第1話 離縁状と、襟の染み
「洗い女のような妻は、当家の格に合わない」
広間の高い天窓から、午後の光が斜めに落ちておりました。その光の中で、ヴァルデン侯爵ユリウス様が離縁状を読み上げていらっしゃいます。列席の親族が十二名。全員がわたくしを見ておりました。
わたくしは、旦那様の襟を見ておりました。
——椿油。それから、白粉。二日前のもの。洗ってはいらっしゃるけれど、灰を替えていない湯で洗ったから、生地の目に残ってしまっている。
あの椿油をお使いになる方を、わたくしは一人しか存じません。
「エルナ。何か申し開きは」
「ございません」
わたくしは頭を下げました。七年ぶんの手が、どこにも数えられないまま終わるのだ、と思いました。悔しいのではございません。ただ、数えられていないだけです。
離縁の理由は二つ読み上げられました。
一、七年のあいだ、世継ぎを成さざること。
二、侯爵家の奥向きを、その格に相応しく差配せざること。
二つ目のところで、親族席の後ろのほうから笑いが漏れました。
「奥向きの差配と申しましてもねえ」
と、大伯母様が扇の陰で仰いました。
「この方は、下の者に混じって桶をお持ちになるのですって。侯爵家の奥様が。ねえ」
「伯母上」
旦那様が短く制されました。この方は声を荒げません。人前で誰かを叱ることを、格に合わないとお考えになるのです。
「言葉が過ぎます。エルナはよく努めた。ただ、努める場所を間違えたのです」
努める場所、と仰いました。
「エルナ。この七年、そなたは何をしていた」
問われましたので、お答えいたしました。
「白布と卓布と、旦那様のお召し物を回しておりました」
「回す」
「洗って、干して、畳んで、また出すまでを回すと申します。この家の布は、日に二度動きます。動かなくなりますと、三日で足りなくなります」
「そういうことは、人に申しつければよいだけであろう」
「申しつけておりました」
「では、何を」
「申しつけた者が、三日ごとに灰を替えているかどうかを見ておりました。替えたと申しましても、替えていないことがございますので」
大伯母様が扇を鳴らされました。
「まあ。見張り番」
親族席が笑いました。旦那様はお笑いになりませんでしたが、止めもなさいませんでした。
「エルナ。それは、務めとは申さぬ」
「さようでございますか」
「務めとは、家の名を高めることだ。そなたのしていたことは、家の中でしていたことにすぎん」
わたくしは卓布を見ておりました。この広間の卓布は、五日前にわたくしが晒したものでございます。日向に置く時間をいつもより長く取りましたので、端の折り目まで白が揃っております。どなたも、そのことをご存じありません。
書面が回されて、印が順に押されていきます。羊皮紙の縁が乾いて反っておりました。
「お姉様」
薄紅の裾が、わたくしの脇で止まりました。妹のアニエスでございます。四つ下の、笑うと目尻の下がる子でした。
「わたくし、存じませんでしたわ。お姉様が、洗い場にまで下りていらしたなんて」
「はい」
「どうして仰ってくださらなかったの。侯爵家の奥様が、下働きの方と同じことを」
アニエスは言葉を探して、それから見つけた顔をいたしました。
「だって、あれはお仕事ではないでしょう?」
わたくしは、そこで一度だけ顔を上げたのだと思います。
妹の髪から、椿油の匂いがいたしました。旦那様の襟に残っていたものと、同じでございました。
「そうでございますね」
わたくしはそう申し上げました。アニエスは安心した顔をして、もとの席へ戻ってまいりました。あの子は昔から、こちらが困っていない顔をすると安心する子でございます。
七年でございます。
この家の布は、朝と夕に動きます。白布が寝台の数だけ、卓布が広間と小食堂と客間に、旦那様の襟が日に二枚、親族が滞在なさる季節にはその倍。桶は十四。湯は四度替える。灰は三日ごと。
どれも、書き付けなければ回りません。書き付けても、覚えていなければ回りません。手は冬に割れます。割れた指で絹を扱いますと糸が引っかかりますので、夜のうちに油を塗って、朝までに乾かしておく必要がございます。
奥向きを差配せざること、と読み上げられました。
「奥様」
家令のボルツが、卓の端に木箱を置きました。五十を過ぎた、帳付けの指の細い方です。
