第11話 断った代償
翌朝、水が参りませんでした。
共同洗い場の樋は、川上の落ち口から引いております。朝いちばんに来るはずの水が、日が昇っても細いままでございました。細いというより、垂れているだけでございます。
「ドーラさん」
「見りゃ分かるよ」
ドーラさんは樋の口に手を突っ込んで、抜いた手の甲を見ました。濡れておりません。
「堰だね」
洗い場の女の方々が集まってまいりました。十人ほどでございます。桶を抱えたまま、誰も置きません。置いたら仕事が終わってしまうからでございます。
「ゆうべは来てたよ」
「夜中に落としたんだ」
「上の水番は」
「水番はもう三年、組合の人間だよ」
路地のほうから、老人が一人下りてまいりました。腰の曲がった、井戸番のヘルマンさんでございます。この町の井戸を四つ見ておいでの方でした。
「東の井戸、水位が二尺下がってる」
「二尺」
「ゆうべの半分だ。西のもだ。川の水を止めりゃ、地の下の水も下がる。同じ水だからね」
わたくしは樋の口を見ておりました。落ち口の縁に、乾ききっていない筋が残っております。堰を落としたのは夜半、それも一度に、でございました。
昼前に、若い男が一人、坂を下りてまいりました。
外套が濡れておりません。この町の路地を歩いて外套が濡れていないのは、馬車を降りて三十歩しか歩いていない方でございます。
「晒し組合の使いだ。オイゲンという」
ドーラさんが桶を置きました。置いたのは、この日はじめてでございました。
「上の堰の話かい」
「堰は組合の持ち物だ。開け閉めは組合が決める。当分、落としたままにする」
「当分って、いつまでだい」
「決まっていない」
「うちらは洗い屋だよ。水がなけりゃ商売にならない」
「そう伝えろと言われた。それだけだ」
オイゲンさんは帳面を出して、頁を繰りました。
「それと、今月の灰の割り当てだが。この洗い場の分は後回しになる」
「後回しって、順番待ちってことかい」
「順番は組合が決める」
「灰なんてもんはね、買うもんじゃないよ。焼くんだ」
「焼くための木は、どこの山のを買ってる」
ドーラさんは答えませんでした。
オイゲンさんは帳面を閉じて、洗い場の端のほうへ目をやりました。わたくしの流しでございます。
「川下の端の流し。あそこに越してきた女がいるだろう」
「いるよ」
「侯爵家から出てきた口だと聞いた」
「それが何だい」
「別に。長は、そういうことを覚えている人だ」
オイゲンさんは坂を上っていきました。三十歩で馬車に届きます。
樋の口からは、まだ水が垂れておりました。垂れる音は、水が来ている音とよく似ております。似ておりますが、桶に溜まる速さがまるで違います。半刻で指一本ぶんでございました。この洗い場の流しは十四ございます。
女の方々は誰も口を開きませんでした。わたくしのほうを見ないようにして、見ていらっしゃいます。桶を抱え直す音だけが、あちこちでいたしました。
「あの、悪いけど」
一人が言いかけて、やめました。言いかけたところで、ドーラさんが桶を蹴ったからでございます。
「あたしの裏の井戸を開ける」
「ドーラさん、あそこは」
「十二年、蓋をしてた井戸だ。使えるかどうかは汲んでみりゃ分かる」
「十二年って」
「開けるよ。手を貸しな」
石の蓋は男二人がかりで動きました。蓋の裏には苔が乾いて張りついており、剥がすと下から白い輪が出てまいりました。十二年、そこに水面があった跡でございます。今の水面は、その輪より一尺半ほど下にございました。
ヘルマンさんが縄を下ろして、桶を落として、引き上げました。縄の濡れた位置を、老人は目で測っておいででした。
上がってきた水を、わたくしは日に透かしました。
それから、匂いを嗅ぎました。
「ドーラさん」
「なんだい」
「この水は、色物には良うございます。白いものには向きません」
「鉄かい」
「はい。舌に載せますと分かりますが、載せるまでもございません。桶の縁に、もう筋がついております」
ドーラさんは桶の内側を指でなぞって、その指を見ました。うっすらと赤茶が付いております。
「使えるじゃないか、色物なら」
