第13話 晒し組合のマレーナ
組合の長が会いたいと申している——ドーラさんがそう仰ったのは、水が止まって五日目のことでございました。
「行くのかい」
「参ります」
「断ってもいいんだよ」
「断りますと、次は文で参ります。文になりますと、証文になります」
「……あんた、屋敷でそういうのを見てきたんだね」
「見ておりました」
その晩、物置の二階で帳を開きました。
屋敷におりましたころ、組合から人が参ったことが二度ございます。二度とも、こちらが頭を下げて終わりました。頭を下げれば済みますのは、下げる先に家の名があるからでございます。
今は、ございません。
川上へ、半刻ほど歩きます。
堰の落ち口を過ぎますと、水の色が変わりました。石の粉が沈むからでございます。ここから上の水は柔らこうございます。白を上げるなら、この水でございました。
道は川に沿っております。荷を積んだ車が二台、わたくしを追い越していきました。積んでおりますのは灰の俵でございます。俵の口が、縄で二重に縛ってございました。
灰は湿らせますと使えません。二重に縛るのは、雨よりも川霧を防ぐためでございます。運ぶ手順まで決まっているということでございました。
途中まで、ヨナスさんが並んで歩いてくださいました。
「ここまでだ」
「ヨナスさん」
「染屋は組合の敷地に入れない。三代前からの決まりだ」
「さようでございますか」
「あんた、殴られたら大声を出せ」
「出しません」
「だろうな」
組合の干し場は、堰のすぐ下にございました。
綱が十六本。白布が並んでおります。数えかけて、やめました。同じ丈で、同じ間隔で、同じ白でございます。
干し場は、石を敷いた台地になっておりました。草が一本も生えておりません。草の種が飛びますと布に付きますので、根まで抜いてあるのでございます。
女の方が十数人、綱の下を歩いておいででした。歩きながら、布の裾を指で弾いていらっしゃいます。乾き具合を音でご覧になっているのでございます。音で分かるようになりますまでには、三年ほどかかります。
その白の中に、一人だけ黒い前掛けの方が立っておいででした。
四十を少し過ぎたくらいでしょうか。背は高くございません。腕が太く、手の甲に古い火傷の痕が三つ。灰を扱う手でございます。
その方が動かれますと、綱の下の手が、一度だけ揃って速くなりました。速くなってから、また元に戻ります。この方が来ると速くなる、という体になっているのでございます。
「あんたがエルナかい」
「はい」
「マレーナ。組合の長をしてる」
「お呼びと伺いました」
「呼んだ。座らせると話が長くなるから、立ったままでいい」
「はい」
マレーナさんは脇の台から布を一枚取って、わたくしの前に広げました。
白麻でございます。仕上がったばかりのもので、端がまだ固うございました。
「これを見な」
「拝見いたします」
布そのものは、良い仕事でございました。目が詰んでいて、縦と横の張りが同じでございます。ここまで揃えるには、水へ入れる前の段階から手が要ります。
日に透かしました。端から指四本ほどのところに、楕円の跡がございます。内が白く、輪郭が薄い茶。
匂いを嗅ぎました。何も残っておりません。指の腹で押しますと、跡の内側だけ、生地が硬うございました。
「染みかい」
「染みではございません」
「ほう」
「落とした跡でございます」
マレーナさんは、腕を組み直されました。
「続けな」
「もとの染みは、この輪の内側にございました。油かと存じます。灯りの油ではなく、髪につけるほうの油かと」
「なぜ油だと」
「輪の内側の糸が、まだ少し重うございます。水の跡でしたら、こうはなりません」
「それで」
「落とした方は、中から縁へ向けて動かしていらっしゃいます」
「なぜ分かる」
「輪郭が外に残っておりますから。内から外へ押しますと、溶けたものが縁で止まって、そこで乾きます。乾いたところが輪になります。縁から中へ寄せていれば、残りません」
マレーナさんは、何も仰いませんでした。
「それから、擦っていらっしゃいます。輪の内側だけ、糸が痩せております」
布は正直でございます。急いだ手は急いだ跡を残し、迷った手は迷った跡を残します。この布を仕上げた方は、同じところで何度も迷っておいででした。