「お持ちになるものを、こちらで検めます。嫁入りの品はお返しいたします。婚礼の衣装、耳飾りが二対、櫛、それから」
「置いてまいります」
「……は」
「衣装も、耳飾りも、櫛も。当家のものでございますから」
わたくしは耳の飾りを外して、木箱に入れました。ボルツの手が、箱の縁で止まりました。
「奥様。それは、リント家からお持ちになったもので」
「わたくしがここで身につけたものは、ここのものでございます」
「……では、何をお持ちになりますか」
わたくしは、脇に抱えていたものを卓に載せました。麻布で包んだ、厚みが指三本ほどの綴じ帳でございます。表紙は水を吸って波打っておりました。七年で三度、綴じ直しております。
「洗い場の帳でございます」
「帳簿でしたら、当家の記録として置いていただかねば」
「家の記録ではございません。いつ、どの布の、何の染みを、どうやって落としたか。それだけを書いたものでございます。わたくしが書きました」
ボルツは表紙をめくって、頁を三枚ほど繰りました。それから、閉じました。
「金勘定は、ございませんな」
「ございません」
「一枚の布に、これだけの行を」
「同じ染みは二度ございませんので」
「……奥様。念のために伺いますが、この帳に、当家の出入りのことは」
「書いてございません」
「布の数も、値も」
「日付と、布と、染みと、落とし方だけでございます」
「では、当家に不都合はございませんな」
「ございません」
ボルツは、もう一度だけ表紙を撫でました。
旦那様は、こちらをご覧になりませんでした。
「たかが帳面だ。持たせてやれ」
「洗い場の道具はいかがなさいます」と、ボルツが申しました。「櫂棒も、木灰の桶も、篩も。あれは奥様がご自分で誂えたものと伺っておりますが」
「置いてまいります。使う者がいるうちは、あそこにあるべきものでございます」
「……さようでございますか」
ボルツは木箱の蓋を閉じて、指で二度、天板を叩きました。
わたくしは立ち上がりました。広間の扉まで十五歩ございます。七年で、何度通ったか数えたことはございません。
「最後にひとつだけ、申し上げてもよろしいでしょうか」
旦那様が、初めてわたくしをご覧になりました。何を言い出すのか、という目でいらっしゃいました。
「洗い場の灰は、三日ごとに替えてくださいませ。替えないと、白いものが黄ばみます」
どなたも、意味が分からないという顔をしておりました。
裏へ抜ける通路は、洗い場の脇を通ります。
戸が開いておりました。石の流しが四つ、桶が十四、壁際に灰の壺。窓の下に篩が伏せてございます。昼の分の湯がまだ湯気を上げておりました。
わたくしは足を止めませんでした。止めますと、直したくなるものが三つございましたので。
通用門まで送ってくれたのは、洗い場の下働きのテアでございました。十六の娘です。前掛けの紐を握りしめて、通路のあいだじゅう黙っておりました。
「奥様」
「テア」
「……お怒りに、ならないのですか」
わたくしは少し考えました。
「怒っても、染みは落ちませんので」
テアは泣きました。袖で顔を押さえて、それから顔を上げました。
「奥様、あの、灰は」
「テア」
通路の奥から、ボルツの声がいたしました。テアを呼ぶ声でございます。娘は肩を跳ねさせて、それから、一度だけ頭を下げて走っていきました。
わたくしは、この子に灰の替え方をまだ教えておりませんでした。教えるつもりでおりました。来月あたりに、と思っておりました。
門を出ますと、風が乾いておりました。
振り返れば、干し場に白布が十七枚。今朝わたくしが上げたものでございます。まだ、白うございます。
わたくしは帳を抱え直して、坂を下りました。
明後日が、灰を替える日でございました。
【落としません】
離縁されたその日に、七年ぶんの引き継ぎを一つだけ残していく話です。「灰は、三日ごとに替えてくださいませ」。屋敷の誰も、意味が分かりませんでした。
次回、行き先のない元侯爵夫人が、灰汁町という水の匂いのする下町に着きます。共同洗い場に、一つだけ空きがございます。
続きが気になりましたら、ブックマークと下の☆☆☆☆☆から評価をいただけますと、エルナの灰が三日ぶん増えます。




