第3話 どこでも落ちなかった喪服
六日目でございました。
わたくしの流しの前には、まだ誰も参りません。
三日目に、桶の底を張り替えました。四日目に、川上まで歩いて堰を見てまいりました。五日目には、洗い場の女の方々が使っていらっしゃる棒の握りが、みな同じ位置で減っていることに気づきました。この町の打ち方は、王都の屋敷のそれより高い位置から落とします。水が硬いからでございます。
働いていないと手が荒れませんので、指の割れが治ってまいりました。治ってしまうと困ります。
ドーラさんは何も仰いませんが、朝に一度、湯を余分に沸かして置いていってくださいます。それが返事なのだと思っておりました。
「あんた、暇そうだね」
「暇でございます」
「焦らないのかい」
「焦っても、客は参りませんので」
「そりゃそうだ」
ドーラさんは笑って、それから桶の水を捨てながら仰いました。
「この町でね、よそ者が客を取る道は一つしかないよ。誰かが困り果てて、ほかに行くとこがなくなること。あんたが待ってるのは客じゃない。行き止まりだ」
その日の昼過ぎに、女の方が路地の入口で立ち止まりました。
四十の手前でしょうか。黒い外套の下に、布の包みを抱えていらっしゃいます。抱え方が悪うございました。包みを胸に押しつけて、片手で押さえていらっしゃる。ああして持つと、中の布に折り癖がつきます。
その方は、洗い場の入口で三度、行きつ戻りつなさいました。それから、まっすぐにわたくしの流しへ参りました。ほかの流しには目もくれずに参りましたので、誰かにここだと聞いていらしたのでございます。
「こちらでは、落ちない染みも承ると伺いました」
まだ、そのようなことは一度も申しておりません。けれども、そう伝わっているのでしたら、伺うほかにございません。
「拝見いたします」
「ハンナと申します。石けん商のグレーベルの、家内でございました」
「でございました」
「先月、主人が亡くなりました」
包みを開くと、喪服が出てまいりました。上等な黒でございます。二度は染め直しておりますが、糸は生きております。
染みは胸元にございました。掌ほどの大きさで、縁が濃く、内側が薄うございます。
「三軒の洗い場に持ってまいりました。どこでも落ちませんでした。最後の一軒では、これはもう布を諦めなさいと申されました」
「その三軒は、灰汁をお使いになりましたか」
「……存じません。ただ、みなさま、血だとお思いになったようで」
わたくしは染みを日に透かして、それから鼻を近づけました。
甘うございます。ごく薄く、金気の匂いが混ざっております。
血の染みは冷たい水で落ちます。熱を当てると固まって二度と動きませんが、冷たい水であれば、日が経っていても縁から緩んでまいります。三軒の洗い場は、まず冷たい水をお使いになったはずでございます。それで落ちなかったのでしたら、血ではございません。そして灰汁を当てますと、この匂いのものは黒く変わります。
三軒とも、正しい手順で、間違ったものを相手になさったのでございます。
「奥様」
「はい」
「これは血ではございません。薬でございます。……落としてよろしいのですか」
ハンナ様は、わたくしを見返しました。
「どういう、意味でございましょう」
「落としますと、この染みがあったことは、どこにも残りません。布は元に戻りますが、戻ったあとで、あったと申し上げても、誰も信じません」
洗い場の水音が、いつもより大きく聞こえました。
「胸元でございますね」
「……主人を、抱き起こしましたので」
「縁が濃く、内が薄うございます。外から掛かって、広がったものでございます。飲まれたものが内から上がったのでしたら、こういう形にはなりません。ここに掛かったのは、匙から落ちたか、器が傾いたか。そのどちらかでございます」
ハンナ様は、しばらく黙っておいででした。指が包みの端を握って、また離しました。
「主人は、床について十日で亡くなりました。お医者は、心の臓だと申しました」
「さようでございますか」
「……お尋ねになりませんの。誰が薬を運んでいたのかとか、そういうことを」
