第2話 灰汁町、水の匂い
王都の宿は、一晩で銅貨が十二枚でございます。わたくしの手元には七枚ございました。
嫁ぐ前の実家に戻るという道もございましたが、リント家の門は昨日のうちに閉じられておりました。妹が侯爵家に入るのでございますから、当然のことでございます。門番の方は気の毒そうな顔をなさいました。気の毒そうな顔をされるのは、七年ぶりでございました。
最初の晩は、大通りの外れの荷揚げ場の軒下で過ごしました。石畳が乾いておりましたので、雨の心配はございません。帳は麻布に包んで、腹に抱えて眠りました。紙は湿気ると縁から波打ちます。人の熱は乾いておりますから、腹に抱えるのが一番でございます。
朝になって、川に沿って歩きました。
坂を下りきったところで、匂いが変わりました。
水と、灰と、少し酸っぱいもの。洗い物の匂いでございます。
灰汁町、と申します。王都の川下、堰の落ち口にへばりついた町で、名前のとおり、灰汁の匂いがいたします。灰を水に浸して上澄みを取ったものが灰汁で、布の脂を落とすのに使います。この町の路地はどこも湿っていて、日の当たる場所には必ず何かが干してございました。
軒から軒へ渡した綱に、洗ったばかりの前掛けが並んでおります。並び方を見れば、その家に子供が何人いるかが分かります。
わたくしはそこで、川べりの共同洗い場を見つけました。
石を組んだ流しが十四、桶が積んであって、女の方が六人ほど働いていらっしゃいます。棒で布を打つ音が、間を置かずに続いておりました。
水が落ちる位置から遠いほど、流しは空いております。わたくしは一番端の、一番遠い流しの前に立ちました。
「あんた」
声をかけてきたのは、六十がらみの女将さんでございました。腕がわたくしの倍ございます。
「見ない顔だね。どこの使いだい」
「使いではございません。洗い場をお借りできませんでしょうか」
「銭は」
「銅貨が七枚ございます」
女将さんは、わたくしの手元をご覧になりました。それから、爪の形をご覧になりました。靴の泥ではなく、爪をご覧になったのでございます。
「あんた、水は冷たいのと熱いの、どっちが好きだい」
「布によります」
「……ふん」
女将さんは、積んであった桶を一つ、足で押して寄越しました。
「そこの空いてるの使いな。銭はあとでいい」
「よろしいのですか」
「うちは場所を貸すだけの商売だからね。二階が空いてる。物置だけど、雨は漏らないよ」
「助かります」
「ドーラだ」
「エルナと申します」
「家名は」
「ございません」
ドーラさんは、それ以上お尋ねになりませんでした。この町では、それが礼儀なのだと後で知りました。
「言っとくけどね。場所は貸すけど、客は自分で取りな。この町の連中は、よそ者に布を預けないよ。布ってのは、家の中でいちばん恥ずかしいもんだから」
「ドーラさん。伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだい」
「川上の堰は、どなたが開け閉めなさいますか」
ドーラさんは桶を持ち上げる手を止めて、少しのあいだ、わたくしを見ておいででした。
「あんた、来て半刻で堰の話かい」
「水が硬うございますので」
「……組合だよ。晒し組合。堰も灰も、あそこが握ってる」
「さようでございますか」
「そこから先は聞くんじゃないよ。この町じゃ、そういうことになってる」
その日、わたくしの流しの前には誰も参りませんでした。
女の方々は働きながら、こちらを見ないようにして見ていらっしゃいます。布を抱えた娘さんが一度、こちらへ寄りかけて、それからドーラさんの流しへ回っていかれました。当然でございます。わたくしなら、わたくしには預けません。
わたくしは桶を洗い、水の落ち方を見て、川上の堰の位置を確かめました。この洗い場の水は硬うございます。石の多い水です。脂は落ちにくく、そのかわり色は抜けにくい。白を晒すには向きませんが、色物を洗うには良い水でございました。
夕方に、ドーラさんが洗い場の隅で火を焚きはじめました。
木を焼いて、灰を溜めていらっしゃるのです。買うのではなく、焼く。この町ではそうするのだと分かりました。
「あんた、火は苦手かい」
「いいえ」
「じゃあ見てな。あたしは説明が下手なんだ」
