。婚礼と葬式の衣装を貸してる」


「ドーラ、あんたまだ生きてたのかい」


「あんたこそ」


 ヴィルマさんは笑って、それからわたくしの前に来て、石の縁に銀貨を三枚並べました。並べ方が慣れていらっしゃいます。先に金を見せて話を短くなさる方でございます。


「先に出しとくよ。あたしは値切らない。落ちても落ちなくても、これは持って帰らない」


「まだ、何も伺っておりません」


「聞いてからじゃ、あんたが受けないかもしれないだろ」


 包みを開かれました。


 白い麻の産着でございました。仕立てはこの町のもので、脇の下に足し布がしてございます。育つのを見越して、あとから広げられるようにしてあるのでございます。


 胸から腹にかけて、染みがございました。三つ、重なっております。


 いちばん下が広く、薄く、縁がぼやけております。その上に、細い筋が二本。さらにその上に、爪の先ほどの点が三つ。順に付いたものでございます。下のものが乾いてから上のものが乗っておりますので、間には日が空いております。


 わたくしは日に透かして、それから鼻を近づけました。


「乳と、薬と」


「と」


「血が、少し」


 ヴィルマさんは外套の襟を直されました。


「先月、この町で子が一人死んだ。生まれて四十日でね」


「さようでございますか」


「母親は十九だ。うちで預かってる。奉公の口を探してやってるんだが、あの子はそれを膝に載せたまんま、飯も食わないで座ってる」


「四十日でしたら、この足し布はまだ使っておいでではございませんね」


「……そういうことを、あんたは先に言うのかい」


「申し訳ございません」


「いいよ。誰も言わないから、余計に腹が立つんだ」


 ヴィルマさんは、指で産着の襟をなぞられました。


「落ちるのかい、それ」


「落ちます」


「そうかい」


「乳は日が経っておりますが、まだ縁が緩んでおります。薬はぬるい湯で下へ移せます。血は熱を当てておりませんので、冷たい水で戻ります。三つとも別のものでございますから、順に、別のやり方で」


「じゃあ頼むよ。二日でも三日でも待つ」


「お預かりできません」


 ヴィルマさんの手が、産着の襟の上で止まりました。


「今、落ちるって言ったろ」


「落ちます。けれども、落としません」


「なんでだい」


「この産着は、どなたのものでございますか」


「言ったろ。あの子のだ」


「あの方は、落としてくれと仰いましたか」


 ヴィルマさんは、少しのあいだ黙っておいででした。洗い場の棒の音が、三つ向こうの流しで続いております。


「言うわけないだろ。言えるくらいなら、あたしがここまで来ることもないよ」


「さようでございますね」


「あんたね。あたしが意地悪でやってると思ってるのかい。あの染みがあるかぎり、あの子は前を向かない。奉公先だって、あんなものを抱えた娘は取らないんだよ。落として、畳んで、しまってやる。それでやっと——」


「ヴィルマさん」


「なんだい」


「落ちましたら、この染みがあったことは、どこにも残りません」


 ヴィルマさんは、こちらをご覧になりました。


「布は元に戻ります。戻ったあとで、あったと申し上げても、誰も信じません。ご本人でさえ、そのうち信じられなくなります」


「……それでいいんだよ」


「わたくしにも、そう思われます」


「じゃあ」


「けれども、それを決めるのは、わたくしではございません」


「あたしが決めちゃいけないってのかい」


「どなたが決めても構いません。ただ、決めた方が、布を持って石の前にお立ちになります」


 ヴィルマさんは口を開きかけて、閉じられました。


「わたくしは、落とすだけです。裁くのは布です」


「……何を言ってるんだか、さっぱりだね」


「落とすと困る方がいらっしゃる染みは、承らないと決めております」


「困るって、誰が」


「存じません。困らないと分かってから、承ります」


 ヴィルマさんは、産着を畳み直されました。


 袖を内へ折り、肩の線を合わせ、裾を二つに。畳み方が丁寧でございました。貸し物を扱う手でございます。この方は、布を粗末になさる方ではございません。人を粗末になさる方でもございません。ただ、布は、持ち主の手を離れて畳まれると、一度だけ形を変えます。


「銀貨は」


「お持ちくださいませ」


「持って帰らないって言ったろ」


「では、お預かりしておきます。あの方がいらしたときの分に」


「……来ると思ってるのかい」


「存じません」


 ヴィルマさんは包みを抱え直して、路地のほうへ二歩お戻りになってから、振り向かれました。


「あんた、変な商売してるね」


「よく言われます」


「まだ来て何日だい」


「九日目でございます」


「九日で三枚断る奴を、あたしは初めて見たよ」


 日が落ちてから、ドーラさんが洗い場の隅で火を焚かれました。


 わたくしは銀貨三枚を麻布に包んで、帳の表紙の裏へ挟みました。帳には何も書きませんでした。落としていないものには、書く行がございません。


「あんた」


「はい」


「今日のは、断って正解だったのかい」


「存じません」


「正解じゃなくても断るのかい」


「はい」


 ドーラさんは火に木を一本足されました。三つのうち、水に浸けてから乾かしたほうの木でございます。


「板、何て書くんだい」


「まだ、決まっておりません」


「早く決めな。名無しを長くやるもんじゃないよ」


 わたくしは膝の上で、明日の分の綿を裂いておりました。目に沿って裂きますと、綿は音を立てずに切れます。端から親指の幅で当たりをつけて、あとは手が覚えている幅で裂いてまいります。


 ドーラさんの手が、木を持ったまま止まりました。


「あんた、母親そっくりだね。手つきがさ」


 わたくしは、顔を上げました。


 ドーラさんは、もう火のほうを向いておいででした。木が一本崩れて、火の粉が上がりました。


 わたくしは母のことを、この方にまだ、一言も申し上げておりません。

【落としません】


落とすと困る方がいる染みは、承らない。裁くために落とすのではないからでございます。この規則がどちらに効くかと申しますと、たいてい、落とさなかったほうに効きます。


次回は、加害者側の屋敷を覗きます。婚礼の支度で浮かれた広間に、まだ誰も気づいていない白い卓布が敷かれます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。