「はい。今日の分は、色物から回してくださいませ。白いものは、明日以降にしていただけますでしょうか」
「明日、水が来なかったら」
「明後日にしていただきます」
女の方々が動きはじめました。誰かが白布を桶から出して、脇へ寄せました。誰かが藍の前掛けを桶に沈めました。動きはじめると早うございます。この町の方々は、決まったことには文句を仰いません。
昼を過ぎて、ロッテさんが小さな包みを持って参りました。
開くと、赤子の掛け布でございました。木綿の、何度も洗った柔らかいものでございます。
全体が、薄い赤茶に染まっておりました。
「朝いちばんに、井戸の水で洗っちまって」
「どちらの井戸でございますか」
「東のです。ヘルマンさんが下がってるって言う前に、汲んじまって」
わたくしは日に透かしました。
染みではございません。染みには縁がございます。縁が濃いか薄いか、外から掛かったか内から上がったか、そういうものが必ず残ります。
これには、縁がございませんでした。端から端まで、糸の一本ずつが同じ色をしております。襟も、袖の内側も、縫い代の折り込まれたところまで同じでございました。
「落ちません」
ロッテさんは、包みの布を握りました。
「三日前のは落としてくれたのに」
「あれは、糸の上に載っていたものでございました。これは、糸と結びついております」
「結びつく」
「井戸の底の鉄が、水に混ざって上がってまいりました。木綿は鉄をよく吸います。吸ったところへ日を当てますと、鉄が布のものになります。ロッテさんは、洗ってすぐ干されましたね」
「……干しました。よく乾かそうと思って」
「日に当てたところで、決まってしまいます」
「酢は。この前、酢をお使いでしたでしょう」
「酢では薄くなるだけでございます。薄くなったところへまた日が当たりますと、戻ります。灰を使えば落ちますが、そのころには木綿のほうが先に破れます」
「じゃあ、どうすれば」
「どうにもなりません」
ロッテさんは掛け布を膝に載せました。
「祝いの晴れ着は、あんなにきれいにしてくださったのに」
「はい」
「同じ子の掛け布なんです」
「もう一枚お作りになるほうが早うございます。これは、洗わずに仕舞ってくださいませ。もう一度洗いますと、色がまだらになります。今のままでしたら、一色でございます」
「一色なら、いいんですか」
「一色は、色でございます。まだらは、染みでございます」
ロッテさんは掛け布を畳みました。畳み方が、この前より上手になっておりました。
日が傾いてから、ヨナスさんが樽を転がして下りてまいりました。
「工房の樋に溜めてたやつだ。雨水だから軟らかい。白いのはこれで洗え」
「ヨナスさん」
「二樽ある。明日もう二樽出す。それ以上は無い」
「うちは色物で回してるよ」
「知ってる。だから白いのだけだ」
ヨナスさんは樽の蓋を開けて、中を覗きました。それから、わたくしのほうを見ました。
「——で、落ちるのか」
「その水でしたら、落ちます」
「上等だ」
ドーラさんが火を焚きはじめました。木を三種、いつもの順に組んでおいでです。一つは水に浸けてから乾かしたものでございます。
ヨナスさんは樽を石の脇に据えて、手の甲で額を拭きました。青い手でございます。
「あんた、昨日、侯爵家の妹に何か言ったな」
「承りません、と申し上げました」
「そうか」
「それだけでございます」
「堰が落ちたのは今朝だ」
「はい」
ヨナスさんは工房のほうを一度見て、それから桶の縁を指で弾きました。
「使いが工房にも来た。染物のほうの灰も止まる」
「ヨナスさんのお仕事に障ります」
「障る」
「申し訳ございません」
「謝るな。俺が謝られる筋合いはない。——それより、伝言だ」
「伝言」
「組合の長が、あんたに会いたいってさ」
【落ちません】
水を止めますのに、悪意の顔は要りません。堰の板を一枚上げるだけでございます。下町が握られているというのは、その一枚のことでございます。
次回、藍の工房で並んで働きます。ヨナスさんは染める人、エルナは落とす人。同じ水を使う、対の職でございます。




