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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第10話 落とせます。ですが、承りません

次の日の昼過ぎに、薄紅が路地の入口に立ちました。


 灰汁町の泥道に、その色は合いません。裾を持ち上げて、地面を選んで歩いてくる歩き方も合いません。洗い場の女の方々が、順に手を止めました。


「お姉様」


「アニエス」


 妹は洗い場の入口で足を止めて、それから中を見渡しました。


「まあ。ここでお働きになっているの」


「はい」


「屋根がありませんのね」


「干し場でございますので」


 アニエスは笑いました。目尻の下がる笑い方は、昔のままでございます。


 供の者が抱えていた包みを、妹はわたくしのほうへ押し出しました。包み方が上等でございました。畳み方は上等ではございませんでした。


「これを、落としていただきたくて」


 広げますと、卓布が一枚出てまいりました。


 麻の、目の詰んだ厚手のものでございます。長さは大卓の一枚分。婚礼の広間に敷くものでございました。


 わたくしは両手で持ち上げて、日に透かしました。


 濁っております。


「一枚だけでございますか」


「三十枚ございますの。でも、三十枚も運べませんでしょう。全部同じ色ですから、一枚あればよろしいかと思って」


「さようでございますね」


 わたくしは布を鼻に近づけました。それから、指の腹で押しました。押した指を離すと、押したところだけがわずかに明るくなり、すぐに戻ります。


「洗ってはいらっしゃいます」


「ええ。三度も洗わせましたのよ。それでもこの色ですの」


「三度目が、いちばん濁っております」


「どうして分かりますの」


「濁りが、糸の内側にございますので。外から付いたものでしたら、洗った回数だけ薄くなります」


 アニエスは首を傾げました。分からないという顔でも、困ったという顔でもございません。話が長いという顔でございました。


「お姉様。落ちますでしょうか」


 わたくしは、湯を沸かしました。


 熱くはいたしません。ぬるい湯でございます。桶に張って、酢を落として薄めます。布を裏返して、下に白い綿を敷きました。


 落とすのではなく、下へ移す。移した先が白ければ、何が出てきたのかが見えます。


 十日あまり前に喪服を落としたときと、同じ桶でございます。同じ湯の温度、同じ酢の量、同じ綿。手が覚えておりますので、考えることは何もございません。


 湯を含ませる。押す。待つ。


「まあ、押していらっしゃるだけ」


「押しているだけでございます」


「擦ったほうが早いでしょうに」


「擦りますと、糸のあいだへ入ります」


「うちの者もそう申しますの。でも、擦らないと落ちないとも申しますのよ。どちらが本当ですの」


「どちらも本当でございます。擦れば早く落ちて、早く戻らなくなります」


 アニエスは石の縁に腰を下ろしました。裾が泥に触れて、少し持ち上げ直しました。


「お姉様。あのね」


「はい」


「わたくし、十年前のことを、少しだけ思い出しましたのよ」


「さようでございますか」


「お母様が亡くなったあと、お姉様がわたくしに言ったでしょう。手を出してごらんなさい、って。灰の壺の前で」


「申しました」


「わたくし、習わなくてよろしい、って申し上げましたわね」


「はい」


「あれ、意地悪で申したのではありませんのよ」


 わたくしは綿を替えました。


 一枚目の綿には、何も移っておりませんでした。


「怖かったんですの」


「はい」


「習ってしまったら、わたくしまで洗い女になってしまうでしょう? お姉様は平気でいらしたけれど、わたくしは平気ではありませんでしたの」


「さようでございますか」


「今も平気ではありませんのよ。ですから、こうしてお姉様にお持ちしましたの」


 二枚目の綿を敷きました。


 湯を替える。押す。待つ。


 濁りは、三度目の押しで動きはじめます。糸の内側にあるものは、外から引くのではなく、下から抜けてまいります。抜けはじめたところは、指の腹に返ってくる硬さが変わりますので、目で見るより先に分かります。