わたくしは見ておりました。木の種類が三つ混ざっておりました。三つとも別の日に切った木で、一つは水に浸けてから乾かしてございます。理由があるはずでございましたが、その日は伺いませんでした。伺えば教えてくださる方だと分かっておりましたが、六日目の人間が七日目のことを尋ねるものではございません。
水を汲みに行った戻りに、若い女の方が並んで歩いてこられました。桶を抱えたまま、前を向いて仰いました。
「あんた、侯爵家の奥様だったって本当かい」
「本当でございます」
「なんで、こんなとこにいるのさ」
「離縁されましたので」
「……それだけ?」
「それだけでございます」
その方は少し黙って、それから早足になりました。
「あたしなら、屋敷の窓を全部割ってから出てくるけどね」
「窓は、わたくしが磨いておりましたので」
女の方は変な顔をなさって、それきり何も仰いませんでした。
物置の二階には、藁束と、脚の折れた台がございました。
わたくしは麻布を解いて、帳を膝に載せました。表紙の波打ちを指で伸ばして、途中の頁を一枚だけめくりました。
しばらく、その頁を見ておりました。
それから閉じて、麻布に包み直しました。書き足すことは、もう何もございません。
二日目の昼に、男が一人、路地から出てまいりました。
二十代の後半でございましょうか。背が高く、袖をまくった腕の先が青うございます。爪の際も、指の股も青い。染物師の手でございます。
「あんたか。侯爵家から落ちてきたっていうのは」
「エルナと申します」
「ヨナス。そこの染屋の。ザルテ工房」
「存じております。この町の色は、みなお宅の色でございますね」
「よく分かるな」
「軒に干してあるものの藍が、どれも同じ濁り方をしております」
ヨナスさんは片眉を上げて、それから前掛けを外して、わたくしの桶の縁に放りました。麻の厚い前掛けで、裾のほうまで藍が食い込んでおります。
「——で、落ちるのか」
洗い場の女の方々が、手を止めてこちらをご覧になりました。試されているのだと分かりました。
わたくしは前掛けを広げて、日に透かしました。
「落ちません」
「へえ」
「これは染みではございません。染めでございます。糸の芯まで色が入っておりますので、落とすものではございません。落とせば布が先に死にます」
「ふうん」
「ただ」
わたくしは裾の、右の端を指で押さえました。
「こちらは藍ではございません。油でございます。三日ほど前のもので、灯りの油かと存じます。夜にお仕事をなさいましたか」
ヨナスさんは、しばらく黙っておいででした。
「……三日前だな。染めが上がるのを待ってた」
「これでしたら落ちます。ご入用でしたら」
「いや。いい」
「さようでございますか」
「油の染みが一つあったって、誰も困らない」
ヨナスさんは前掛けを取り返して、肩に掛けました。それから、青い手の甲をこちらへ向けました。
「こっちはどうだ」
「落ちません」
「即答か」
「六年、それとも七年でございましょうか。毎日入れておいでですと、そのくらいで手のほうが染まります」
「六年だ」
「では、落ちません」
ヨナスさんは笑いました。声を出さずに、肩だけで笑う方でございました。
「落ちない染みってのを、あんた、どうしてる」
「落ちないものは、落ちないと申し上げます」
「そりゃ商売にならないだろ」
「なりません」
「じゃあ何で食う気だ」
「落ちるものを落とします」
「落ちるものなら、そこの婆さんたちが落とすぞ」
「みなさま、落ちるものと落ちないものを分けるところで迷っていらっしゃいます。わたくしは、そこだけを引き受けます」
ヨナスさんは工房のほうを一度見て、それから、桶の縁を指で弾きました。
「——落ちるか落ちないか、見りゃ分かるってことか」
「見て、嗅いで、透かして、少し当ててみて分かります。分からないものもございます」
「そのときは」
「分かりませんと申し上げます」
女の方々の何人かが笑いました。悪い笑い方ではございませんでした。
ヨナスさんは工房のほうへ戻りかけて、途中で振り返りました。
「うちの灰、三日ごとに替えてる」
わたくしは、顔を上げました。
【落ちません】
ヨナスさんは口が悪うございますが、この方が最後に仰った一言だけは、聞き逃さないでいただきたく存じます。——うちの灰、三日ごとに替えてる。エルナが初めて顔を上げた理由が、そこにございます。
次回、三軒の洗い場が匙を投げた喪服が持ち込まれます。どこでも落ちなかった、とされてきたものでございます。




