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その染みは、わたくしにしか落とせません  作者: 桜庭ルナ


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第12話 藍と、白

水が止まって、三日でございました。


 共同洗い場の樋は乾いております。この町の水は堰の落ち口から引いておりますので、上で締められますと、二十の流しがまとめて止まります。


 ドーラさんの井戸は一つきりでございます。二十人からの女の方が順に汲みますので、わたくしの番は日が落ちてからでございました。


「あんた、今日も夜かい」


「はい」


「悪いね。うちの井戸は浅いんだ」


「充分でございます」


 桶に半分。すすぎに使えば一度で終わります。白いものはすすぎを三度いたしませんと、いったん落としたものが糸へ戻ってまいります。


 灰の壺は、底が見えておりました。


「灰屋には」


「今朝、断られました」


「値をつり上げてきたのかい」


「いいえ。売れないと」


 ドーラさんは、それきり何も仰いませんでした。この町の灰屋は、組合から仕入れております。


「あんたのせいじゃないよ」


「はい」


「そう言うと思った」


 その日の朝に、布を抱えた女の方が一人、路地の入口までいらっしゃいました。


 樋を見て、流しを見て、それから包みを抱え直して戻っていかれました。声はお掛けになりません。水の出ていない洗い場に布を預ける方はございません。


「行っちまったね」


「はい」


「追いかけないのかい」


「追いかけて、何をお約束いたしましょう」


「そりゃそうだ」


 わたくしは桶の底に残った水で、自分の手を洗いました。手が汚れていなければ、次の布も汚れません。それだけが、水のあまり要らない仕事でございます。


 昼過ぎに、路地の入口から声がいたしました。


「おい」


 ヨナスさんでございました。腕をまくったまま、手招きをなさいます。


「水、要るか」


「要ります」


「うちの井戸は深い。工房のぶんを汲んでも余る」


「よろしいのですか」


「よくない。組合に知れたら、うちも灰を止められる」


「では」


「だから裏から来い」


 ザルテ工房は、路地を二本入った奥にございました。


 戸を開けますと、匂いが変わります。藍は、酸いような、青いような、少し土に似た匂いがいたします。土間に甕が七つ、床へ埋めて並んでおりました。


「そっちの三つは寝てる。触るな」


「寝る、と申しますか」


「藍は生きてる。灰と、糠と、湯で建てる。機嫌が悪いと沈む」


「灰でございますか」


「灰だ」


 わたくしは甕の縁を覗きました。液の面に細かい泡が寄って、紫がかった膜を張っております。


「この甕の灰は」


「三日ごとに替えてる」


 わたくしは、しばらく甕を見ておりました。


「同じでございますね」


「何が」


「わたくしが白を保つために替えていた灰と、あなたが色を入れるために替えていらっしゃる灰が。同じものでございます」


「そりゃそうだ。同じ木を焼いてる」


 ヨナスさんは、まくった袖を直しながら仰いました。


「あんたは落とす。おれは入れる。使うもんは同じだ。水と、灰と、湯の加減」


「はい」


「向きが逆なだけだな」


「ヨナスさんは、白はお扱いになりませんか」


「扱えない」


「なぜでございましょう」


「見ろ」


 ヨナスさんは、天井の梁を指されました。梁も、柱も、壁の漆喰まで、うっすらと青うございます。


「甕が七つあると、湯気が上がる。上がったもんは、全部どこかに降りる。ここに白いものを一晩置いてみろ。朝には空の色になってる」


「さようでございますか」


「だから白の注文は、染めないぶんだけ気を遣う。触らないように、触らないように置いとくんだ」


「その替え方は、どなたにお習いになりましたか」


「親父じゃない」


「では」


「昔、この町にいた人だ」


 ヨナスさんは、それきり甕のほうへ行っておしまいになりました。


 井戸は、工房の奥の庭にございました。


 わたくしは桶を三つお借りして、南の隅に並べました。白いものを日に当てるには、水と、時間と、開けた場所が要ります。この庭は南が空いておりました。


 甕から布が上がります。藍から出たばかりの布は緑色でございます。それが風に触れて、端のほうから青へ変わってまいります。ヨナスさんは布を掲げたまま、変わり終わるまで動きません。


 わたくしは白布を水へ沈めて、日の向きを見ておりました。


 この庭の日は、昼を過ぎますと西の塀に切られます。白を上げるには、朝のうちに三度すすいで、昼までに掛けなければなりません。屋敷では、日の道を覚えるのに二年かかりました。