 変わりました。


 わたくしは手を止めました。


 止めた手を、桶の縁に置きました。水面が揺れて、卓布の端が沈みかけましたので、それだけを直しました。


「お姉様?」


「アニエス」


「なあに」


「この一枚は、落とせます」


「まあ、よかった」


「三十枚とも落とせます。三日いただければ、婚礼に間に合います」


「では」


「ですが」


 妹が顔を上げました。


 洗い場の打つ音が、どこかで一つ止まりました。


「落とせます。ですが、承りません」


 アニエスは、しばらくわたくしを見ておりました。それから、笑いました。


「お姉様。お戯れでしょう」


「いいえ」


「だって、落とせるとおっしゃったばかりですわ」


「落とせます」


「では、なぜ」


「承りません」


「なぜ、と伺っておりますの」


「申し上げますと、言い訳になりますので」


 妹は立ち上がりました。裾のことは、もう気になさいませんでした。


「お金ならございますわ。いくらでも。ボルツが金貨で八枚と申しましたけれど、足りませんの? でしたら」


「値の話ではございません」


「では何ですの」


「承らない、というだけでございます」


「お姉様」


 アニエスは、卓布の端を両手で握りました。


 それから、頭を下げました。深く下げました。この子が人に頭を下げるところを、わたくしは初めて見ました。


「お願いいたします。お姉様にしか落とせないと、みなが申しますの」


「みなさま、と申しますのは」


「ボルツも、クレタも、布商も。この色は、先の奥様でなければ戻らないと。……どうしてお姉様にしかできませんの。ただの洗濯でしょう」


 ——わたくしにしか落とせない。


 そう申される意味を、わたくしはまだ存じません。手順は決まっております。湯の温度も、灰を替える日も、押す向きも、綿を替える回数も、全部が決まっております。決まっているものを、なぜわたくしにしか、と申されるのか。


 母は、これをわたくしに渡しました。母も、どなたかから受け取ったはずでございます。受け取れるものは、渡せるものでございます。


 それなのに、わたくしにしか落とせないと、みなさまが仰る。


 どこで、渡せないものになったのでございましょうか。


「アニエス」


「はい」


「顔をお上げくださいませ」


 妹は顔を上げました。目が赤うございました。この子は泣くのが早うございます。


「この一枚を落としても、残りの二十九枚は明日も同じ色でございます」


「では、二十九枚も」


「三十枚を落としましても、三日で戻ります」


「どうして」


「灰でございます」


 アニエスは、灰、と繰り返しました。


「洗い場の灰は、三日ごとに替えるものでございます。足すのではなく、替えるのでございます。替えずに足しますと、前に落ちたものが湯へ戻って、布へ入ります。ですから洗うほど濁ります」


「では、それを教えてくださればよろしいでしょう」


「はい」


「教えてくださいまし」


「それも、承りません」


 妹は口を開けて、閉じました。


 石の縁の卓布が、風で少しめくれました。わたくしは端を押さえて、畳みはじめました。畳んで、包み直して、妹の手に載せました。


 二枚目の綿は、白いままでございました。


「お姉様。ひどいことをなさいますのね」


「さようでございますか」


「わたくし、頭を下げましたのよ」


「はい」


「お姉様は、いつもそう。怒りもなさらない。何もおっしゃらない。それで、こちらが悪いような顔をなさるのよ」


「悪い顔をしているつもりはございません」


「していらっしゃるわ」


 アニエスは包みを胸に押しつけて、片手で押さえました。ああして持ちますと、中の布に折り癖がつきます。


 妹は路地の入口まで歩いて、それから振り返りました。


 薄紅の裾は、もう泥で汚れておりました。


「お姉様がいなくても、婚礼はできますわ」


 馬車の音が坂を上っていきました。


 わたくしは桶の湯をそのままにして、しばらく見ておりました。


 綿は、二枚とも白いままでございました。

【落としません】


初めての拒絶でございます。アニエスは技を習いませんでした。習えば洗い女になると思っていたからでございます。十年前のその判断が、ここから先ずっと効いてまいります。


次回、断った翌日に、灰汁町の水が止まります。


評価の☆は、井戸の水の一杯に代えさせていただきます。

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