「……四度目だよ」
「はい」
「うちの若いのが仕上げた。ハイケっていう。二十歳だ。四度やり直して、四度とも同じ輪を作った」
「はい」
「落ちるかい」
「落ちます」
「どのくらいで」
「湯を替えながらで、半日ほどでございます。ただ、痩せた糸は戻りません」
「じゃあ、今ここで落としてみな」
「いたしません」
マレーナさんは、そこで初めてわたくしの顔をご覧になりました。それまでは手を見ておいででした。
「できないのかい」
「輪でしたら消せます」
「じゃあ、やりな」
「この布はハイケさんのものでございます。ご本人の手で落とされるほうが、よろしゅうございます」
「なんでだい」
「一度ご自分で消しますと、二度と作りませんので」
風が来て、綱の白が一斉に膨らみました。
「あんた、うちの子に教える気かい」
「教えられます」
「そうかい」
マレーナさんは布を取り返して、畳まれました。畳み方が速うございました。三つに折って、角を合わせて、それで終わりでございます。
「じゃあ、なおさら困るんだよ」
「はい」
「あんた、なんで組合ってものがあるか分かるかい」
「灰と、水と」
「腕を揃えるためだよ」
マレーナさんは、顎で綱の白を示されました。
「ここに二百枚ある。全部おなじ白だ。誰が晒しても同じ白になる。だから王都の家は、うちに出す。誰に当たるか考えなくていいからね」
「はい」
「あんたみたいのが一人いると、そこだけ白が違う。違う白があると、客は比べる」
「はい」
「比べられたら、うちの二百枚が全部、落ちきってない布になるんだよ。二百枚だ。うちには百二十人いる。その子らの飯が、その日から半分になる」
「さようでございますか」
「腕は認めるよ。認めるから、困るんだ」
わたくしは、干し場の白を見ておりました。
端まで白が揃っております。四隅の折り目まで揃えるのは、一人ではできません。百二十人が同じ手順を守っているということでございます。
屋敷の干し場には、白布が十七枚ございました。あれは、わたくし一人が見ておりました。一人で見ているものは、その一人がいなくなれば終わります。
ここは、百二十人で見ております。
「揃っております」
「なんだって」
「端の折り目まで揃っております。人を揃えるほうが、白を揃えるより難しゅうございます」
マレーナさんは、しばらく黙っておいででした。
「……町を出な」
「参りません」
「なんでだい」
「場所がございますので」
「ドーラの物置の二階だろう」
「雨が漏りません」
マレーナさんは笑われました。笑ってから、すぐにおやめになりました。
「あんた、怒鳴らないんだね」
「はい」
「あたしは今、あんたの飯の種を取り上げる話をしてるんだよ」
「はい」
「怒っていいんだよ。怒ってくれたほうが、こっちも気が楽だ」
「怒っても、灰は焼けませんので」
マレーナさんは、火傷の痕のある手で前掛けの紐を結び直されました。
「……妙なことを聞くけどね」
「はい」
「あんた、ヴァルデン侯爵家にいたんだって」
「おりました」
「あそこの北の御領は、楢がいい。焼くと灰が締まる。うちの灰は、半分があそこの木だ」
「さようでございますか」
「あんたが出ていってから、あそこの家令が、ずいぶん熱心に売りに来るようになったよ」
わたくしは、何も申し上げませんでした。
マレーナさんも、それ以上は仰いませんでした。
「灰は売らない」
「はい」
「堰も、あんたのいる洗い場のぶんだけ細くする。ドーラには気の毒だが、あの婆さんが誰を置くか決めることだ」
「はい」
「言っとくけどね。あたしはあんたを憎んじゃいない」
「存じております」
「憎めたら、楽なんだけどね」
マレーナさんは干し場の端まで歩いて、綱の一本を掌で叩かれました。布が張って、乾いた音がいたしました。良い音でございました。
マレーナさんは、畳んだ布を台へ戻されました。
「灰は売らない。あんたが町を出るまでね」
【落としません】
マレーナさんは、悪人らしい台詞を一つも仰いません。技を認めたうえで、認めたからこそ潰しにかかられます。「憎めたら、楽なんだけどね」。この方の言い分は、たいてい正しゅうございます。
次回、第二章の終わりです。灰が、なくなります。