 しばらく、二人とも黙っておりました。手だけが動いておりました。


「おい」


「はい」


「湯、要るか」


「いただきます」


 ヨナスさんは火の鍋から湯を運んで、わたくしの桶へ足しました。指を入れて、少し足して、もう一度指を入れました。


「これでいいか」


「結構でございます」


 わたくしも、温度を確かめるつもりで指を入れました。確かめ終わってからも、しばらく入れておりました。


 夕方近くに、奥から少年が飛び出してまいりました。十四か、十五でございましょう。


「親方」


「トビアス。走るな」


「襟布が」


 少年の両手に、白い布が広がっておりました。婚礼の襟布でございます。上等な白麻で、縁に細かい返し縫いがしてございます。


 その真ん中に、透きとおった染みが三つ。


「糊か」


「防染の糊を置いたままにして……甕の湯気で、乾いてしまいました」


「明後日が婚礼だぞ」


「はい」


「染め直しはきかない。白の注文だからな」


「はい」


 ヨナスさんは布を受け取って、日に透かしました。それから下ろして、こちらをご覧になりました。


「——で、落ちるのか」


「拝見いたします」


 布を広げて、日に透かしました。糊は三か所。いちばん大きいもので、親指の腹ほど。縁がはっきりしております。乾いてから、まだ半日と経っておりません。


「落ちます」


「本当か」


「糊は、急ぎますと落ちません。時をかけて、戻します」


「戻す」


「乾いた糊は縮んで、糸に食い込んでおります。剥がしますと、糸のほうが先に起きます。剥がさずに、元の嵩まで戻してから流します」


「擦るのは」


「いたしません。擦りますと、砕けて糸のあいだへ入ります」


 ぬるい湯を桶に張って、布を伏せました。浸けるのではございません。染みのところだけを湯の面に触れさせて、上には何も載せません。


 湯を熱くいたしますと、表だけが先に緩んで、中の乾いたものが残ります。残ったところに輪ができます。輪は、あとから追いかけても消えません。


 半刻。


 指の腹で、縁のところだけを押しました。押して、放します。押したままにいたしますと、緩んだものが横へ寄ります。


 もう半刻。


 三度目に押したとき、糊は指の下でわずかに動きました。動くようになりましたら、あとは水が運んでまいります。


 布を返して、日に透かしました。透きとおったものは、三つとも消えております。


「消えたな」


「まだでございます。糊は抜けましたが、糊に混ぜてございます糠の脂が残っております」


「見えないぞ」


「日に透かしますと、こちらだけ曇っております。このままにいたしますと、半月で黄ばんでまいります」


「半月」


「婚礼のあとで黄ばむものは、たいてい二度と着られません」


「……灰、要るか」


「上澄みだけ、少しいただけますか」


 甕の脇の壺から、上澄みを椀に一杯いただきました。ぬるい湯で薄めて、曇っているところにだけ含ませます。


 縁から中へ。中から縁へは決していたしません。輪が残ります。


 すすぎを三度。絞りません。絞りますと、目に脂が戻ります。


 庭の綱へ掛けますと、白麻は日を通しました。透かしても、どこも曇っておりません。


「落ちました」


 トビアスは、綱の前に立ったまま動きませんでした。


「あの」


「はい」


「どうして、水で落ちるものと落ちないものが分かるんですか」


「同じ染みが二度ないからでございます。二度ないものを、二千ほど見ますと、分かるようになります」


 少年は、しばらく数えるような顔をしておりました。


 トビアスが奥へ戻ってから、ヨナスさんが綱の下へ来て、白麻を裏から見上げました。


「二千枚か」


「二千の染みでございます。布は、もっと少のうございます」


「数えてたのか」


「帳に書いてございますので、数えれば分かります」


「数えたことは」


「ございません」


 日が落ちてから、ヨナスさんが甕の蓋を閉めて回っておいででした。


「あんた、明日も来い」


「よろしいのですか」


「水はある。灰もある。あんたは場所がない」


「はい」


「うちは白が扱えない。あんたは色が扱えない。喧嘩にならん」


「なりません」


 ヨナスさんは最後の蓋を閉めて、それから青い手を洗いはじめました。何度洗っても、その手は青いままでございます。


「なあ」


「はい」


「落とせない染みって、あるのか」


「染めではなく、でございますか」


「染みで」


 わたくしは、桶の水を見ておりました。


「ございます」

【落ちました】


落とせない染みって、あるのか。——ございます。この二言が、第一部でいちばん遠くまで効きます。どの布のことかは、まだ申し上げません。


次回、灰と水利を握る晒し組合の長がまいります。エルナを憎んではいない、と仰る方でございます。

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