「わたくしは、落とすだけです。裁くのは布です」
その方は、初めてまっすぐにわたくしをご覧になりました。それから、包みの布を膝の上で畳み直しました。
「落としてくださいまし。喪が明けましたら、この一着しか着るものがございません」
「承ります」
「……おいくらになりましょう」
「落ちましてから、お決めください。落ちませんでしたら、いただきません」
湯を沸かしました。熱くはいたしません。ぬるい湯でございます。
灰汁は使いません。桶に酢を落として薄め、布を裏返し、染みの下に白い綿を敷きました。落とすのではなく、下へ移すのでございます。移した先が白ければ、何が出てきたのかが見えます。
湯を含ませる。押す。綿を替える。押して、待つ。
布を裏返す。縁から中へ。中から縁へは決していたしません。輪が残ります。
湯を替える。綿を替える。押す。待つ。
いつのまにか、隣の流しの打つ音が止まっておりました。その隣も止まりました。ドーラさんが火のほうから来て、わたくしの後ろに立ちました。
「あんた、酢かい」
「はい」
「灰汁じゃなくて」
「灰汁ですと黒くなります」
「……ふうん」
「ドーラさん。綿をもう三枚、お借りできますでしょうか」
「持ってきな。棚の下の段だ」
ハンナ様が、桶の縁に手を掛けて仰いました。
「あの、押していらっしゃるだけに見えますけれど」
「押しているだけでございます」
「擦らないのですか」
「擦りますと、糸のあいだへ入ります。入ってしまったものは、もう出てまいりません。ですから、上から下へ落とすだけでございます」
「……三軒とも、擦っておいででした」
「みなさま、落としてさしあげようとなさったのでございます」
四度目の綿で、白いものに薄い茶が移りました。
五度目で、はっきりと色が付きました。
染みは、真ん中から抜けはじめました。外の輪郭を残したまま、内側だけが黒い水に溶けて、綿へ吸われてまいります。輪郭は最後まで残ります。最後まで残って、それから、ふいに無くなります。
ハンナ様が、息を止めていらっしゃるのが分かりました。
わたくしは布を水に沈めて、二度すすぎ、絞らずに日向へ運びました。絞ると、糸の目に色が戻ります。
「落ちました」
喪服は、黒でございました。ただの黒でございます。
洗い場の女の方々が、こちらをご覧になっておりました。誰も何も仰いません。一人が口を開きかけて、それから桶に向き直りました。
ハンナ様は、干し場の前にお立ちになったまま、動かれませんでした。
「銅貨で、いかほど」
「三枚いただきます」
「三枚」
「布を傷めておりませんので、それだけでございます」
ハンナ様は財布を出して、それから手を止めて、銀貨を一枚置いていかれました。わたくしがお返ししようとしますと、首を振られました。
「三軒で断られたものを、どうしても、と持ってきたのはわたくしでございます」
わたくしは帳を開いて、その日の頁に一行だけ書きました。
——喪服、麻の裏を当てた黒、胸元、掌ほど。薬。落ちた。
日が傾いてから、ドーラさんが火の前で申しました。
「あんた、グレーベルの家のを引き受けたのかい」
「はい」
「あそこは今、跡目でもめてるよ。旦那が死んだきりで、遺したものがどうこうって」
「奥様は、義弟様と二人でお分けになると仰っておいででした」
「二人ねえ」
ドーラさんは、木を一本、火にくべ足しました。
「あの家に出入りしてる人間は、二人じゃないよ」
ハンナ様は、日が落ちても洗い場から戻りませんでした。
乾いた喪服を膝に載せて、石の縁に腰を下ろしていらっしゃいます。黒い布を、指の腹で何度も撫でていらっしゃいました。
染みのあった場所だけを、何度も。
【落ちました】
落とした後の布は、何があったかを語ります。エルナは何も申しません。申さなくても、染みのあった場所を撫でる指のほうが、勝手に語ります。
次回、金払いのたいへん良い依頼がまいります。落とせますが、落としません。
ブックマークと評価をいただけますと、綿の替えが一枚増えます。




